ワクチンノーウェア

  悪たれを自慢する男でもその懐には氏子神社の御守などを忍ばせているものだし、いざとなれば神様に代わってでも、握りしめている拳を解き、対峙する敵の掌を握りしめながらウソ泣きのひとつでもするかもしれない。不自由を絵にかいたようなご時世の中にあっては、そんなのは屁とも思わない。所詮御守は気休めでしかないからだ。人生はいつだってケースバイケース。俺がその悪たれを殴り倒したのもそういうことだった。

 そいつが懐から取り出したのは1本のアンプルだった。そいつはニタニタ笑いながら人差し指と中指と薬指の3本の指を俺の顔に向けて突き立てた。「今じゃどこを探しても手に入らないぜおっさん」とそいつは言った。だが、この男の言っていることは半分は嘘っぱちだった。街のあちこちのどこかに行けば、この男が突き出した指1本の相場で今でも少しは手に入るだろうし、自然界の法則に倣えばすでにそのアンプルを必要とする人間は極少数に限られているはずだ。俺はニタニタ笑う男の唇を見やりながら、煙草のパックを開いて、それを男の目の前に突き出した。パックの中には金が入っていて、その金は俺に依頼したご婦人の金だった。男は唇からチッと舌打ちの声を漏らすと、掲げていたアンプルのボトルを懐にしまった。俺は即座に男の唇めがけて拳を叩き込み、男が倒れるよりも早く、男の懐からアンプルを抜き出しそのみぞおちに勢いよく膝を落とした。男はくぐもった唸り声を裂けた唇から吐き出すと身体を胎児のように丸くした。俺は煙草のパックを男の手に握らせてやると、男はそれをゆっくりと懐に入れた。

 ことが終わりに近づいた頃に、今はもうこの世にいない友人と車を走らせていた。そうだった、何かの祭りでその夏のひとときはどこも通行規制が敷かれ、どの道路もバカ高い通行料金が課されたあの夏だ。友人は俺が運転する助手席でボンヤリと煙草を燻らせていた。俺たちは海沿いの高速道路を西に向かいながら、陽の沈みかけた鮮やかなスカイラインを視線の先で追っていた。友人はそのときこんなことを言っていた。

「先のことは誰にもわからないが、それは随分遠くにある気がしないか?」

 友人にしても、いつかのご婦人にしても、亡くなったのは別の病気が原因だったが、あのアンプルが再び市中にワンサカと溢れ、年老いた俺にまた無料の接種券が届こうとは夢にも思っていなかった。俺はその紙束を屑籠に捨てラジオのスイッチをひねった。

(今でも俺がいる場所は変わらず同じであるだろうか?)と、

そんなことを自問しながら。


 

 

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