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第36回 『一人称単数』 村上春樹著

 こんばんは、JUNBUN太郎です!

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 今夜も「読書はコスパ最高のコスプレです」のお時間がやってきました。本は自分以外の人間になりきる最も安あがりな道具。この番組では、リスナーのみなさんから寄せられる、読書体験ならぬコスプレ体験を、毎週ひとつご紹介していきます。
 ではさっそくリスナーからのお便りをご紹介しましょう。
 ラジオネーム、ノボルさん。

 JUNBUN太郎さん、こんばんは。
 ぼくは普段あまり本を読みません。
 ですが、振り返ってみると、村上春樹の小説は読んできました。新作が出ると毎回話題になりますよね。ぼくの周りでも、もう読んだ? って聞いてくる人がけっこういて。ただのミーハーなんです。だから、ハルキストって自称できるほど熱心なファンかって聞かれると自信はありません。でも、作品を読むたび、その世界に強く引き込まれている自分がいて、その魅力を言葉にうまくすることができないまま、いつもこう思うんです。
 こんなすごい世界を書いてしまう村上春樹って、いったいどんなヒトなんだろう? って。

 先日、書店に立ち寄ると、平積みされている本に目が留まりました。お、村上春樹だ。

『一人称単数』

 帯には6年ぶりの短編小説集とあります。迷わずぼくはそれをレジに持って行きました。
 さっそく読み始めると、しかし、これまで読んできた作品とは、どこか趣が異なります。ふむふむ、どうやらこれは、小説の形をとってはいるけれども、村上春樹本人と思しき男が過去を回想しているようです。もしかすると、これは「村上春樹」を体験できてしまう(コスプレ体験ですね?)かもしれない? ワクワク、ドキドキ、興奮を抑えながら、ぼくは読み進めました。
 すると──

 まさか私小説? 村上春樹本人と思しき「僕」「ぼく」「私」によって過去と現在が語られる短編小説集『一人称単数』をまだ読んでいないというリスナーの方は、ぜひ読んでから、続きをお楽しみください!

 面白い!
 思わずニヤけてしまいました。
 読んでまず気がつくのは、どの短編にも、どうやら、これまでの長編作品に見られたモチーフが使われているところ。10代の若い頃のエピソードが、70代となった本人(もう70代なんですね?!)による回想という形式で語られていく──それはまるで、これまでに発表してきた数々の小説の元ネタとなった実体験を明かしているようなのです。
 1つ目の『石のまくらに』では、互いに本命ではない男女のゆきずりのセックス。これは村上作品おなじみのモチーフですよね?
 2つ目の『クリーム』では、かつて同じピアノ教室に通っていた女の子から突然リサイタルの招待状が届きます。過去の作品でインビテーションが届くのは、『ねじまき鳥クロニクル』や『騎士団長殺し』などがそうでしょうか。
 それに続く『チャーリー・パーカー・プレイズ・ボサノヴァ』『ウィズ・ザ・ビートルズ With the Beatles』『「ヤクルト・スワローズ詩集」』『謝肉祭(Carnaval)』でも、いかにも本当のような嘘、完璧な女の子とのつかの間の遭遇、記憶の喪失、もらった連絡先をなくしてしまう等、過去の作品で読んだ覚えのあるモチーフが登場し、それらを読みながら、ぼくは、なるほど、村上春樹は過去のこんな経験をヒントに作品を書いてきたのかなどと思いながら、まるで本人になった心地で読んでいきました。
 ところが、7つ目の『品川猿の告白』に入って、あれっ? となにやら雲行きがあやしくなってきました。たしかに品川猿も、過去の作品で読んだ覚えのあるキャラクターだけれど、これが実話であるはずがありません。どう考えたってファンタジー。猿が喋るなんて現実の世界ではぜったいないですよね。好きになった人間の女性の名前を盗んでしまうという猿の告白を読みながら、ぼくは思い違いをしていたのかもしれないと思い始めました。これまでぼくは「村上春樹」をコスプレしているつもりでいたけれど、これはもしかして──。
 ぼくは、いよいよ、最後の短編であり、この作品集のタイトルにもなっている『一人称単数』を息を詰めて読み始めました。するとそこには、それまでとは異なる世界が広がっています。語りの主体である一人称単数は、それまでの「僕」(あるいは「ぼく」)ではなく、「私」になっています。そこでは、過去の回想ではなく、理不尽とさえ呼べるような事態に遭遇する現在に対する強烈な違和感が語られます。「私」はそうした自分を、人生のどこかで回路を取り違えてしまった自分ではないかと疑ったうえで、次のように自分に問いかけます。

 そして私は今ここにいる。ここにこうして、一人称単数の私として実在する。もしひとつでも違う方向を選んでいたら、この私はたぶんここにいなかったはずだ。でもこの鏡に映っているのはいったい誰なのだろう? (作品より引用)

 これを読んだ時、この短編集は単なる「村上春樹」の回想録でもありきたりな私小説でもないことにはっきりと気がつきました。もっと深い、企みに満ちた作品であるということに──。

 この読書体験が「村上春樹」のコスプレでなかったことは、ちょっぴり残念ではありますが、村上春樹が次にどんな人称でもって、どんな世界を語ってくれるのか、期待に胸膨らみました。次の新作を楽しみに待ちたいと思います!

 ノボルさん、どうもありがとう!
ぼくもこれを読んだ時、同じような感覚に陥りました。「ヤクルト・スワローズ詩集」、ほんとに存在するかと思って、ググっちゃいましたからね笑
 おそらく、作者は、その設定から読者が作者自身に重ね合わせて読むだろうことを想定したうえで、嘘と本当の狭間で言葉のもつ可能性をぞんぶんに開いてみせたのではないでしょうか。『謝肉祭(Carnaval)』で、「僕」の過去の女友達がシューマンのつくったピアノ曲 謝肉祭について語る中に、それがやんわり示唆されているようにもぼくには思えました。

 どちらか一方だけということはあり得ない。それが私たちなのよ。それがカルナヴァル。そして、シューマンは、人々のそのような複数の顔を同時に目にすることができた──仮面と素顔の両方を。(作品より引用)

 ぼくもノボルさんと一緒に次の新作を楽しみに待ちたいと思います!
 またお便りしてくださいねー。

 それではまた来週。

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