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目次

0. 経歴
1. 高校まで
2. 大学と大学院までの数学
3. 中高の教員として
4. これからの私の算数・数学の指導方針

0. 経歴

1994年 東京大学教養学部理科一類に現役合格(慶応理工学部にも合格)
1996年 東京大学理学部数学科に進学
1999年 東京大学大学院数理科学研究科数理科学専攻修士課程に入学
2001年 同大学院修士課程を修了、同大学院の博士課程に進学
2006年 同大学院博士課程単位取得退学
2006年4月より私立中学校高等学校の数学科教諭を11年経験(中1から高3までのすべての学年を経験)

1. 高校まで

 私は、今思えば、発達障害と言われる生まれつきの脳のかたよりをもってうまれました。かんたんに言えば「生まれつきちょっと変わっている人だね」ということになります。この文章に書く内容で発達障害の障害特性に関連するものとしてはやはり「空気が読めない」というものが最大になります。そして、空気の読めない私は「論理」で理解するので、非常に論理的思考の発達した人間になり、「勉強だけできる」タイプだったのです。「空気」と「論理」は対極にあります。私は空気が読めない代わりに圧倒的に「論理」の人間だということになります。「論理の極致」のような学問である数学の道に進んだのもゆえなきことではなかったのです。その「論理の人間であること」は今でもそうです。

 幼稚園のとき、いまにして思えば、トポロジー(位相幾何学、私の大学院での専門)の概念のひとつである「モノドロミー」を理解していたというエピソードがあります。このエピソードは専門的すぎて、いまだに誰にも具体的に説明できたことはないのですが。

 小学校に上がってからは、ひたすら叱られいじめられの日々でした。発達障害ゆえにできないことがたくさんあり、とくに整理整頓とか電気のつけっぱなし、忘れ物やなくし物など「だらしがない」と言われる特徴については壊滅的なほどにひどく、両親や教師から厳しい叱責を毎日のように受けました。これで私は自己肯定感の著しく低い人間になり、のちに博士課程1年のときに「二次障害」と言われる重い精神障害を患い、それを機に数学者への道を断たれ、以来、崖をくだるような転落人生を歩んでいるというわけです。しかし、それだけ叱られたにもかかわらず、いまだに私はこの文章を散らかった部屋から書いており、電気のつけっぱなしやなくし物は日常的です。つまりこれは発達障害の障害特性だったのであり、努力して直せるものではなかったのです。幼少のころの両親らから受けた叱責は、だらしのなさの改善にはまったく役に立たず、ただ自己肯定感をさげて私の数学者への道を断ったという役にしか立っていないのでした。

 中学に入学して、急に授業が「体系だった」気がしました。するすると授業の内容が頭に入って来て、1学期の中間テストで、いきなり500人中6位を取りました。すると私は急に先生から怒られなくなりました。これもいま考えると、小学校の授業と言うのは論理的でなかったので、私は小学校では勉学さえも振るわなかったのだ、とわかります。とにかく中学から急に勉強ができるようになり、高校は県でいちばんの進学校に行き、その学校でもかなり成績のよいほうで、現役で東大に行きました。

 小学校では勉学が振るわなかったと書きましたが、いくつかの算数の授業で印象に残るものがありました。小学3年、4年のときの担任の先生は理系であったらしく、印象に残る授業がいろいろありました。わけても覚えているのが、「三角形の内角の和は常に180°であることの証明」ですとか、「円周率が3より大きい理由」などでした。これは、円に内接する正六角形の辺の長さの和(直径が1とすると3)よりは長いでしょうという証明でした。(後者については、ずっとのち、東大の入試で「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」という問題が出て話題になったようですが、私にはそれは極めてやさしい問題でした。このように東大のようないい大学になると「テクニック詰め込み型を落とし」「勉強を学問と認識している者を取る」という「いい問題」が出ます。だから私は中学入試(もろにテクニックの世界)には受からなくても、東大は受かるのです。)
 また、小学5年か6年のときに、「場合の数」を習い、4つのものの並べ方は24通りであることを習いました(先生が黒板に樹形図と言われる木の枝みたいな絵を描きました)が、それが4通りの3通りの2通りの1通り、すなわち4×3×2×1で24になることを、習わないで発見しました。数学上のことで「習う前から自分で気が付いていた」ことはいくつかありますが、これはそのうちのひとつです。

 中学では、平面図形を習ったのち、空間図形を習いました。そこで私がごく自然に向かった興味が「4次元」でした。平面(2次元)のつぎに空間(3次元)を習うならば、そのつぎはごく自然に4次元というふうに発想が行ったのです。最初に考えたのが、点→線分→正方形→立方体、と来て、その次に来る4次元の図形は、いったい頂点がいくつで辺がいくつで面がいくつで体がいくつであろうか、という問いでした。これも相当長く考えたすえに結論に達しました。その図形の概形も描けました。この「見えないのだけれども考えると、ある」という現象そのものに魅せられていたと思います。(当時はインターネットなどまったくなく、ひたすら考えるしか方法がなかったのがまたよかったと思います。)また、2直線の位置関係についても考えました。平面上で2直線の位置関係は「1点で交わる」「平行」「ぴったり重なる」の3種しかありません。3次元空間ではこれに「ねじれの位置」が加わります。これが4次元に行ったら、いったいどのようなものが加わるであろうか。真剣に考えたものです。1か月くらい考えたでしょうか。私はひとつの結論に達しました。「もう増えない」のです!これも非常に興奮させられたことを思い出します。これが興奮したのは、私は「増える」と思っていたのに、結論は「もう増えない」ということだったということにあると思います。学問というものは「結論ありき」ではないのだ、ということに気が付いた最初の出来事であっただろうと思います。中学時代はだいたいこのような感じでした。

 中学時代でもう少し「数学っぽいもの」を挙げますと、父からBASICの初歩を学んだことでした。インターネットのない時代でしたが、自宅に旧式のパソコンがあったのです。私はプログラミングにハマりました。いまから考えると「プログラミング」というものの本質は、「機械という『空気の読めない』ものに、『論理で』ゼロから教えてやる」というものであり、根本的に私はプログラミングが得意なのでした。だいたい世の中のプログラミングできそうなことはプログラミングしましたが、たとえば高校のときだと思いますが、「テトリス」を自作しました。また、これは中学のときだと思いますが、「4以上の偶数は、2つの素数の和で書けることを、偶数の小さい順から確かめ、反例があったら止まる」というプログラムを書きました。これは当時から現在まで未解決問題だろうと思います(ゴールドバッハ予想と言います)。このプログラムは、40歳を過ぎた比較的最近、「情報」の実習助手をやらされたときに再び書くことができ、「中学の自分に追いついた」というべきものです(つい最近、エクセルのマクロを就労移行支援事業所で学び、みたび書けました)。また、あるときプログラミングで画面上に円を描いてみたくなり、そのためには円の方程式がわからなければならないため、自分で円の方程式を発見しました。これもまた「習う前から気が付いていた」もののひとつです。

 高校の数学で記憶にあるものは、ベクトルを学んだとき「え?数でないものを足している!すごい!」と思ったことや、あるいは、xが充分に0に近いとき、sin xとxの比が1に近づくこと(*)の証明で円の面積の公式を使っているので、すぐにそれが循環論法であることに気が付き、職員室に質問に行ったことなどです(円の面積の公式は小学校で習っただけであり、それは暗黙のうちに(*)を使っているのでした)。いまだに高校の教科書のこの証明は30年前当時から変わっていません。4次元のほうはさらに発展しました。「習っていないうちから自分で気が付いていた」ことの大きなひとつとして「積分」があります。これは微分を習うよりも前に気が付いていました。当時のカリキュラムとして微分よりも先に物理で「速度」を習いました。時間が少しだけ進むと距離が少し進む(微分です)。この考えはおもしろく、この考えをうんと展開すると、面積や体積が出るのではないかと思ったわけです。これを考えた動機は、4次元での体積を求めたかったからです(三角形の面積が長方形の面積の2分の1であり、円錐の体積は円柱の体積の3分の1であることから、4次元に行けばそれは4分の1になるのではないかと考えたわけです)。高校では、「自由研究」というものがあり、好きな生徒だけがやればよいのですが、自分で考えたことをレポートにしてまとめて提出するというものがありました。私は中学から考えて来た4次元にかんすることをレポートにまとめ、高2(くらい)のときに提出し、金賞をいただきました。その学校では、過去にその学校の自由研究で金賞を受賞した人間の名前が10年分、書かれていましたが、私以外に、理系分野で金賞を受賞した人間は、過去10年にいませんでした。その学校からは現役浪人あわせて当時20人くらいが東大に行っていました。うち理系が10人としたとしても、したがって私は並みの東大生ではなく少なく見積もっても「東大生100人に1人」くらいの逸材だったことになります。

 ちなみに高校の数学で最も「嫌だ」と思っていたものはおもに2つあり「複雑すぎる漸化式を解くこと」と「複雑すぎる積分を計算すること」でした。このころからはっきりと私は「受験数学(テクニック数学)ではなく学問数学」という側面を持っていたことになります。

 ここまでで高校までの数学について終わります。

2. 大学と大学院の数学

 これは、内容に踏み込むとかなり専門的になると思いますので、スピリットだけお伝えしたいと思います。
 「大学に入った瞬間がピーク」という周囲によくいる東大生とは違って、私は入ってからも着実に伸びていきました。学部に5年、在籍しているのは、20歳のときに、ちょっとした(いま思えば発達障害の二次障害の)統合失調症の症状が出て、1年、学業を休んだことによります。数学科という特殊な学問に進んだのは、先述の高校の自由研究で金賞をいただいたことなどにもよるでしょう。とにかく自分に向いている学問は数学だという自覚はありました。自分なりに悩んだり試行錯誤はしているのですが、数学科のなかでも「集合と位相」「多様体」「ホモロジー、コホモロジー」「微分形式」などに惹かれ、明らかに私の目指す分野は幾何学でした。そのなかでも位相幾何学(トポロジー)が私の目指す学問であり、幼稚園のときの「モノドロミーの発見」にようやくつながっていきました。大学院は「東大数理」(東京大学大学院数理科学研究科)というところで、極めて難関なことで知られる大学院でした。定員40名のところに120人くらい受けに来て、しかも20人くらいしかとらないのです。しかし、入ってみてからこれは「厳しさ」ではなく「やさしさ」であることがわかりました。その難関の大学院を受かっても、「研究の厳しさ」で大学院を去って行く者がしばしばいるのです。しかも数学という学問はかたよった分野で、数学者にならないとしたら取る道は極めて限られているのです。それで「入り口で可能な限り厳しくする」のは「やさしさ」だとわかりました。ともあれ、私は大学院でも優秀でした。最初に指導教官の先生から与えられた論文は、1980年に書かれたある有名な論文でした。その発表を行なったときも指導教官の先生は「なかなか明解でした」と珍しくほめました。「明解」という言葉の意味を具体的に説明するのは難しいのですが「論旨がはっきりしていてあいまいさがない」とか「論理的で穴がない」といったところでしょうか。数学のセミナーで最も見られている点が、その「明解さ」でした。つぎに、1999年の(当時は1999年でした)プレプリント(出版前の論文)をいくつか示されました。先ほどの1980年の有名な論文のアイデアを使った、当時最新の研究の成果でした。1980年の段階で「難しい」と書かれていたのは、一見すると「構成が難しい」と言っているのかと思ってしまいますが、よく読むと「構成はできるのだが応用が難しい」と言っていることがわかります。その応用が1999年くらいに相次いで2分野であったのです。仮にP分野とQ分野としましょう。P分野の立場から書かれた論文(複数)、Q分野から書かれた論文と、両方ともありました。私はあらゆる先行する論文を検討し、自分で新しい概念を導入し、両方の分野ともに最も厳密で「明解な」証明を与えることに成功しました。修士課程1年の12月のことです。指導教官の先生に報告したのはそのしばらく後でしたが、「修士論文としては充分すぎる」と言われました。そして、その先生の手に負える学生ではなくなっていた私は、その道の世界的権威の先生が同じ大学院にいたので、その先生のセミナーに出ることもすすめられ、すぐに、当時のある大きな未解決問題の解決に結びつくのではないかという新しい応用のアイデアを得、さきほどの定理を第1主定理、これを第2主定理として修士論文を仕上げました。このころの私はアイデアが頭から豊富に出ていました。

 首尾よく修士論文を提出した私は博士課程に進みました。そこで私を待っていたのは発達障害の二次障害の精神障害でした。最も重い精神障害で、大学院を2年休みました。これで失われたものが大きく見て4つあります。1つは数学の論文を見ると発作が起きるようになってしまったことです。前のようにアイデアが湧き出るような頭にも戻りませんでした。これで数学者の道をあきらめざるを得なくなりました。2つ目と3つ目は飛ばしますが、4つ目は睡眠障害が残ったことで、これには今でも悩まされています。

 数学者になれていた可能性は大きいです。当時の先輩・同輩・後輩の名前で検索すると大概はどこか名門大学の教授か准教授になっています。(名門大学ばかりなのは、数学科を置く大学は一定水準以上だからだとわかってきました。)私は彼らより優っていたとは言わないものの、劣っていたわけではありませんでした。私は専門を間違えたわけではなかったです。最も向いている学問である数学を選び、その中でも最も向いている位相幾何学の世界にまでたどりつき、そのように優秀な修士論文を書いたのです。この結果はのちにある大学の先生(P分野)に本質的に引用してもらって使ってもらい、そして別の大学の先生(Q分野)のところで2時間の枠をいただいて講演をいたしました。いっしょに行った後輩も「これ修論ですよね?ぼくの修論なんて計算ガリガリですよ」と感心してくれました。彼もいまはある名門大学の教授です。また、呼んでくださったQ分野のその先生も絶賛であり、「発表は明解で、出版前から引用されているし、先行する論文に疑問を投げかけているし(私の論文はその中でも最も後発であったため、最も厳密でした。「皆さんこれが足りないですよ」というリレーションと言われるものが私の論文にはあったのです)、要所要所で笑いも取っているし」と言ってくださいました。その論文の出版を強力に推してくださいましたが、私はその論文は結局、出版できませんでした。

 この大学院での経験は得難いもので、その内容そのものはいまとなっては意味をなさないものになっていますが、「スピリット」はしっかりいまも息づいています。小学生に算数を教えるときも、私はごく自然に「大学院における数学のような」学問的で論理的で「明解な」教え方になります。(いわゆる「わかりやすい」教え方ではありません。そのことは第3部で詳述したいと思いますが、「わかりやすい」のと「明解」なのははっきり異なるのです。)その目で見てみると、算数の教科書・数学の教科書には無数の「突っ込みどころ」があることもよくわかります。また、私のその学部時代の1年にしても、もしそれが中学や高校のころに起きていれば「不登校」ということで大問題になったと考えられます。私には不登校の経験もあり、また、「落ちこぼれ」の経験もあります。私は「落ちこぼれの気持ちのわからない数学の教師」ではないのです。

3. 中高の教員として

 数学者の道を断たれた私は、20代も終わりかけの年齢で、つぶしの効かない数学という分野におり、そういう学生がとる道は限られており、少しずつそろえていた教職の単位をとって中高の教員になろうとしました。しかし、私は専門の数学を極めすぎていて、中高の数学などすっかり忘れていたのでした。たとえば2次方程式の解の公式など忘れていました(覚えておられるかたもおいででしょうね。2aぶんのマイナスbプラスマイナス…というアレです)。あとは推して知るべしで、なにもかも忘れていました。私が学んだ数学すべてを100とすると、高校までの数学は、1にも満たないという実感があります。それくらい私は大学と大学院で本気で学んだのですが、スピリットを除いてすべて無駄になりました。いや、しばらくはスピリットも無駄であったと長いこと思っていたものです。これは後述します。とにかく高校までの数学(世の中ではまさにそれこそが数学のすべてだと思われていることもだんだんわかりました。世の中の数学のほとんどは大学に合格するための受験数学で、それこそは高校までの数学だからです)をすべて忘れているわけですから、あちこちの採用試験に落ちました。もうどこでもいいから内定が出たところにしようと思っていたころ、ある見知らぬ地の私立中高を受けに行き、そこは小論文と面接しかなく、内定をもらって見ず知らずの土地に行きました。

 私に教員は徹底的に向いていませんでした。発達障害ゆえに「空気の読めない」「同時に複数のことができない」私は「教員」などという典型的な「人間力」の仕事はまったく向いていないのでした。そればかりではありません。私の学んできた数学が徹底的に「学問数学」であることが災いしました。私の授業はとにかく「わかりにくい」と言われ、「教科書の丸写し」と言われました。同僚の数学の教員から「自分がわかりやすいと思うような授業をしろ」と言われていましたが、まさに私は自分のわかりやすい授業をしていたのです。すなわち、「教科書のような」「論理的に穴のない」「明解な」授業をしていたのです。しかし、それは私が勤務していた三流の「自称進学校」ではまったく通用しないのでした。その学校で言われている「わかりやすい授業」とは、「論理で書いてある」教科書を「空気で」教えることだったのです。あるとき、自分の教え方と、大学院で学んだ「明解」ということについて、「よくできる」ベテランの数学教師に話したことがありました。その教師は私の話をよく聞いて「その明解路線とやらはやめるんだな」と言いました。しかし、それで私の授業が「改善」されることはありませんでした。また、私の授業は、「わかりやすい」授業ではなく(つまり、「わかりやすい」とは主観であり、「多くの生徒にとってはわかりやすい」ということしか意味しません)、「わかる」授業(明解な授業)だということに気づきました。気づいただけでやめておけばいいのに、私はそれを当時の教頭をしていたベテランの数学の教師に言ってしまい「だったら『わかる授業』をしてみろ!」と叱責されました。また、私は最後の年度、その教師の数学の授業を(ティームティーチングという形で)見学させられました。高校2年の「数列」の授業でした。さすがにベテランで、50分きっちりにおさめてきます。最初は感心して見ていましたが、漸化式あたりから、「この教師は、『漸化式』について、根本的に理解していないのではないか」と感じるようになりました。大学院のセミナーと同じく、「話している人がどの程度の理解度なのか」は、聞いている者には手に取るようにわかるものです。その教員は、「漸化式」について、根本的には理解していませんでした。もちろん教えられますし、解きかたなどを教えることはできるのですが、「根本的に、なぜ世の中に漸化式というものが存在するのか」ということを理解していないことが明らかでした(彼の頭のなかでそれは「大学受験で出るから」という無意識の絶対的な答えがあったことでしょう)。そして、漸化式のテクニカルな解きかたについては、私が数列を教えるときよりも、はるかにたくさんの解きかたを教えていました。そして「数学的帰納法」に至っては彼はまったく理解しておらず、ただ「解きかた」を教えるだけでした(彼はコワモテであり、恐ろしい態度で生徒に臨めば、それはだいたい通用したのでした)。

 あるときその数学教員に「なんとなくわかった」といわれることについて言ってみたことがあります。私は、たくさんの「なんとなくわかった」という生徒さんに出会ってきました。私にとって「わかった」とは、100%、ピカー!と光るようにすべてがわかった状態を指すのでありまして、「なんとなくわかった」というのは「わかった」うちに入らないのです。しかし、だんだん明らかになっていったのは、「なんとなくわかった」という生徒さんは、なんとなくテストでいい点をとり、なんとなくいい大学へ進学していくという事実でした。その教頭は私の話を聞き「みんなそんなものだよ」と言っていました。しかし、そのようなことはありません。東大には「なんとなくわかった」というような学生の割合は低く(それでもけっこういましたが。東大と言ってもピンキリですから)、その教頭も、もう少し程度の高い中高であれば教員が勤まっていない可能性があります。しかし、その教員は、そのコワモテの勢いだけで教員を勤めていました。

 私はこの地へ来てから、自分より数学のできる人には、教員も生徒も含めて、出会っていません。(東大・東大院にはたくさんいましたけれども。)ただし、自分よりじょうずに数学を教える(とくにその三流進学校で教える)ことに長けた人にはたくさん出会って来ました。というべきか、私は何年たってもそういう「じょうずな(できる)教師」にならなかった(なれなかった)からこそ、11年、教員をやって、ついに教員をやめさせられたのです。それほどまでに「ダメ教員」でした。しかし、その原因はすなわち「私があまりにも本格的な数学を修めて来てしまっている」ことにあるのでした。さきに述べた「スピリットさえも無駄」というのはこのことです。私が教員として成功するためには、一日も早く大学院数学のスピリットを忘れ、ただ受験テクニックを教え、ガリベンをさせる教員になる必要がありました。しかし、私はそのようにはなれなかったのでした。多くの人は、どれだけ「学者肌」であろうとも、数年、教員をやっているうちに「教員のコツ」をつかみ、どうにかこうにかやっていくものと考えられます。周囲にもそのような「できない教員」はいたものです。しかし、私の「できなさ」は群を抜いており、どこまで行っても私は「学者」なのでした。数学は論理でできています。しかし世の中は論理でまわっておらず、空気で動いています。私が勤めていたその学校も、まさに空気で動いている職場であり、教師も生徒も空気で動いており、ただひとり論理で動こうとしている(正確に言うと、空気が読めず、論理でしか動けない)私は、ひたすら排除されてきたのでした。ごくまれに私をしたってくる生徒は、ほとんどの場合、その学校では極端に「できる」生徒さんでした。私は、学校教育の裏側ばかり見て育ってきたこともあり、学校の教員の「学校大好き!先生大好き!」というノリにもついていけないのでした。とくに数学の教員に多かった傲慢なタイプ、職員室でできない生徒を「昆虫」呼ばわりしている教員などとは徹底的に合いませんでした。厳しい態度で生徒に接することも苦手で、生徒からもなめられていました。一度だけ、うまくいった5か月間があります。2015年の1学期、中学1年の幾何(図形分野)を任されました。私は徹底的に「直線とは何か」「円とは何か」といったことを、教科書をもとに本質を突き詰めて授業を展開しました。多くの中学生が興味をもって聴いてくれました。彼らはそれまで「受験算数」のひたすらテクニカルに込み入った(私に言わせると「難しい」のではなく「ややこしい」)問題ばかり解かされて入って来た新入生にとって、私の「論理的で学問的な」授業は新鮮だったのです。私の授業は、内容は中学1年の数学でしたが、スピリットとしては大学院の数学のようでした。前年の先生(とても良心的ないい先生でしたが)の授業の評判を、1学期中間テストの際のアンケートで、9%も上回る「興味深い」という結果を出しました。(前年が20%、私が29%。)なぜこの勢いが5か月で終わってしまったかと言いますと、長く続いた「躁」が終わって「うつ」になったからですが、直接の引き金になっていることは、このころ(その年の9月ごろ)から、中学1年の幾何は、空間図形となってきていて、「論理的でない、直感に頼った説明」がとたんに多くなってきたから、というのがあります。その最初の1学期のあいだのような、「論理的で学問的な」授業はもはや不可能でした。たとえば、「同一直線上にない異なる3点を通る平面は、ただひとつ存在する」といったことは、「明らか」と言って通過しなければならなかったので、賢い生徒さんほど納得できないようでした。そして、このような内容が教科書で連続していたのです。私のその5か月間のウリであった「論理的で学問的な授業」の継続は不可能となり、まもなく私は4か月の休職に追い込まれました。しかし、私には「論理的で学問的な数学の授業は可能だ」という手ごたえが残ったのです。これは「大学院数学のスピリット」が活きた唯一の例でした。

 最後に、この学校で出会った、「ことごとく私と正反対だな」と思えたある数学の教員の特徴を挙げます。この教員の特徴の正反対が私の特徴です。
・受験第一主義、大学進学実績がすべて。
・ものすごく性格が悪い。
・朝の小テストの問題を作ったり、居残り勉強で追試をやらせたりするのが大好き、また大得意。
・「ものすごくできる先生」として学校全体から恐れられている。
・数学の問題を解くことや大学入試を解くことは「ゲーム攻略」の感覚。
・数学のできない人間は家畜扱い。
・性格の悪さが反映されて、作る問題もしばしば意地が悪い。
・テストで狙った平均点を正確に出すことができる。
・授業以上に補習や進学講座などが大好き、また大得意。
・授業の進度は猛烈に速く、その代わり問題演習などに大量の時間を割く。
・大学以降の数学は知らない。というか、高校までの数学が数学のすべてだと思っている。
 この先生の正反対が私の特徴だと思っていただいて結構だと思います。

4. これからの私の算数・数学の指導方針

 ここまでお読みくだされば、私の特徴や傾向はだいたいつかんでいただけたのではないかと思います。最近、ある小学生の算数を、個人指導で、5年生の途中から見ています。その生徒さんは、典型的な空気の読める普通の生徒さんです。最初は私のペースがつかめなかったようです。私の教え方は、どうしても「小学校の先生」のようにはならず、「学問算数」になりました。算数までもが、スピリットとしては大学院の数学のようなのです。最初は、その生徒さんを泣かせてばかりいました。その生徒さんは、論理で教えているこちらの話を、まるで空気を読むように聞いていたのです。その生徒さんを泣かせていたものは、私の厳しさではなく、「数学という学問のもつ本質的な厳しさ」だったと思います(私はやさしい先生です。なめられるほどに)。私は空気で教えるのでなく「論理的に、学問的に」教えようとしていたようです。しかし、半年くらいかかって、その生徒さんは私のペースを理解しました。いまではその生徒さんに尊敬されつつ、楽しく算数の勉強をしています。私は、このように1対1なら、小学校の算数でさえも、「論理的に、学問的に、私のペースで」教えることができるということをつかみました。そして、それは好評を得るものだったのです。それは2015年の1学期の中学1年の数学を教えたときの感触と同じようなものでした。

 私の教育方針を、端的に表す恰好の例があります。ベネッセのサイトから引用します。「ニガテな数学にも興味がわく中学数学おもしろ豆知識」という、かなり上位のほうにヒットするサイトです。ベネッセは私の正反対のような教育方針ですので、ぜひこれの「逆」が私の教育方針だと思って見ていただければ、と思います。

 まず、私は、このように小学生・中学生・高校生などの興味を引くような「おもしろ豆知識」は持っていません。多くの教員は、数学に限らず、ピアノのレッスンの先生でも何の先生でも「これを言うと多くの生徒が『へえ!』と驚いて納得する話題」というものを経験上いくつもストックしており、それらを小出しにすることで生徒を引き付けています。私にそのような「小手先のテクニック」はありません。なぜかというと、こういうものはよく「トリビア」と言われるもので、「その道では有名だが多くの人は知らない」という、「常識と非常識の境目」をねらったものだからです。「常識」とは「多くの人が暗黙のうちに共通して了解しているもの」です。私は発達障害の障害特性から、「常識」が理解できませんので、これは根本から苦手なものです。こういうものが得意であれば教員をやめさせられていないでしょう。
 そして、このページの下のほうに現れる、以下の「ちょっと数学が苦手になってきた中学生の親御さん向けの文章」にその顕著な特色が典型的に現れていますので引用します。
 「数学を好きになるポイントは、時間をとってじっくり取り組むことです。わからないからと、すぐに答えを見るのではなく、「何か方法がないか」と時間をかけて考え、自分なりに試行錯誤することが理解の幅を広げます。考えた過程があれば、後で答えを知ったときに「なるほど、それならばさっき考えた方法も使える」などと、答えを導く別の方法を得ることもできます。1つの問題にじっくり考え取り組むことが、お子さまが数学の面白さを知るきっかけにつながっていくはずです」
 この文章の特徴の第一は、「数学とは問題を解くものだ」という暗黙の共通認識です。
 私は大学院まで数学を修めてきました。それは決して「問題を解く」だけのものではありませんでした。数学とはいわば文学のようなもので、論文とは思想を書くようなものだったのです。多くの人は「文学」と聞いて即「問題を解く」と連想はしないのではないでしょうか。「文学」といえば「高校までの国語」を連想し、「作者の言いたいことはなにか」とか「この漢字の読みはなにか」といった「問題」ばかり連想なさるかたには「文学」も「問題を解く」ものかもしれませんが、少なくとも私にとって数学とは「問題を解く」ものではありません。それは、ほとんどの皆さんが、数学と言えば「やたら学生時代に問題を解かされた」という記憶ばかりあるせいで、親御さんも生徒さんも、ベネッセも教員さえも、みんな数学は「問題を解く」ものだと思っているのです。先述の中学1年生の授業で成功した年度も、中学3年生くらいになると「先生、そんな理屈はいいから解きかたを教えて」というふうになります。ひとはいつからそうなるのでしょう。
 もうひとつのポイントは「数学を好きになる」「数学の面白さを知る」ということの強調です。これは親御さんに向けた文章です。わが子に数学を好きになってもらいたい気持ちの根本を探ると、結局「数学を好きになって、数学が得意になって、いい大学に入ってほしい」という願望があるということが、私の11年の教員生活から明らかになっています。べつに数学が好きにならなくてもいいのです。だいいち、数学などを好きになると、「数学者になりたい」などと言い出し、大学の数学科に行き、痛い目にあいます。私はしばしば福祉の人などから「楽しい算数教室」などをやってみることをすすめられました。しかし、私の腰が重かった理由は、まさにそういう「塾」に入れてくる親御さんの気持ちのどこかには「そうやって数学を好きになって数学が得意になって、ゆくゆくはいい大学へ」という思いがあることが見えていたためです。

 34年前から北九州でホームレス支援を始めた奥田知志(おくだ・ともし)さんがよく言うこととして「問題解決型支援」と「伴走型支援」の話があります。従来の支援は「問題解決型」であったと。これは「願いがかなう」ことであり、また宗教でいえば「御利益(ごりやく)」です。食べるものがない人には食べ物を。住むところがない人にはアパートを。しかし、それだけでは「支援」にはならないと奥田さんは言います。かんじんなのは「伴走型支援」。問題は解決しないかもしれないけれど、ともかくつながる、ともかくともにいる。たしかにお金は大切ですし、「食う寝るところに住むところ」がなければ、人は生きていけません。しかし、最も大切なのはそれではなく、「人とのつながり」だと奥田さんは言います。人は一人では生きていけません。人にはぐちを言う相手が必要です。甘える相手が必要です。ほんとうに必要なのは「支援」というより「友達」なのです。私の目指す教育もこれに非常に近いです。すなわち問題解決型ではなく伴走型だということです。不登校の皆さんとも、大人になってもう一度数学をやりなおしてみたい社会人の皆さんとも「ともかくつながる」。たしかにテストの成績がよくなるわけではないかもしれないし、私の講座を受けたからといっていい大学に受かるとは限らない。もちろん「問題解決をやめた」と宣言しているわけではありません。面倒を見させていただくからには、理解できるようになれるよう最善を尽くしますし、テストでいい点が取れたら素直にともに喜びたいと思います。(そして、わからないことがあったらともに苦しみたいと思います。)しかし、私の目指すものは「問題解決」ではなく、テスト対策でも大学合格でもありません。だいいち「学歴は救ってくれない」ということは私のこの46年の人生が証明しています。学校生活に疲れた皆さんにとって私は「まともなことを言う唯一の大人」かもしれません。そんなわけで、私の目指すものは「問題解決型教育」というより「伴走型教育」なのです。そして付け足しますと、そんな私は、これでも現役東大合格の「受験の勝利者」でもあるのです。結局、私のような「本質追求型」が、最終的に受験でも勝利するということでもあるのです。繰り返しになって申し訳ございませんが、それは単なる結果に過ぎず、私の目指す教育はあくまで「伴走型」です。奥田さんが「支援」という言葉さえ使いたくないのと同様、私もほんとうは「教育」という言葉も使いたくないくらいで、「友達」というのが最もしっくりきます。私は皆さんの友達になりたいです。幸い、数学というものは、論理でできていますので、思想や信条や宗教などに左右されません。誰がやっても1+1=2になるところが数学のフェアでいいところです。「なんの役に立つのか」と言う前に、「ともかくつながる」というのを目標にしたいです。

 ここまでお読みくださりありがとうございました。現在、始めております。だいたい決まっていることを書きます。1.ZoomやSkypeでの1対1での個人指導です。2.対象は、おもに社会人のかたで、算数や数学を学び直したいかたです。現役のお子さんも歓迎いたします。3.テキストはおもに教科書です。詳しくはお問い合わせください。4.原則として、月に4回、1回90か60分、もしくは月に2回、1回90か60分です。5.第0回(ご相談)は無料です。まずは無料相談からどうぞ。詳しくは以下をご覧くださいませ。


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