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読書感想 『くるまの娘』 宇佐見りん   「家族という地獄で生き続けること」

 若いうちに才能が認められた人は、若い、という形容詞を、おそらく数限りなく言われて、本人にとってはうんざりすることだろうし、そして、今を生きている本人にとっては「まだ若い」と余裕を持って感じることは、おそらくないのではないか。

 そんなことを薄々思いながらも、でも、若くて作品が優れていると、やっぱり「若いのにすごい」と失礼な表現をしてしまうこともある。

 宇佐見りんという作家は、21歳で2作目で、すでに芥川賞を受賞している。その作品も読んだけれど、圧倒的な作品という印象があったし、とても今のことだと感じられた。

 だから、次の作品については、読むのが、ちょっと不安だった。小説界の中で、「大きい賞」をとった、そのあとも、すごくて、独特を継続するのは、実は難しいのではないか、と平凡な読者として思ってしまったからだった。


(※これから先は、小説の内容について触れる部分もありますので、未読で、何も知らないまま読みたい方はご注意ください。また、家庭内での虐待とも捉えられる表現もありますので、そうした点についても、ご注意いただければ、幸いです)。


『くるまの娘』 宇佐見りん 

 タイトルからは、どんな内容かも想像できにくかったけれど、読み始めて、読み進めると、自分がぼんやりとでも、イメージしていた内容は、まったく違っているいることに気がつかされる。

 どこかで、「推し、燃ゆ」の時の主人公を思わせるように、高校という学校生活という社会での困難さが描かれて、だけど、話はそこから、家族で祖母の葬式に向かい、それを、家族でよくおこなっていた「車中泊」をするというストーリーになっていく。

 そして、その車中という物理的な狭さや、2泊3日という時間の短さが、かえって、密度の高さに結びついて、読んでいるだけでも、逃げ場はないように感じてくる。

 だから、内容的にも、確かに「くるまの娘」なのだけど、家族という存在が、改めて不思議で理不尽で暴力的であることに思い至り、自分自身の体験も、過酷さにおいては及ばないものの、どこかで重なり、思い出すような場面もある。

母親

 普段は、兄と弟は、家にいない。17歳の高校生・かんこが、両親と暮らしている。

 まず目に見えて大変そうなのは、母親だった。脳梗塞で倒れて以来、後遺症に苦しみ、感情の抑制も難しくなり、酒に溺れるようになっている。

 目の中になにも映さずアーアー叫ぶ母を、かんこははじめ、受け止めることができなかった。厳しくも優しかった母がどこかへ行ったのかと、あの頃はそればかりを思い、母が酔っているのを見つけるたびに台所の下に隠してある飲みかけの焼酎の瓶や缶チューハイを捨てた。少しは楽になったのかと兄が訊いたとき、なるわけないでしょうずっとしびれているのと逆上した母が包丁を持った。死んでやるとも殺してやるとも言った。傷つく前の、壊れる前の、母に会いたいと何度も思う。だが、おそらく、もとの自分を返してほしいのは母自身なのだった。母は戻りたがった。必死にリハビリをしても感覚が戻らないことに、子どもらが背を向けていくことに、母は耐えられずにまたいきりたった。

 これだけで十分過酷と言えるのだけど、父親も、また違う苛烈さを持っている。

父親

 父親も独特な人だ。もしかしたら、どの家庭でも、それなりの変わった部分はあるとは言えるのだけど、母親だけではなく、父親のせいもあって、兄と弟は家を出て行ったから、やはり、その度合いが激しいのだろう。

 少なくとも見た目には、父は普通の人だった。だがひとたび火がつくと、人が変わったように残酷になる。手や足が出て、ののしられ、誰かが半狂乱になる夜が来る。
 どこの家庭にもありふれた光景かもしれなかった。だがかんこは、そういうときの父に怯えるのをとめられなかった。心は抵抗しているつもりでも肉体は怯える。突然の発作にも似たその感じが父の体をのっとるたび、体が縮こまり息があがる。与えられるものは痛みだけではなかった。髪をつかまれ、顔を近づけられ、「気持ちわるい顔だ。おどろいたな」と虫でも払うように、手で払いのけられる。その顔で見ないでと裏声で言われる。赤ん坊に向けるような言葉遣いでしか喋らなくなることもあった。かなちいでちゅね、と父はよく言った。あたまおかちいね、馬鹿面がなにかほざいてまちゅね。

 これは、虐待という言葉で表される行為なのかもしれないが、そうした言葉に収まらないような、怖さと複雑さがあるのは伝わり、それだけではなく、暴力を振るう側の歪まざるを得なかった内面のことまで、考えが及ぶような場面に思える。

家族

 例えば、この家庭は、福祉の現場であったら、暴力を振るう父親と、病気で不安定になっている母親と、その子どもだから、もしかしたら「機能不全の家庭」とラベリングをされ、そして、当然ながら、虐待の危険性が査定され、親子の分離が検討されるのではないか。

自分を傷つける相手からは逃げろ、傷つく場所からは逃げろ、と巷では言われる。

 たったひとりで、逃げ出さなくてはいけないのか、とかんこは何度も思った。自分の健康のために。自分の命のために?このどうしようもない状況のまま家の者を置きざりにすることが、自分のこととまったく同列に痛いのだということが、大人には伝わらないのだろうか。かんこにとって大人たちの言うことは、火事場で子どもを手放せと言われているのと同等だった。言われるたび、苦しかった。あのひとたちはわたしの、親であり子どもなのだ、ずっとそばにいるうちにいつからかこんがらがって、ねじれてしまった。まだ、みんな、助けを求めている。相手が大人かどうかは関係がなかった。本来なら、大人は、甘えることなく自分の面倒を見なくてはならないということくらい、とうにわかっていた。それが正しいかたちだと、言われずとも知っていた。だが、愛されなかった人間、傷ついた人間の、そばにいたかった。背負って、ともに地獄を抜け出したかった。そうしたいからもがいている。そうできないから、泣いているのに。
 もつれ合いながら脱しようともがくさまを「依存」の一語で切り捨ててしまえる大人たちが、数多自立しているこの世をこそ、かんこは捨てたかった。 

 これだけ切実な思いは、本来ならば尊重されるべきことではないだろうか。

 だけど、こうした言葉を未成年が、必死の思いで伝えようとしても、「共依存」の中にある当事者の声として、それは、言ってみれば、一種のマインドコントロールというか、そこまでいかなくても、冷静な判断力を失っている、と分析もされそうだけど、それは、実は違う意味での暴力かもしれない、とも思えてくる。 

 例えば、警察が来る騒ぎになったとき、10代のかんこは、はっきりと自覚したことがあった。

 あのときひとつわかったのは、もし外部の力が働いたとしても、自分はこの家から保護されたいわけではないということだった。かんこもまた、この地獄を巻き起こす一員だ。だからかんこが、ひとりで抜け出し、被害者のようにふるまうのは違った。みんな傷ついているのだ、とかんこは言いたかった。みんな傷ついて、どうしようもないのだ。助けるなら全員を救ってくれ、丸ごと、救ってくれ。誰かを加害者に決めつけるなら、誰かがその役割を押しつけられるのなら、そんなものは助けでもなんでもない。

 ただ、そういう救いが来るかと言えば、それは、現代では、ほぼ不可能なことでもあり、だから、この地獄は続くわけだし、家族の理不尽さがむき出しになった中で生きるしかない、と思うと、いたたまれない気持ちになる。

 祖母の葬式のための、2泊3日の家族の移動によって、さまざまな出来事が必然的に起こるので、その時間の中で、思いや考えが深くなっていくのが、時として痛々しいほどの明確さも持って描写されるから、強引にでも読者の気持ちの中に入ってくるような気がした。

おすすめしたい人

 家族というものに対して、少しでも思うところがある人でしたら、どなたにもおすすめできると思います。

 これまでの、いわゆる「家族小説」を更新したような印象さえありました。

 ただし、余計なことかもしれませんが、過去、もしくは現在、虐待やDVなど、厳しい環境にいたことがあって、そうした描写などを読むだけでフラッシュバックされるような方は、この小説を読むのを避けた方がいいかもしれません。
 それでも必要だと思われる時は、ご注意していただければ、と思っています。


(こちら↑は、電子書籍版です)。



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