見出し画像

「人生経験」という言葉について、改めて考える。

 それほど豊富な知識や経験があるわけではないけれど、例えば、女性が友達の彼氏を紹介されて、どうほめていいのか分からないとき、「優しそうな人ね」と言うらしい。

 それを知ったときには、かなり納得もしたし、自分のこととして思えて、そういえば、「優しそう」みたいなことを言われた記憶が蘇り、他の言われ方もしていないことも思い出し、ちょっと落ち込んだ。


「人生経験」という言葉

 自分が若いとき、例えば自分よりもかなり年上の世代の人と話をしたとき、圧倒されるほどの人もいた。それは、ごく普通に話をしているのだろうけれど、その経験してきたこと自体が、特に自慢をするわけでもないけれど、凄さが伝わってくるからだ。

 そういう時は、話をしていても楽しく、自然とあいづちも大きくなり、こちらも表情が豊かになり、いろいろな言葉で反応していたと思う。

 ただ、当然だけど、自分よりも長く生きていて、いろいろなことがあったのは当然だし、生き抜いてきただけでも価値があるとは思う部分はあったとしても、その存在自体に説得力が薄く、その人に対して、何かを言わなくてはいけなくなったとき、「〇〇さんは、人生経験が豊富」という表現をしていたことがあった。

 それを、自分が歳を重ね、若くなくなって、自分よりもかなり若い人に、「人生経験があるので」といったことを言われたとき、過去の自分を思い出した。ただ、そのときは、昔の私のような社交辞令だけではなく、もう少し肯定的な意味が込められているようにも思えたものの(勘違いかもしれない)、そのことで、同時に気恥ずかしさも感じた。

 どうして、「人生経験」という言葉の使い方は、微妙に難しいのだろう。

プロの言葉

 どの分野にもすごいプロはいて、そして、歳を重ねてもずっと一線で働いていて、成果を出している人がいるはずだ。

 私は、ある支援職の資格を取ろうと思って、学校に通っていたとき、壇上で自身の仕事のことを話すとき、覚悟を持続してきた人だけに感じるオーラが背後に広がった気がして、それ以来、その凄さを少しわかったと思えたベテランのプロフェッショナルの人がいた。

 その人は、経験について、こんな話をしたと思う。

 今、自分が仕事をしているときに壁があって、悩んだりしているときは、経験を積んで、歳を取ったら、もう少し楽になるかもしれないと思っているかもしれない。だけど、残念ながら、自分もそう思っていたけれど、そうはならなかった。なぜか、経験を積むほど、より高い壁に向かっていくようになるような気がしている。

 それは、仕事の経験に関することだったのだけれど、人生経験ともつながることで、その後、時間が経って、自分もその仕事をするようになって、まだ全然、そのレベルに行っていないし、中年になってから仕事を始めたこともあって、到達できる場所が限られているようで、少し残念な気持ちになることもあるが、その楽にならない感じは、分かるような気がしてきている。

 どうして壁が高くなるかといえば、それは経験を積む前は、単純に「見えないことが多い」からだと思う。同じ課題に取り組んだとしても、経験豊富な人の方が、そこにあるさまざまな要素に気がつきやすいし、明確に見えるはずだ。

 だから、経験を積んで、歳をとって仕事を続けていたとしても、決して楽になるわけではなく、その難しさがより見えてくる、ということなのだろう。

 そうなると、経験を積むこと自体が、目的なのではないのだろうとは思う。

 なんでも継続していれば、経験を積めるはずだ。だから、大事なのは経験を積むことそのものではなく、その積んだ経験が、仕事上のことであれば、その経験によって、より困難な課題を解決できるようになることだろう。問題は経験を積むのではなく、それが生かせるようになることのはずだ。

 だから、人生経験も、生きていれば、それだけでも価値があるとは思うことがあるけれど、それでもただ生きていても自然と経験は積める。だから、目指すのは、さまざまな困難な問題でも、解決できるような人生経験を積めることで、そうなると、その経験の質のようなものが問われることになる。

 それで、ただ人生経験を積んだことだけを言われると、なんとなく気恥ずかしい気持ちになるのかもしれない。

モテる言葉

 この人生経験について、改めて考えたくなったのは、ある本を読んだからだった。

 この書籍は、テレビを見ていて、発言が面白いと思ったアナウンサーのプロフィールにあって、全く聞いたことがない本だったのだけど、図書館で借りたら2020年9月に初版発行で、2022年5月に26版発行とあったので、かなり売れている本には間違いな買った。それまでで全く見聞きしたことがないのは、私が情報にそれほど強くないとしても、ある層で重点的に支持されているように感じたのは、読んだ後だった。

 その上で、なんだかもやもやした気持ちになったのは、自分の若い頃の記憶と微妙に重なる印象だったからだ。

12  好きってなに

 好きって美味しいものを一人で食べた時、あの人にも食べさせなかったなと思えることだと思っています。あるいは途方もないほど美しい景色を見た時、思わずそれを撮って写真を送ること。送れなくても、送れなかったことは、ずっと覚えていること。
 同じ感動を同じ場所で感じたいと願うことが私の「好き」にはあるようです。あるいは少しでも眠らせてあげたい、気持ちよくさせたい、そんな欲求をすべて自分優先ではなく相手優先にしたいと願うこともまた「好き」なのかしら、と思っていて。
 だからもし好きな人がいたなら、好きだと伝えるよりもまず、そんな言葉にならぬ瞬間、言葉にならぬ現場に、ふたりで遭遇することが大事だと信じている。そのためにデートがある。LINEでの細かい駆け引きなんて、十代あたりに任せておきなさい。「好き」と伝えることよりも、終電過ぎの夜道を一緒に散歩することの方が大事。
 なぜなら、言葉で分かりあうより、言葉にならぬ瞬間にふたりを閉じ込めさせてしまう方が、遥かに複雑で、偶然的で、印象深く、ふたりはどうしようもないからです。

(「20代で得た知見」より)

 完全に同じではないのだけど、こんな感じの言葉を使う人たちはいた。

 少しだけ先輩で、ちょっとわかりにくい感じもあって、だけど「大人」っぽく見えて、ちょっとワルそうで、何より、自分たちが知らないことを知っていそうな雰囲気がするような人は、やたらとモテていた気がする。

 それは、モテなかった自分のひがみももちろんあるのだけど、この本は、おそらく意識的に古い言葉を使ってみたりもしているから、人生の先輩感を出そうとしているのだと思った。それが効果的だったし、本のつくりも赤や黒のページがあったりと、少し夜で、だけど、おしゃれな感じもするから、人生経験をうまく演出している感じがした。

 著者は1989年生まれ。だから、この「20代で得た知見」を、30代になってまもなく書いた、ということになる。

 これは少し先を生きている人の人生経験を、20代を終えたばかりの人間が、より若い世代に伝えるという形をとっていて、さらに上の世代が、同じことをすると「説教」になって嫌われそうだ。

 それでも、当然のことながら、年齢が若いほど経験が少なく、世の中のことを知らなくて当たり前で、不安が強いのだから、先を生きている人の知識を知りたいのは当然のことだけれど、「説教」と言われるのを恐れて、年配の人間がそれをしなくなっているから、余計に、この本が必要とされたのかもしれない。

 そして知見という、どこか冷静な印象が強い言葉を選択したのも効果的だったのかもしれないが、この本の中にある、すごく世の中を知っているような気配は、やはり、人生経験が豊富ということを伝えようとしているように思える。

 だから、この『20代で得た知見』という本が売れたのは、今でも人生経験というものは、場合によっては貴重なものであるのは間違いなくて、押し付けがましくなく、伝わりやすいような形にすれば、自分ではない歳を重ねた人間の人生経験が必要とされることを証明したように思う。

 それでも、何かもやもやするのは、やはり、ある意味で、あまりにもトーンが統一されていて、モテそうな言葉でありすぎて、だから整いすぎているのではないか、という違和感があったせいだと思う。だから、全体でクールな感じはするのだけど、この知見の質に関しては、やや疑っている。

 でも、そういうことを言うのならば、やはり、豊かな人生経験とはなにか?を、もう少し詳しく考えないといけない、とは思う。

質の変化

 人生経験が豊富。という言葉の中には、そこに質の高いというニュアンスも込められているのかもしれないけれど、では、その質の高さとは、どういうことなのだろうか。

 それはやはり、生きていて経験したことによって、自分が質的に変化するとき、それは、人生経験の質として高い、ということになるのではないか、ということを最初に思う。

 その変化に良し悪しの基準がからんでくると、少しややこしくなるのだけど、でも、結果としては、より真っ当な人間になっていくような変化をするような人生経験を積めることが、大事になってくるのではないか。

 そんなことを思うと、その経験そのものよりも、その経験を、より良い変化ができるような、その人自身の能力のような問題にもなってきてしまうけれど、何しろ、例えば、経験というものを、自分の戦闘能力を高めるためのアイテムというよりは、自分の体質そのものを変えるようなものとしてとらえる方が、豊かな人生経験を積むということにつながるように思う。

 つまり、変わる、ということこそが、経験ではないかと、より思うようになったのは、別の意味では「20代で得た知見」に似た書籍を読んでからだった。

 この本は、やはり若い人に読まれているようだけど、「勉強」を語るときに、ただ知識や情報として身につける、というよりは、自分が変わっていく。といったことが学ぶ、ではないか。そんなことが丁寧に書かれていて、とても納得がいくことだった。

 そう思えたのは、自分が中年になってから学校に通うことになり、そのとき、初めて、学ぶことが身につけるというよりは、もっと、痛い感じがして、体質が変わっていくことが少しでも実感できて、それからしばらく経って、それが勉強することだと体感できるようになったせいもある。

 学校に行ったとき、辛いけれど、充実した時間で、でも、初めて学ぶことが楽しいと感じた。

 それから、成長するというのは、体質が変化するということではないか。それが、人生経験を積むということではないか、とより思うようになった。

削られる魂

 個人的な経験に過ぎないけれど、突然、介護をすることになった。

 仕事もやめざるを得ないことになって、全く先が見えない中で、それは、場合によっては、死にたくなるような時間でもあった。自分が弱いだけだったのかもしれないが、それから、随分と時間が経ってから、ふと思うことがあった。

 『ドラゴンボール』の主人公・孫悟空は、やたらと強い相手と戦いたがり、それこそ死にそうになったあと、より強くなる、という繰り返しが、途中まで続いているのだけど、そのことと、昔から言われている「艱難辛苦、汝を玉にす」という言葉と、どこかで重なった。

 介護が始まって随分と時間が経ってから、自分の魂が3分の1削られていて、それは、もう少し削られていたら致命的になっていたのかもしれないけれど、なんとかギリギリで、だから、そこからやっと回復できたのではないか。

 そして、その回復した魂の部分は新しく、ややピカピカしていたような感覚もあった。だから、孫悟空が死にそうになって、その後、回復してより強くなったり、それまでは、あまり好きではなかった「艱難辛苦、汝を玉にす」という言葉は本当だったのかもしれない、と考えるようになった。

 その経過で、辛い経験をしている人に対して、その経験はプラスになる、と言いたくなる気持ちも分かるような気もしたものの、ただ、もし自分が、本当に辛いときに、苦労することが成長につながる、といった「艱難辛苦、汝を玉にす」という言葉を言われたら、本当に嫌だったろうとも思った。

 傷ついた場合には、その回復には時間が必要で、回復にふさわしい環境が与えられてこそ、初めて、辛い経験がプラスになるのでは、とも同時に感じた。

 それでも、成長とは、変化することではないか、は実感できた。 

安定した場所

 おそらく、特に若い時に「モテる」人間というは、一定数いて、それはもちろん外見的な魅力もあるとしても、その人が、「自分が知らないどこか」へ連れていってくれるような気がするのではないだろうか。

 私自身が、「モテる」ということをよくわかっていないし、こうした表現は気恥ずかしいのだけど、全部が分かりやすいよりは、どこか「謎めいた」感じがした方が、主に異性を惹きつけやすいように感じていて、それは、自分の若い時だけではなく、それから時間が経った今でも、共通することのように思う。

 そう考えると、『20代で得た知見』は、伝え方も含めて、そんな気配を濃厚に感じた。それがうまくいっているから、大勢の読者に届いたのは間違いないし、確かに知っておいた方がいい「知見」も少なくなかった。

 ただ、これは、自分自身の狭い感覚なのかもしれないけれど、それは、安定した場所から伝えられている言葉に感じ、変化を促すような不安が少ないような気がしてしまった。その「知見」によって、それを知っている人への敬意やあこがれが生じやすいし、知ったことで安心してしまうような感じもした。

 それは全く悪ことではないし、知っておいた方がいい情報はあると思うし、知らないよりはいいとは思うのだけど、それだけではやっぱり足りず、だから、これもさらに勝手で、他力本願な発想なのだけど、『20代で得た知見』を読んだ人は、『勉強の哲学』も読んでもらえたら、これから豊かな人生経験を積むための準備ができると思ってしまった。

成熟するための時間

 変わることには不安が伴うけれど、その覚悟をずっと持ち続けられるかどうか。もちろん、とても困難な状況にあるときは、そんなことも考えられないとは思うのだけど、自分が変わっていくことに対して、抵抗感を減らすこと。いくつになっても、変わっていくことを恐れないこと。

 そんな姿勢が、自身の体質になっている大人を、成熟していると表現できるはずで、そういう人にこそ、「人生経験が豊富」という言葉がふさわしいのだと思う。

 そして、自分自身が、今も、そこまで変わる覚悟があるか。変わっていく能力や強さがあるか。そんなことを問われると、それができると即答できる自信はない。

 恥ずかしい話だけど、長く生きている分だけ、いい意味で変化をして、成長し、その後にそれを身のあるものにしていく成熟という作業をし続けているか。と聞かれると、もっと自信はない。

 だから、自分よりも若い人たちに、「人生経験がある」といった言葉を向けられると、その言葉が社交辞令だとしても、その表現にふさわしいほどの、本当の意味での「人生経験」をつめていないのは、自分が一番わかっているので、それで、後ろめたかったり、気恥ずかしかったりするのだと思う。

 ただ、紀元前500年頃だから、今から2000年以上前に、孔子という儒教の祖である人が、こんなことを言っている。

70歳になって、欲望のままに行動しても人の道にはずれることがない。

(「goo辞書」より)

 当時の平均寿命がどれくらいかは、よくわからないとしても、おそらく30代くらいだとして、その頃に、人が成熟するには70歳までかかる、ということを、すでに言葉にしている。

 だから、人間が成熟するには、それくらい長い年月がかかるということなのだから、ちょっと安心すると同時に、長く生きられるのは、やはり幸運でもあるのだから、その分、成熟を目指して、本当の意味で人生経験を積むべきではないか。と、自分にも言い聞かせたい気持ちはある。

 そうしないと、いろいろな現実に対して、すぐに嫌になって、あきらめて、投げやりになりそうだからだ。

 そんなことを、改めて考えてみました。
 ご意見、疑問、ご感想を聞かせてもらえたら、うれしいです。



(他にも、いろいろと書いています↓。よろしかったら、読んでもらえたら、うれしいです)。





#多様性を考える    #この経験に学べ    #人生経験   
#20代で得た知見   #勉強の哲学 #成長 #変化
#言葉   #考え   #経験   #毎日連続投稿

記事を読んでいただき、ありがとうございました。もし、面白かったり、役に立ったのであれば、サポートをお願いできたら、有り難く思います。より良い文章を書こうとする試みを、続けるための力になります。