100年1日

  祖父が植えた木々と対話する歳になった。そもそも庭には木を植えない人だった。農家は庭が作業所という側面に加え、多くの季節的な働き手たちが野天で飯を食うための食卓も兼ねていたからだ。母屋の西側からの堤防伝いには椎の木が植えられている。昭和初期に入植が勧められた干拓地区には元々湖とを隔てる堤防が無かった。歴史を紐解けば当時の入植者たちが手仕事で築堤を繰り返した過去にぶち当たる。祖父たちは護岸のためと、その実を食料にするためと、何十年か後の家屋の普請のために、椎や松や杉や欅などを植樹した。

 現在、昭和初期に植樹して現存する樹木は、椎の巨木が1本と、東の日当たりの良い土地に屹立する棕櫚の木が1本あるだけである。棕櫚は樹皮が麻紐のように剥けて、昔の人は実際にそれでロープや舟用の補修材などに利用していた。

 思いつく限りで子供のころに見た庭の木々を思い出すと、イチジクの木と、台風で数十年前にダメになった夏ミカンの巨木の2本だけである。いかに庭に木を植えない祖父だったかが知れよう。

 昭和40年代も半ばになるころには、急速な農作業の機械化が進み、庭で作業をしたり、大勢の人の昼飯のお膳を並べることも無くなった。そうだ、農閑期に祖母や母が手内職で編んだムシロなどを、それを売りに出す前にはズラリと庭に干していたし、藁縄用の稲わらの束なども、夏の土用の頃には庭中所狭しと干していたものだった。

 そういう作業が廃れてきたころから、それに代わる生業として父母が園芸にその比重を移し、見慣れぬ樹木も増えだしてゆく。

・五葉松
・白玉椿
・八房五葉松や大王松(は、巨木になりすぎて頭痛の種だ)
・柊や樫、モチノキ、拓植や槙
・サツキやツツジの類

などである。

 庭はあっという間に木々で埋まり、形よく剪定され何となく仰々しくなって、手間と費用を啄んだ。

 祖父が植えた広葉樹群もさきの震災時や時々の災害時には決まって悪さをするように見受けられる。とにかく毎年落ち葉を片付けるだけで途方もない暮らしが繰り返されている。

 娘が幼いころにブランコを吊り下げたマテバシイ。共に暮らした2匹の愛犬が眠る椿の根本。樹勢ありし日々の夏に遭遇するカブトムシの寄生木。

 木々への思いは相反する人生にも似ているが、100年の思いを一瞬でなぞり断ち切るのはかなり難しいものでもある。

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