1976年∞

 その年のカセットテープには、ナタリー・コール「ミスター・メロディ」を入れていてハードリピしていた。その年の東京音楽祭のグランプリ曲だ。彼女のファーストアルバム(ゴスペル調ファンクソウルの知られざる名盤)を、当時所有していた4チャンネルスピーカーで爆音まみれで聴いていた。西海岸音楽フェチでギター弾きの弟は、離れの2階の隣の部屋で耳を塞いで悶絶していたものだった。1976年、私が16歳の夏のことだ。

 生まれて以来ずっと私は変わった子供だった。いつも人の腹底を探るような鋭い目つきをしていて(多少柔和にはなったが今でもそうだ)、でも、生まれつき虚弱体質がもとで、保育園も幼稚園にも通うのがままならないほど病弱だった私は、相当な期間を床に伏していたせいもあるのかも知れないー、と思い巡らすこともあれば、或いは別の何かが原因しているのかもなー、と一巡りした思考よろしく堂々巡りに陥ることも未だによくあるのだが。  

 つまり、この虚弱少年、唯我独尊我が道を行く!と思しき少年は、社会的協調性には甚だ欠けているところがあった。だが、それを嫌というほど知るのはそう遠くない別の日であり、この16歳の夏を境として、これらとも地続きな、ー別の意味での問いー、を自分にしていたのは真実であるだろう。

 地元高校の退屈さに愛想をつかしたのはその年のGWだ。逗子に友人と旅に出た夏に、単身かつ誰にも頼らずに東京に飛び出し自活するというネタを、熱に浮かされたように語っている自分に遭遇した。これは両親に対してもそうだったが、かなりの波風を立てようと、一時の嵐はやがては静まるだろうー、という良心的観念の自我を私に期待した人々には、その後、さまざまなことが徒労で終わることを予告していた。何故ならば、その年の10月には本当に私は旅立ったからだ。

 今も幼馴染の友人とこの時の状況を話すことは多い。幼馴染たちにしてみれば、ある日を境に私がいなくなってしまったーは、やはり衝撃的だったのだろう。ある友人は「お前は病気だったんだよ」と今でも真顔で言うし、後年それまでの喰いぶちのほとんどを段階的かつ偶発的に畳んだ時にも、「ほらな」と頷きつつ目を瞑っていたものだが、いずれ喰えなくなるとわかているモノにしがみつくほどに固執しないのも、どこでどうそういう諦観を定めたのかは知らないが、いつも、心の奥底から発する聲(こえ)があることを私は知っていた。

 あの1976年10月4日の晴れ渡った夜の清々しいまでに解き放たれた心を今でも信じる。そして、長い人生はいつもブランコのように行っては戻るー、そんなことを繰り返し私に教えている気もする。それらは、あろうことか電柱の求人募集の張り紙を見ながら、職と下宿先をその2日後にGETしていたのもそうだし、それから予想もしていなかった夜間高校への扉もこじ開けてしまったのだから疑う余地もない。

 あの頃に私が夢想してやりたかったものは多々あるのだが、その第一は心の身軽さなのだったと、ある日突然絵仕事を追いかけ始めた時に思ったものだった。

 そして、子供から大人に変わる月日は、瞬きするくらいあっという間に過ぎてしまうものだと言うことにも気が付くのだ。数々の失敗も、多少の成功も、瞬きの瞬間には消えてしまい、一切合切すべてが過去となる運命と捉えられれば、あの10月4日の夜は、「まだまだこれからさ」という圧倒的意味を込めて私の頭上に今も拡がっているのだ。

 我が自我の眼(まなこ)とともにこれからも進むのだ。

 魂の先々までも。

 ・・・それらの問いとともに。

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