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グレーゾーン

家族関係に難がある人と親しくなりやすい。気がついたのは22歳、就職したばかりの頃だ。日常、話がきちんと通じていると感じられる相手がほとんどいない。それでもそこそこ上手いことやってきた。重なる部分はまああるし。深度がそうでもなくても、ある程度通じる人はいるし。通じなくても交流はできるし。だから稀に話が無茶苦茶に通じる人に出会うと、一気に心を開けっぴろげにする。私の言葉選びのまま、相手の頭の中にもともと用意されていたかのようにすんなりと意図が伝わり、すっと言葉が返ってくると、強く喜びを感じる。同じだ、と思う。同じ過去を通り過ぎてきたのだと。深い地点で思想を共有できる相手には共通点があって、それが"家に悩みがあること"だった。くわえて、"側から見れば幸福に"育ち、生きているということだった。
狭間は孤独だ。白か黒か、陰か陽か、善か悪か。どちらか一方でいられるならどんなにいいか。どれほど楽に生きてゆけるか。ほとんどの人はその世界だけで生きている。もう一方の存在は知らない。知りもしない。間にいる者のことなんてもっと知らない。彼らの中に私達はいない。それが彼らにとってすべてで、正しいことだ。私たちはグレーゾーンにいる。白にも黒にもなれない。振りはできるがどちらにも馴染めない。今のアパートに住んで8年5ヶ月が経つが、私がさみしいのは一人暮らしが長いからではないのだ。
一人で過ごす方が気楽だ。本来は私はそれが好きだ。人といる方がずっと苦しい。到底理解しあえないという現実を突きつけられるからだ。一人きりの空間や時間が心細いのではない。同じになれないことに失望する。私とあなたは全然違う。それがさみしい。思い出させてくれた人は、一度電話しただけで、名前の字も知らない。はじめての電話では、生活の解像度のこと、根の暗さと社交性の均衡のこと、有吉は優しいってこと、話をした。私はまた本屋へ行く。読んだことのない作家の文庫を手に取る。

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