ken watanabe

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最近の記事

唐辛子の愉悦

デルモンテ社のあらごしトマトを2パック買う。 新玉葱も店頭に並び始めた。これを1つ。 青森のにんにくも1つ。 完オフとした日の午前中にトマトソースを仕込む。 上記はそのための材料。 冷蔵庫にローリエがあったので1枚。 寒の戻りの雨降りは、 年末に被った追突被害事故の影響か腰や背中が痛む。 リハビリ通院を挟み本日2度目の台所。 作るのはアラビアータのパスタ。 肝は袋買いした大量のタイ唐辛子からの1本。 これが実に良い仕事をする。 大概はパスタ1袋を茹でるので食べきれない

    • なりたいもの。

      ん十年振りでパスポートを更新する。 ん十年振りに、国際運転免許を申請した。 そして、3月末でようやく退職と思いきや、 その退職に待ったがかかる。 それならばとこちらの条件を伝えると、 その翌日にはそれに沿った雇用承諾書が送られてきた。 その間、自社株を処分して私は2度旅に出る。 その間、私は年金受給者になる。 その間、年末に被った交通事故のケガの示談を迎える。 2度目の旅から戻れば、晴れて離職票が手元に残るだろう。 そして、生涯初となる失業保険の給付申請へと続く。 そして

      • ジュムのこと

        トヨタタイ工場に勤めている頃に日本語を覚えたという。 故郷はアユタヤから100キロほど離れた北部。 ユニオンジャックにカラーリングしたトヨタヴィッツと、 ピックアップトラックを運転する。 ビジネスビザで連続5年日本にいる。 それもこの3月で故郷に帰り、 父親とその姉妹たちで切り盛りする農場と、 新たにガソリンスタンドに雑貨店を併設した店を、 故郷の街道筋に作ると意気込む。 私とは前職時代に保険関係の会合で会ったのが最初。 その頃彼女はバンコクで生命保険会社に勤務していた。

        • 犬とオレの午後

        唐辛子の愉悦

          彼の年のラプソディ

           レオンの終幕のように視界のフレームが歪み半回転し、更に半回転して地面と天井を映していた。あー、あと少しで眩い街路の光の中に進めたのにな・・・と、私も思っていた。しばらくすると仄暗い木立の中で威勢よく客寄せをする若い兄ちゃんの声が聞こえだした。「さてさて胎内巡りの出発の時刻を過ぎております、お急ぎの方はこちらまでお集まりくださいまし!」木立の陰にぽっかりと開いた木戸口は、炭鉱の坑道に似せた木組みの入口を呈していて、そのトンネルの向こうは真っ暗な闇が四角く穿たれているようだった

          彼の年のラプソディ

          坂道の電話ボックス

          坂上の人待ちをするテレフォンが瞬きをする懐かしひ夜  昔、駆け出しの編集人だったとき、担当した歌人に褒められた歌。丁度中坂を下ったところに部屋を借りていて、1日の半分は仕事して、夕方5時過ぎには、この坂を上った学校で勉強していた。本社の社長からは古歌を勉強しろ!と、万葉集と古今和歌集をプレゼントされていた。勤務先の大通りを挟んだ路地にぴあ立ち上がり、中小零細出版社がひしめき合う街で、ゲラを抱えて日々自転車で疾駆していた。ヨコつながりのそういう業界はいろいろな人がアレコレの仕

          坂道の電話ボックス

          熱には熱を!

           明治座公演の千秋楽を涙と共に観る。未曽有のコロナ禍の中、怯え続けた市井の集合者一人ひとりの『熱』を思い涙する。それは、本舞台に関わった、市井の集合者たる者たちの怯えと震え、混沌とした戦後闇市下の這いずるような人々の暮らし・・・と、重なる重しの共有をオーディエンスに与えただろう。ザ・クロサワに寄り添う丁寧な脚本や、三池さんの合理的な演出と相俟って、それらの見えざる恐怖を味わっている集合者たちの熱は、舞台の終幕近く『熱気の渦』となって私に跳ね返ってきた。  時に緩急自在に往時

          熱には熱を!

          ある日の女の子

           明治座千秋楽を観に行く。12年ほど前に、今回ギン役で2度目の舞台を踏んだ女の子が、原宿で小さなブランドを立ち上げた。それは自身でデザインした洋服とペット着をお揃いにしたユニークな店。同じ敷地内に同ブランドのカフェも併設していた。丁度私も、彼女と同年齢の女の子を絵描きとしてスカウトした。「人とペットのポートレートイラストレーション!」と題した絵仕事をその子を中心として回し始めた頃、俄然佐々木希さんが目に飛び込んできて暫くの間、彼女が脳裏から離れることはなかった。  小さい頃

          ある日の女の子

          紅いスカーレット

           『モンタナの風に抱かれて』を知っている通な人からのリクエスト。描いてからすでにかなりの時が経つ。その直後、マクアダムスくんを青色の中に落とし込む。つまり、連作品。彩色はゴンドラパステル。きちんと額装して依頼者にお渡ししています。Future*Picture という小さな額装絵の制作販売も行っております。

          紅いスカーレット

          1976年∞

           その年のカセットテープには、ナタリー・コール「ミスター・メロディ」を入れていてハードリピしていた。その年の東京音楽祭のグランプリ曲だ。彼女のファーストアルバム(ゴスペル調ファンクソウルの知られざる名盤)を、当時所有していた4チャンネルスピーカーで爆音まみれで聴いていた。西海岸音楽フェチでギター弾きの弟は、離れの2階の隣の部屋で耳を塞いで悶絶していたものだった。1976年、私が16歳の夏のことだ。  生まれて以来ずっと私は変わった子供だった。いつも人の腹底を探るような鋭い目

          サーフィン・オブ・タランティーノ

           Netflixでほぼこの1週間クウェンティン・タランティーノを見続けた。ずっと以前にキルビルを観ただけの新参者だが、最新作を皮切りにして配信に付されている過去作を遡った。歴史的なニュアンスや背景、人種問題、悪の中にある善しきこと等々を、映画的な魔法の中に落とし込む妙技は、視聴した作品共通に流れる、茶目っ気や軽やかさと共に満たされながら、それでいてなんだか落ち着かないほど悲しくやるせない気分が絶えず付きまとう。  脚本随所にはみ出すほど、その饒舌な無駄話の数々、オチに繋がる

          サーフィン・オブ・タランティーノ

          ワクチンノーウェア

            悪たれを自慢する男でもその懐には氏子神社の御守などを忍ばせているものだし、いざとなれば神様に代わってでも、握りしめている拳を解き、対峙する敵の掌を握りしめながらウソ泣きのひとつでもするかもしれない。不自由を絵にかいたようなご時世の中にあっては、そんなのは屁とも思わない。所詮御守は気休めでしかないからだ。人生はいつだってケースバイケース。俺がその悪たれを殴り倒したのもそういうことだった。  そいつが懐から取り出したのは1本のアンプルだった。そいつはニタニタ笑いながら人差し

          ワクチンノーウェア

          協働営業のお知らせ

           新コロ下での小営業。お客様は大の猫好き。 となると、やはり色鉛筆絵描きのkumiさんの出番だろう?と、私のスマホ内に残る彼女の作品の一作をお勧めした。普段ならば、企画ものである縁起物シリーズを一番に勧めるところだが、私の中に燻る見えざるものーが、この絵描きさんの描いた傑作を拾い出していた。描くものが簡単なものではつまらないじゃないか?という当初からの囁きは信なのだと思う。  この絵描きさんとは以前から、現在の新コロがワクチンで一服した折に、再度共同で営業に回ろう!で意見

          協働営業のお知らせ

          雨の降るとき

          砂漠に 雨を降らそう 砂漠に 雨を降らそう 一握りの砂に 雨を降らそう 一握りの 一握りの 僕らの心に いつか雨を降らそう 追い出された街の とぼとぼと歩いた はずれのバス停で ここよりはずっと遠くの大地に たなびくような雨の幕が下り そしていつものバスのこない日に 僕らの心に いつか雨を降らそう 一握りの砂に 一握りの雨が降るように この砂漠に雨を降らそう

          雨の降るとき

          その娘の制度

           いつか縦割り班ということを言い出した人が見直されるときが来るだろうか?と、ここ数か月飽くことなき批判の見出しだけが踊る書き物を見やりながらそう僕は思った。  僕が最上級生になった春、小太りで頭の禿げかかった校長先生が僕たちの学校へやって来た。しかも、それは、とんでもなく遠いところから赴任して来たという話で、その着任ニュースが町の広報誌に載る前から、僕の親たちの間では前代未聞、特殊な事件として興味本位な噂が立ち上っていた。だからだろうか、新学期最初のホームルームで、今年は各

          その娘の制度

          100年1日

            祖父が植えた木々と対話する歳になった。そもそも庭には木を植えない人だった。農家は庭が作業所という側面に加え、多くの季節的な働き手たちが野天で飯を食うための食卓も兼ねていたからだ。母屋の西側からの堤防伝いには椎の木が植えられている。昭和初期に入植が勧められた干拓地区には元々湖とを隔てる堤防が無かった。歴史を紐解けば当時の入植者たちが手仕事で築堤を繰り返した過去にぶち当たる。祖父たちは護岸のためと、その実を食料にするためと、何十年か後の家屋の普請のために、椎や松や杉や欅などを