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「報われない」と思うのは、どんな時なのか?

 無力感は、突然、襲ってくる。

 何をやっているのだろう。

 それは、毎日のように時間も使って、例えば、こうして書いていて、どこまで伝わっているのだろうか、というようなこと。でも、コメントまでもらったりする時は、それは、誰かが私が書いたことに対して、時間と手間をかけて言葉で返してくれているのだから、何よりの返答であり、そのときは、とてもありがたい気持ちになる。

 ただ、そうした反応が、もし例えば圧倒的な、さらに目にみえるような形で現れると、どうなるのだろうか、と思うこともある。

 時々、見たり、読んだりする、「スキ」の数が3ケタどころか、4ケタが普通についている人たちがいて、それは、こうして同じように書いて、noteという同じ場所に投稿しているはずなのに、こんなに違うのは、どうしてなのだろう、と思う前に、もし、ああした反応が目に見えるのであれば、無力感に襲われることはないのだろうか、と想像する。

 よくドラマなどで見る表現に、SNSでの反応が、数限りなくあって、スマホの着信が止まらない、というようなことを経験したことはないのだけど(元々、スマホも携帯も持っていないけれど)あれは、やはり無力感からは無縁になれ、「報われた」と思える瞬間なのだろうか。


求めていること

 そういえば、自分は、何を求めているのだろう。求めているから、報われるかどうかが問題になるはずだ。

 noteを書いていて、例えば、それが読まれている上に、収入にもつながっていれば、「報われている」ような気がするだろうと思う。

 ただ、そうなったら、おそらくは他の媒体から声がかかって、どこかの雑誌などで連載を持ちたいという気持ちにもなるだろうし、さらには、書籍化したくなるような気がする。

 そのときは、おそらく、これだけnoteで実績積んでいるのに、どうして?と思うかもしれず、その先を考えても、ずっと報われた気持ちにならないのだろうか。

 おそらく大勢の人がしている仕事や役割は、その世界でのトップレベルのことは話題になりやすいし、自分もいる業界であれば、それほど関心がないとしても、どうしても、他の誰かと比べてしまうから不自由になってしまう、とはわかっていても、おそらく興味が向いてしまうことだと思う。

 だから、頑張れば頑張るほど、報われないような気持ちになってしまうかもしれない。

 日本の大学の調査によると、世帯年収が100万円、300万円と上がっていくと幸福度も高まっていきますが、700万円程度で止まり、900万円にかけて下がったり再び上がったりしますが、1500万円を越すと幸福度が低下する現象が見られます。お金をもつことで、新しい仕事のストレスが生まれるなど苦しみが増える影響と考えられます。

 研究者や調査によって850万円や3000万円が頂点だったり、収入と幸福度の間には、ほとんど関係がないと考えている人もいます。

(「DIAMOND  online」より)

 こうしたことを知っておくと、無理をしないでも済みそうだけど、まず、1500万円の年収は、自分にとっては届かない夢に近い数字なので、そこに到達できれば、どうなるのだろうか。その時は報われた気持ちになるのだろうか。それは、現時点では実感できないが、その際は、これだけ頑張っているのに、まだ収入が上の人がいるのか、と視点が変わっていくのかもしれない。

 そんなことを考えると、「報われた」と思っている人はいるのだろうか。といった疑問を持ってしまう。

文章

 ただ、ついnoteを収入や評価の面だけで考えてしまい、その部分にこだわれば、報われるのは無理な感覚になってしまったのだけど、それでももう少し冷静になれば、ちょっと違うことに気づく。

 3年ほど前、noteに投稿を始める前にも、ずっと毎日、何かしらの文章を書くことは、10年以上は続けていた。

 ただ書いて、誰にも読まれることないままだったし、時々、ノンフィクションの賞に応募したこともあったのだけど、まったく評価もされず、私の知らない人が受賞している作品を読んで、こんなに幅広く取材をしたり、遠い国のことを書かれたら、その当時は、仕事をやめて、ただ介護をしていたので、永遠に自分には無理だという絶望感を味わった。

 その頃から比べれば、noteで投稿すると、誰かが読んでくれた、という反応がある。場合によってはありがたいことに、有料noteを設定しても購入してくれる人がいるし、サポートをしてもらえることまである。

 そのときは、自分の書いた記事に対して、その行為をしてくれていることに、明らかに温かい思いになれるから、それは報われたということなのだと思う。

 それに、さらにもう少し踏み込めば、自分にとっては、文章を書くこと自体が、どこかでそうした気持ちに近いものがあるのも事実だった。

 だから、書くことに関しては、書いている時間自体が、報われている状態に近いのかもしれない。

無力感

 この1年くらいの無力感で、自分にとって最も思い当たるものは、仕事に関してのことだった。

 介護で仕事をやめて、介護だけに専念しているときに、介護者にこそ、心理的支援が必要だと思うようになり、勉強をして資格を取って、細々とながら介護者の支援をする仕事を始めた。

 同時に、介護者の心理的支援のための相談窓口があまりにも少ないことと、介護者の心理について、あまりにも社会の理解がされていないことに気づいたので、微力を自覚しながらも、そのことについて、話す機会があれば伝えようとしてきた。他の方法でも、個人的にはやってきたつもりだった。

 一人で言葉を発しているだけでは届きにくいから、それならば出版という方法を取ることができれば、と思って、企画書を送り続けてはいるのだけど、よくて企画会議に出せました、でも、通りませんでした、すみません、という段階にとどまっている。

 多くは、ただ、何の反応もなかったり、持ち込みの企画は行なっておりません、という返信をもらうので、そうした検討してくれる機会自体が有り難く、そうした会議自体に持ち込むことが、とても難しいとは想像できるので、感謝はしているものの、実現の機会がないと、企画書を制作し、封筒に入れて、あて名を記入しているときに、どうせ、ただ無駄になってしまうのに、と思いながら、それでも、郵送はする。

 そうやって10年が経ち、個人的には、自分のしてきた支援に関わることだけではなく、理解増進を促してきたことも、当初から力が足りないのは知ってはいたけれど、あまりにも届いていないように感じたことがあった。

 さらに、映画『ロストケア』を見て、介護者への理解は、この10年以上の年月の中で、全く進んでいないと思って、がっかりし、無力感に襲われた。

 そんなことを思う自体が、どこか分不相応かもしれないけれど、同じ仕事をしている人たちにも、なかなか理解してもらえないことが多く、それで、孤立感があって、だから、それが無力感につながりやすいのだと思う。

 もしかしたらら、同じように考えている人がいるかもしれないけれど、ここまで色々と伝えてきて、そういう人に会えなかったことも、気持ちが沈む理由になったのかもしれない。

 そんなときに思い出したのが「成功曲線」という言葉だった。

 これは、経営コンサルタントの石原明が書いた本の中にある言葉だったのだけど、成功するためには、うまくいかない時間が長く、そして、軌道に乗り始めたら急速に上昇していく、という曲線を「成功曲線」と、石原は名づけている。

 だから、何事も最初からうまくいかなくて当たり前で、というような気持ちにもなれたのだけど、10年続けても、その兆候も見えないということは、もう「成功曲線」ではなく、ずっと横ばいのような、下手をすると、これから下降線をたどる「成功しない曲線」をたどっているだけではないか、とまで思うこともある。

理解

 この場合の「報われない」という気持ちが、どこから来ているのかというと、これだけやってきたのに、という感じもある。どうしてなのかと考えてみると、同じようなテンションで取り組んでいる人が、一人でも二人でもいれば、随分と変わってくるのは分かっている。

 それは、今は実現しないとしても、もしくは、これから具体的に形になるのに相当な時間がかかるのは変わらないとしても、同じことを、似たような集中力で考えてくれている人がいれば、それだけで、これほどの無力感はなかったはずだ。

 この介護者の心理支援について話すとき、もちろん相手は聞いていたとしても、もっと重要なことは他にある、といった構えのように、こちらの言ったことを、正面から受け止めていないのが分かる感じはずっとあった。

 そうなると、自分が考えていること自体が、本当は必要ではないのに、ただ自己満足のようにしているだけではないか。といった疑いが自分の中に生まれてくる。その気持ちの混乱も、他の人は関係なくて、ただ自分の中で起きているに過ぎない。

 そうなると、そうした葛藤のようなものに、本当に意味がなくて、消耗のあとに、ただ一人で無力感を味わうことになる。

 そうだとすれば、この自分の継続してきたことが、少しでも「報われた」と思える時があるとすれは、やはり、その伝えてきたことを理解しくれた上で、意味があると賛同してくれる人が現れる時だろう。

 そのことは、介護をする当事者の方々には届き、それについてはとてもありがたいことでもあるから、自分が関わっている、実際の支援の現場では、おそらくは、充分以上に「報われている」のだと思う。

 とすれば、どのような時に「報われていない」と感じるかと、改めて想像してみれば、やはり、自分自身がずっと訴えていること------基本的には、介護者向けの相談窓口-----の設置が増えないという事実や、当事者以外には、そうした支援の必要性が理解されている実感がほとんどない状態が、年月が経っても変わっていないと感じる時だと思う。

 もし、同じように支援に関わる人たちに、こちらの伝えていることが、かなり「理解」されていると感じれば、それで「報われる」のだと思う。それは、孤立感からの解放でもあるからだろう。

介護者支援

 今でも、介護殺人事件は、起こってしまっている。

日本には要介護者を支援するための介護保険法はあるが、介護者を包括的に支援する法的基盤は整っていない。現在、いくつかの自治体で介護者支援のための条例制定の動きがみられる。私たちはこのような法的基盤確立の動きを全国的に促進していかねばならない。

(「日本認知症国際交流プラットフォーム」より)

 こうした「介護者支援」の総論については、この20年でも数多く語られていて、だが、その各論としての具体的な提案のようなものは、「家族観からの解放」といった思想的なことは何度も読んだ記憶はあるものの、具体的に「家族介護者のための相談窓口」を設置する話は、ほぼ聞いたことがない。

 今も、地域包括支援センターで、「介護相談」は行われているが、それは、あくまでも要介護者のためのもので、その延長としての介護者への支援はあるかもしれないけれど、まだ形にもなっていないような不安や、全く先の見えない将来への怖さのような、介護を続けていく上では避けて通れないような、心理的な部分に焦点を当てている支援をするのは難しいような印象がある(もちろん優れた介護相談員であれば、そこまでしているとは思うのですが)。

 場合によっては、要介護者と、介護者の望んでいることが対立することもあるのは当然なのだから、それだけに介護者だけの相談窓口は必要なのだけど、そのことが、支援者にも理解されにくい。

 介護者支援のことを話すと、認知症カフェや、家族会がある。行政の方からは、そんなふうに言われたこともあったのだけど、今のところ、介護者の深刻な葛藤のような、すぐに解決もできず、環境調節もできないような状況の中で、心理的に支える機能を、そうした集まりに持たせることはとても難しいはずだ。

 だから、介護者相談が必要、とずっと伝え続けてきたのだけど、その理解のされなさが、今の無力感を生んでいるのだから、もしも、そのことが理解され、実行されるようになったら、その時は「報われた」という思いが起こるのは、間違いないと思う。

 それがいつのことになるのか、と思う前に、無力感を抱えながらでも、やれることは、やっていこうと思っている。




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