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「推定人口2%」の「人気者」になりたかったけれど、なれなかった理由。

 学校というのは、強引なシステムだと、もう学校に行かなくなってかなりの時間が経ってからでも、やっぱりそんなふうに思うことがある。


小学校

 生まれてから7年くらい。まだ、いろいろとおぼつかない時期なのに、急に同じ歳、という区分けで、狭い教室にかなりの人数を入れられ、そして、一斉に同じことを習う。

 小学校という場所に行って、勉強をするらしい。

 そんなことをぼんやりと思っていても、何をしたらいいか分からないし、その前に幼稚園とかに一緒に行っていたり、もしくは近所で知っている子が同じクラスにいなければ、誰も知らない場所に一人で通わなくてはいけない。

 周囲には、どうやら同じ歳の子どもしかいなくて、教室にいる大人は先生という存在らしいけれど、何かを手助けしてくれるわけではなく、言うことを聞きなさい、と繰り返しているような気がする。

 だから、たぶん、ちょっと怖かったのだと思う。

 言語能力も低く、愛想がよくなく、運動能力も足りず、社交性が高くもないと、ただ黙って一日がすぎることも少なくなく、そうした積み重ねで、徐々に疎外感だけが募っていく毎日だったけれど、それが悲しかったり辛かったりも、たぶん、わかっていなかった。

 それでも、男子だったせいか、クラスにかわいい女子がいることには気がついていて、その子のことは、時々、そっと様子をうかがっていたかもしれないけれど、何しろ、物理的にも心理的にも距離が遠かったから、詳細を覚えていない。

 自分が人の輪に入ることがほとんどなかったので、教室の中の人気者、という存在には、まだそれほど気がついていなかった。ただ、自分も少し関心があったかわいい子は、たぶん、人気者の一人だったのだと思う。

 教室のすみに、ただおとなしくいる私のような人間の回想は、微妙に気持ち悪いような気もするけれど、そこが自分の居場所、という確信は持てたことがないと、そんなふうにぼんやりとした印象になりがちだと思う。自分は、そこにいるけれど、教室は(気持ち的に)ちょっと遠い場所だった。

 人気者。普通の人。そこにも所属できない、それ以外の人にとって、学校はそんな感じなのだと思う。

 そうして、首都圏の小学校で約2年がたとうとする頃、今度は、中部地方に父親が転勤するため、自分も転校することになった。

 変化するのは嫌だったけれど、それまでの小学校がとても楽しかった記憶も薄いから、それほどの抵抗感はなかったと思う。

 だけど、それまでとは全く違う場所に行くことへの不安はあった。

転校

 引っ越した先は、言葉も違っていた。

 方言というものも初めてだったけれど、そこに住んでいる人たちにとっては、私の話している言葉の方が異質だった。

 それを、からかわれ、珍しがられた。

 首都圏の小学校と違っていたのは、その規模だった。
 1学年1クラスしかないので、全校でも約210名ほど。

 家から学校まで、周囲が畑や田んぼや林のような場所を通って歩いて、だいたい30分くらい。毎日、その距離を歩くのも最初は遠くも感じたのだけど、そのうちに慣れた。

 その学校では、給食を、体育館のような場所で一斉に食べるような習慣があり、生徒がそれほど多くないせいか、校長先生が、生徒全員の名前と顔が一致しているようで、廊下などですれ違うと、声をかけてくれた。

 首都圏の学校では、ずっと教室という場所で、そこにいないような気持ちでいたのだけど、転校して、言葉の違いをからかわれ、でも、東京周辺から来た人間として、そこでは珍しがられ、だから、クラスメートとは関わりがあった。

 その教室にはいろいろな子どもがいた。

 首都圏の学校と比べると、もっと幅の広い子どもがいるような気がして、変わっているように見える子もいたのだけど、他の子供たちが特に見放すわけでもなく、ちょっかいは出しているけれど、一緒にいる感じがした。

 それは、それまでと比べて、勝手に違うように見たい、という気持ちだけだったのかもしれないけれど、そのうちに自分も変化していたようだった。

変化

 少しずつかもしれないけれど、人と話すことが、比較的、普通にできるようになっていった。

 そこは限られた狭い世界かもしれないけれど、学習塾もなかったし、塾といえば、習字かそろばんしかなく、やはり、競争原理が少ないせいか、ちょっと空気がのんびりしていたと思う。

 あまり、その土地を美化するのもおかしいし、ちょうど自分も、小学2年生から、6年生という成長もするような時期だったせいもあるけれど、あれだけ話さなかった子どもだったのに、そういう環境のせいか、コミュニケーションをとれるようにはなった。

 最初に転校生として、違う土地からきた人間として、少し注目を浴びたけれど、それは長くは続かず、こちらも言葉が少しうつるくらいにもなったし、なんとなくなじんでもきた。

 小学生であっても、かなり愚かなせいか、会社員の父親がまた転勤するだろうから、違う土地に行くのだろうけれど、そういうことも理解していなかった。ここにいる同じクラスの地元の子どもの家は農家だったりもしたから、もしかしたら、ずっとここにいると、自分もそういう場所で働くのだろうか。そういう仕事に明らかに適性がないのに、という無駄なおびえを持っていたりもした。

 その学校には、父親と同じ会社に勤める人を親に持つ子どもが、あと何人か転校してきた。周囲が低い建物しかない場所では、かなり目立つ鉄筋の4階建て。24世帯が入居している同じ社宅に住んでいたはずなのだけど、私が、この地元になじみつつあった頃に、転校してきたせいか、特に仲良くなったわけでもなく、その彼ら彼女らは、私よりも先に、再び、首都圏への親の転勤によって、その小学校を去っていった。

人気者

 少しずつコミュニケーションがとれるようになったとはいっても、相手のことを考えたり、気を使ったり、ということがまだ無理で、高学年になって、一斉下校などがあったときは、自分が下級生を連れていかないといけないけれど、その時の加減もよくわかっていなかった。

 とにかく安全に帰る、という目的を果たせばいいのに、ちゃんと列を作った方がいいのかもと考え、それを強制し、嫌がられることもあった。だから、それはダメだと分かったとしても、適当なところで調整する、ということができなかった。

 そのせいか、下級生から慕われることもなく、同様に、2年生から同じクラスで、転校生(考えたら、私の父親と同じ会社の親を持つ子どもばかりだった)以外は同じメンバーだったし、6年生まで同じクラスだといっても、自分自身は、好かれているわけでもなかった。

 グループを作ると、他に誰も一緒になる子がいないこともあった。そういうときは、担任教師の調整があったものの、自分が、そういう存在であることは分かり始めた。

 周いの人間関係に、やっと目が向き始めたせいか、同級生のキャラクターのようなものにも関心が持てるようになっていった。

 例えば、その県の健康優良児になるような圧倒的な運動能力を持つ男子。まだ子どもなのに、周囲に気をつかえる男子。容姿が優れている女子。そうした明らかに長所があるような子どもが注目を集め、好かれているのは、分かった。

 それは、とても納得がいくのだけど、そうした子ども達とは別に、何かが目に見えて秀でているわけでもないのに、人の注目を集め、さらには好かれている男子もいた。彼の言動や、造語のようなものが、教室という狭い世界の中とはいっても、そこで流行することさえあった。K君という名前だった。

 彼が、何かをするときに、人なつっこく、憎めないから、同じことをしても、怒られにくく、周囲の人が笑ってしまう。

好かれる理由

 修学旅行へ行き、当時は、まだ珍しかった8ミリビデオで、その様子を撮影する教師もいたのだけど、今の動画と違って、フィルムでもあるし、現像なども考えると、かなり高価だから、それほどたくさんの時間をとれるわけではない。

 だから、教師としては、なるべく多くの生徒を平等に撮影したい気持ちもあったようで、その感じは、その画面からも伝わってくるが、そこでもK君は、カメラが横に流れて、あちこちにいる生徒を映そうとしているのに、手を大きく広げて、横にステップをし、ちょっとふざけた顔で、その画面に収まり続ける。

 そうした行為をしても、教師にも、しょうがないなあ、と苦笑とともに許されて、その映像を修学旅行後に、教室で見ていた同じクラスのみんなも笑ってしまい、私もその映像では、その彼の背景として一瞬映っていただけだったけれど、別に嫌な気持ちもしなかった。

 こういう人が、人気者なんだ。

 そういうことを身にしみて分かって、そして、同時にうらやましかった。

2パーセント

 小学校だけでなく、その後、転校して再び首都圏に戻ってきても、中学校にも、高校にも人気者はいた。

 中学以降は、そこに「モテ」という要素も入ってくるので、少し複雑になり、人気者と「モテ」が両立する時としない場合があるし、高校生くらいからは、能力の高さのようなものがシビアに査定されるような状況になるから、ややこしくなるので、今回は、まずは人気者についてだけに、絞らさせてもらいたいのだけど、何しろ、その人数は少なかった。

 1クラスに、人気者は、だいたい一人だった気がする(多くても2〜3人)。だから、40人学級として、40分の1として、「2・5パーセント」。かなり低い確率だけど、ある時期までは、できたら人気者になりたいという気持ちもあったのは、うらやましかったからだ。

 そのために、何か努力をしたわけでもなかったのだから、それはムシのいい願いに過ぎないのも分かっていた。同時に、いつも人気者の当事者になったことがなく、外からの視点で見ていて分かったのは、人気者になるには必要な要素があることにも気がついた。

人気者をあきらめる

 何かをするときに、人なつっこく、憎めないから、同じことをしても、怒られにくく、周囲の人が笑ってしまう。それが小学校時代のK君のことが基準になっていたのだと思うが、そういう人は、人気者だったような印象はある。

 簡単に言えば、人に好かれる能力があるという事なのだろうし、その人気者の言動を、もし真似したとしても、人の好意や人気を集められるわけではない。

 だから、その人の持っている元々の要素がなければ、同じことをしても、人気者になれない。そのまま年月は経ち、どこかで人気者になりたい気持ちがありながらも、素質に依存していることが段々とわかってきて、自分が中学校を卒業する頃には、自分は人気者にはなれないことを、嫌でも理解するようになった。

 だから、気がつくのが遅かったのだとは思うのだけど、基本的には、人気者にはなるのではなく、人気者に生まれる、ということなのだろうと思う。

 頭脳や肉体の能力と同様に、人気者も能力の一つで、それは容姿も含めて素質のようなものだから、努力してもなれるわけではない。

 そういうことに15歳の頃、嫌でもわかった気がした。

人気者であり続けること

 そのあとも、どんな場所に行っても、私自身は、そこの中心にいるような人気者になることはなかった、と思う。

 人間は基本的には、明るい人が好きだから、その人の周りには人が集まるのも当然だと思っていて、だけど、自分が暗めのせいか、明るくても明るすぎる人は、一緒にいるのは苦痛だったりもすることもあった。

 それでも、明るい人が人気者になるのは、自然だと思ってもいるけれど、人気者になる人に、さらに不可欠な要素もあることにも、もっと年齢を重ねると気がついてもきた。

 人気者は、人気者として生まれてくる。それは容姿だったり、性格だったり、なんとも言えない雰囲気だったり、そういう素質を持っているのは間違いない。

 でも、大事なのは、ただそれだけではなく、そこから、人気者であり続けるための不可欠な要素があるのもわかってきた。

 人気者は、最初から圧倒的に人気者ではないかもしれない。問題は、人から向けられる好意のような気持ちに対して、素直に受け取れる能力こそが何しろ高いのではないか。そのことによって、周囲の人は素直に肯定的な気持ちを向けやすい。そのことによって、さらに人が周囲に集まって、人気者になっていく。

 たぶん、そのことが何より大事なことなのだろう。

 人気者に生まれることで、人から好意を向けられやすく、さらには、その肯定的な思いを素直に受け取ることで、さらに好意を集める。相手の好意を丸ごと肯定する事は、その相手を尊重することにもつながるし、安心感も与えることができるはずだ。

 そうした運動体というか、現象を生んでいる中心にい続けられるのが人気者で、それはある意味では、自分のためだけではなく、人のためになれる、という能力なのだと思う。

 そのためには、元が人気者である上に、素直な反応ができるという能力も必要だし、その人気者であることを引き受ける覚悟のようなものが、ある年齢以上になると大事になってくるから、ずっと人気者である人は、実はすごいのではないかと思えるようになってきた。

人気者になれない理由

 人からの肯定的な気持ちに敏感になるためには、相手の思いが否定的ではないか?と疑わないことが大事で、そのためには、やはりある年齢までに、好意を向けられることに慣れていないと難しい。

 それが、15歳くらいまでで、それ以上の年齢になると、ごく自然に相手の好意を受け取りにくくなると思う。

 こんな自分に好意を寄せてくれるなんてありえない、と疑念が生じてしまいやすくなるから、そうなってしまえば、その後に、様々な能力が開花したり、人間的な成熟によって肯定的な思いを集めやすくなったとしても、その好意を反射的に素直に受け取ることができないことも少なくない。そうなると、さらに好意が集まってくることは考えにくい。

 だから、推定人口2%の「人気者」には、15歳までになれない場合は、その後もなるのは難しい、ということではないだろうか。

 そんな理由を、人気者になれなかった人間は考えたりもするのだった。

元・人気者

 人気者になれなかった人間は、どこかで人気者になった心地良さのようなものを、一度は味わいたいと思うこともあるけれど、それは、15歳までに達成できなかったので無理だと考えると、少し寂しさのようなものも感じる。

 でも、同時に、年齢が高くなるほど、ずっと人気者であり続ける難しさにも気づいてくるから、ふと「元・人気者」という存在を考えるようになってきたりもする。

 この映画は「神聖かまってちゃん」の存在を軸として、様々な人たちの人生に影響を与えるという群像劇の構造なのだけど、主役は高校生で棋士の二階堂ふみが演じていたその彼氏とも言える存在が、確かにモテるのだけど、そのことを鼻にかけた嫌なヤツとして描かれていた。

 その彼のことを、ラジオで的確な映画評をしているライムスター・宇多丸氏が、「思春期にしかモテないヤツ」と語っていて、フィクションの存在とはいえ、記憶の中に、誰でも存在するような人間のことを、的確に表現しているとも思った。

 その一方で、そういう人間は、それからも社会的な能力を獲得して、モテ続けている可能性も考えてしまったし、(そういうことを考えるのが人気者ともモテとも縁遠い人間の発想と思いつつも)同時に、モテとは重なったりすることでもあるかもしれないが、若い時に人気者のピークが来てしまうことについて考えた。

 思春期に、人気者であるということは、例えば容姿など、様々な素質に恵まれているのは間違いないと思う。そして、そのまま、ずっと人気者であり続ける人はいて、そういう人は、人の好意に対して素直で、それは相手の存在を尊重している、ということでもあるので、若い時には、うらやましかったりするのだけど、そのうちに、人気者を続けている人は、やっぱり偉いのではないか、というようなことを思うようになる。

 時々、モテるも含めて、人気がある人が、年齢を重ねて、優しい人になっているのを目撃することがある。それは、人の好意というものを、自分のエネルギーにしているのは間違いないのだけど、それだけではなく、相手に対しても好意を返しているような印象がある。

 それは、直接、その相手だけではなく、他の人に対しても、その好意を向けているから、そこから、また好意を受け取り、さらに人気者が続く、ということになっているのではないか。もちろん、全員から好意を向けられるわけはないし、返ってくるのも難しいだろうけど、そんなことを気にしないで、出し惜しみせず、好意を配っている状態になっているのかもしれない。

 若い時だけではなく、歳を重ねても、ずっと人気者である人は、そういうことを続けているのだろうと思うようになった。(さっきと同じような言い方になってしまうのだけど)。

元・人気者になってしまう理由

 その一方で、人気者だったのに、いつの間にか元・人気者になってしまう人もいる、と思う。あれだけ人が周りにいたり、友達も多かったのに、今は----という人は、誰でも何人かは思いつくはずだ。

 ずっと人気者である人の理由から考えると、若い時は人気者でも、元・人気者になってしまう人は、好意を与えられるのが当たり前になりすぎたのだと思う。

 若い頃は、人の好意に対して、笑顔で「ありがとう」というだけで良かったのだろうけど、年齢を重ねると、そうもいかなくなることがあるのに、それに気がつかず、いつの間にか与えられる好意のようなものの方が、大きくなっていることもわからないまま、年月が経ってしまったということかもしれない。

 その結果、人気者から、気がついたら、元・人気者になってしまう。

 それでも、その変化が認められずに、人からの好意が前提の言動が続けば、もっと人がいなくなって、そのうちに孤立して、もしかしたら気難しい高齢者になってしまうかもしれない。

 そんなことを考えると、人気者であっても、元・人気者になってしまう可能性があるのだから、人気者でもなく、ただ教室の隅っこで、孤立気味の人間だった自分としては、人の好意を素直に受け取れない屈折した部分は、15歳まで人気者でなかった人間に特有のものとして、なかなか直らないかもしれないけれど、それを自覚した上で、人の気持ちに関しては、できる限り誠実に対応していきたい。

 そんなふうに改めて思うのは、ただのきれいごとではなく、そうでないと孤立した高齢者の可能性がとても高まると考えているからだ。

 それが、推定人口2%の「人気者」に、なりたくてもなれなかった人間の、とても地味だけど現実的な対応だとも考えている。



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