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サーフィン・オブ・タランティーノ

 Netflixでほぼこの1週間クウェンティン・タランティーノを見続けた。ずっと以前にキルビルを観ただけの新参者だが、最新作を皮切りにして配信に付されている過去作を遡った。歴史的なニュアンスや背景、人種問題、悪の中にある善しきこと等々を、映画的な魔法の中に落とし込む妙技は、視聴した作品共通に流れる、茶目っ気や軽やかさと共に満たされながら、それでいてなんだか落ち着かないほど悲しくやるせない気分が絶えず付きまとう。

 脚本随所にはみ出すほど、その饒舌な無駄話の数々、オチに繋がるまでのコマ割りの長さ、物語の進行の逆転も妙なる作家性をひしと感じる。クレジットのフォント、音楽の頑固さ、血しぶきの量然り、彼は私たちと同じように敬愛する作家と、その作品の中で大人になったのだろうと想像できる。けれんみなくスパッ!と終わるのもこの作家の特異的なところ。

 彼の愛する常連役者人の中でも、クリストフ・ヴァルツには目が行ってしまう。よくもまぁこういう役者を見つけ出すものだ。この人の指先の演技が実に可笑しい。

 次回作で監督業から足を洗うと公言する彼だが、お喋りが過ぎればただただ長尺な・・・と紙一重というのはあるだろう。娯楽映画と割り切れば、確かにそういう時代が存在していたことを知るものにとって、だから、とても懐かしくもある。そう、とてつもなく。ある意味で。


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