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第34回 『雪沼とその周辺』 堀江敏幸著

 こんばんは、JUNBUN太郎です!

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 今夜も「読書はコスパ最高のコスプレです」のお時間がやってきました。本は自分以外の人間になりきる最も安あがりな道具。この番組では、リスナーのみなさんから寄せられる、読書体験ならぬコスプレ体験を、毎週ひとつご紹介していきます。
 ではさっそくリスナーからのお便りをご紹介しましょう。
 ラジオネーム、ナベさん。

 JUNBUN太郎さん、こんばんは。
 わたしは最近、住み慣れた東京を離れ、地方のとある町に単身越してきました。転勤です。人生も折り返しを過ぎたこのタイミングで、家族や友人もいない土地で暮らすことになるとは思ってもいませんでした。
 どこに行くにも車が必要で、何を調達するにもクリックひとつというわけにはいきません。不便な町です。自宅近くの古びた商店街にはシャッターの閉じられた店がいくつも目につきます。歩いていると、古書店がありました。
「あんた、見ない顔だね」
 ふらり入ってみると、店の奥のカウンターにいる主人がぶっきらぼうな調子で声をかけてきました。
 買う目的があって入ったわけではありません。狭い店内をぐるり一周して、そのまま出て行こうとすると、ちょっと、と呼び止められました。
「これ、持っていきなさいよ」
 そう言って、なかば無理やりに押しつけられたのが、

『雪沼とその周辺』という一冊の文庫本でした。

 わたしが断ろうとすると、いいから、いいから、とまるでわたしを追い払うようにぞんざいに手を振り動かすので、仕方なくわたしはそのまま店を後にしました。

 部屋に戻り、あらためて見ると、それはどうやら連作の短編小説集のようです。
 ためしに読んでみると、とある山あいの町にあるボウリング場を廃業することに決めた店主が、最終営業日の閉店間際、トイレを借りるためにやってきた若い男女に、きまぐれにゲームをひとつプレゼントします。ゲームが進むにつれ、店主のこれまで歩んできた人生が徐々に浮かび上がってきました──

 山あいにある架空の寂びた土地に暮らす人々のささやかなる人生の変わり目を映した『雪沼とその周辺』をまだ読んでいないというリスナーの方は、ぜひ読んでから、続きをお楽しみください!

 この老いた店主は、とある元プロボウラーの鳴らしたボウリングの音に魅せられ、その音をもう一度聞くことを夢に、骨董品とも呼べる古びたレーンやピンセッターを海外の廃業した店からわざわざ引き取ってまでして始めたボウリング場を、結局は夢叶わないまま廃業することに決めたのでした。ところに、閉店間際、若い男女に贈ったゲームの最後の一投を、その若い男女に勧められて自ら放つことになり──わたしはこの店主がボールをいよいよ投げようという時、静かな興奮を胸に覚えました。

 人生には時を積み重ねていく中で、本人にしかわからない、他人からしたらささいなことにしか見えない、しかし大切でいて奇跡のような転機や変化の瞬間が訪れるものなのですね。
 この短編小説集を読みながら、雪沼という架空の町に暮らす人々の、そうした人生の一瞬間をわたしはひとつひとつ目の当たりにしたのでした。

 先のボウリング場店主を始めとして、亡くなった料理教室の先生と残された生徒や知人たち、河岸段丘で製函工場を営む男、養蚕場だった部屋で書道教室を営む歳の離れた夫婦、商店街のレコード屋を居抜きで引き継いだ男、地下にピラニアを飼う中華料理店の店主、防災用具の会社に勤める凧に思い入れをもつ男──作品を読み進めるごとに、わたしはまるで雪沼という町に一住人として暮らしているような感覚になりました。それはとても安らかでいて穏やかな感覚でした。
 この雪沼という架空の町を心の片隅に持っていれば、現実の暮らしも多少はマシに思えるかもしれない。

「こんにちは」
「あんた、このあいだの」
「この本、おいくらですか?」
 次の週末、わたしは古書店を訪ね、文庫本の代金を支払いました。
 すっきりした気持ちで出ていこうとすると、ちょっとあんた、店主がまたわたしを呼びとめます。
「これ、持っていきなさいよ」
 そう言って、わたしにまた新たな本を握らせようとします。その口調は相変わらず、ぶっきらぼうなものでしたが、その骨董のような古びたカウンター越しに座っている老いた店主が、不思議なことに、わたしの目には、雪沼の住人のようにみえてくるのでした。

 小説に書かれるに値する特別な人間がいるのではなく、どんな人間も、誠実なアングルで眺めさえすれば、人生の甘苦が美しく折り重なってみえるものなのかもしれない。
 そう思うと、この見知らぬ人間ばかりの町で暮らすことが、わたしにとって、少しだけ楽しいことのように思えてきました。
 この小説に、そして、この小説に出会わせてくれた古書店の店主に感謝します。

 ナベさん、どうもありがとうございます!
 この短編集は、それぞれ短編がひとつの作品として完結してはいるものの、それぞれの登場人物がゆるやかにつながっていて、読み進めるほどに、雪沼という町の輪郭が浮かび上がってくる、なんともすてきな世界をもっていますよね。
 たしかに、この作品を読むと、そうした世界にまるで自分が暮らしているかのような気持ちになりますね。この作中の登場人物たちは、古い道具を愛用するように、人生の甘苦と誠実に向き合い、丁寧に生きていて、共感をそそられる人々ばかりです。でもナベさんのおっしゃるように、どんな人も誠実なアングルで眺めれば、その人の人生の美しい時間の蓄積や変化の一瞬がみえてくるものなのかもしれません。
 読書はそんなアングルを手に入れるための旅なのかもなーなんてぼくは思いました。
 ナベさん、新しい町での暮らし、楽しんでくださいねー。

 それではまた来週。 

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