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悲劇と喜劇のノーサイド 〜ただし、そこには握手もなければ、拍手もない〜

 「川崎区で有名になりたきゃ人殺すかラッパーになるか」は、T-PABLOW(BAD HOP)のパンチラインだけど、この映画はすでに世界的にも有名な「ジョーカー」という最悪なヴィランがいかにして生まれてしまったかを描いた作品。

 『ダークナイト』で多くのひとを魅了したあのジョーカーのオリジナル誕生ストーリーということや、第76回ヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞したこともあり、先日公開されたばかりだけど、すでに連日超満員。

 ボクもこの土日でなんとか2回観ることができた。ちなみに、2回観ないと分からないわけではない。ただ、その衝撃をなんとか言葉にしたいと思い、あらためて観てきたしだいだ。

 結論から言っておく。題材はアメコミだけど、娯楽映画ではない。舞台は架空の都市だけど、他人事ではない。

予備知識①〜ジョーカーとは何者か?〜

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 『バットマン』や『ダークナイト』を観たことがあるひとは、当然ご存知だとは思うけど、観ていないひともいるかと思うので、念のためおさらいしておこう。

 ジョーカーは、1940年にDCコミックス『バットマン』に登場してから、さまざまな作家が描いてきたバットマンの宿敵であり、ヴィランの中でも特にファンが多いキャラクター。いわゆる大ネタってやつだ。

 実写映画においても、ティム・バートン監督の『バットマン』(1989年)のジャック・ニコルソンや、クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』(2008年)のヒース・レジャーなど、すでに名作の「ジョーカー」が存在している。

 主役であるはずのバットマンを凌駕するほどの存在感で、観たことはなくても何となく知っているひとは多いんじゃないだろうか。

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 彼の特徴をひとことで言うならば、サイコパス。緑色の髪、白塗りの顔、そして真っ赤な口紅という奇抜な出で立ちは、どの作品においても共通している。

 そんな何度も描かれているサイコパス界のカリスマ・ジョーカーだけど、じつは「どのようにして生まれたのか」という部分は、あまり深くまで描かれてこなかった。

 いま話題になっている『JOKER』は、その描かれてこなかった「ジョーカーが生まれるまで」を中心に描いた初めての作品。バットマンが(まだ)いない世界に、ジョーカーだけが現れる。

予備知識②〜脚本・監督は『ハングオーバー!』のトッド・フィリップス

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 バカな男たちのバカさわぎ! の決定版ともいえるようなコメディ映画『ハングオーバー!』シリーズでおなじみのトッド・フィリップス監督。

 コメディ映画の監督が、『ジョーカー』というシリアスな作品を撮ることができるなんて思いもしなかった。

 ただ、観終わったあとには「あんなコメディ映画を撮ってきたからこそ、こんな作品が撮れたのかもしれない」という気持ちにもなった。後半に書いた「悲劇と喜劇の関係」を読んでもらえれば、何となく理解できると思う。

予備知識③〜ロバート・デニーロが重要である理由〜

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 本作においてロバート・デニーロの存在は極めて重要だ。物語においても、映画史においても。

 『タクシードライバー』(1976)と『キング・オブ・コメディ』(1982)に影響を受けているとフィリップ監督が自ら語っているそうだが、この作品はともにロバート・デニーロが主演をつとめている。監督はどちらもマーティン・スコセッシだ。

 『タクシードライバー』は、不眠症を抱えたひとりのタクシードライバーが社会への怒りを抱え込み、しだいに壊れていくさまが描かれている。

 『キング・オブ・コメディ』は、コメディアンを夢見る青年が、とあるコメディアンに憧れすぎるあまり、常軌を逸した行動をとっていく物語だ。

 そんな主人公たちを演じたロバート・デニーロが、どのような人物として出てくるのか。ここ、重要。

 この2つの作品との関係性が気になってしまった方のために、分かりやすくまとめていた記事があったので紹介しておく。ただ、個人的には『ジョーカー』を観たあとに読んだ方がいい気もするけど。

ぶっちゃけ、「ジョーカー」を知らなくてもいい

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 ここまで予備知識について書いてきたけど、いよいよ本題だ。ここからはボクの主観が多分に入っている。というか、ほぼ主観しかないので、納得できない部分もあると思う。

 そういうひとは「こいつ何も分かってないぜ!」とTwitterで紹介してくれればいい。というか、してほしい。

 「バットマン、観たことないけど大丈夫?」と言っていた友だちがいたけど、まったく問題ない。この映画において、それはそこまで重要なわけではない。

 なぜなら、紛れもなくジョーカーを扱った作品でありながら、そこにいるのは「ボクらと同じ世界に生きているひと」だから

 簡単に、主人公アーサーについて。

 貧富の差が広がるゴッサムシティという大都会の片隅で、年老いた母の面倒をみながら、コメディアンを夢見て生活する青年アーサー。
 緊張すると笑い出してしまう障害(トゥレット症候群)もあり、他人とうまくコミュニケーションをとることができない。不気味がられ、理不尽な目に会う日々がつづいている。
 それでも、母の「ひとびとを楽しませて幸せにしなさい」という教えを守ろうと、自分なりに周囲と向き合おうとする善良な(というか決して悪ではない)小市民だ。

 これまでのジョーカーは、遠くからやってきた存在だった。唯一無二のヴィラン。その行動の目的を誰も理解のできないサイコパス。それがこれまでのジョーカーであり、理解できない恐怖や純粋悪の象徴として『ダークナイト』のジョーカーがいた。

 今回の主人公は、真逆だ。どこの国、どこの町にも存在しうる人間の話。
 だからこそ、この映画の恐ろしさの方が『ダークナイト』のそれよりも重くのしかかってくる

 この映画を観て「感情移入できない」というひとがいたら、ボクはジョーカーよりもそのひとの方が恐ろしい。

生きるのに必要なのは「ほんの少しの共感」

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 この世で最も恐ろしいのは「孤独」なのかもしれない。「何を当たり前のことを」と笑われるかもしれないけれど、この作品を通して、あらためて感じた大事なことだった。

 道を尋ねられて、教えてあげる。何気ない冗談で、笑ってもらえる。その程度のことで、ひとは生きていることを実感でき、誰かに「あなたはここに生きているんだよ」と言ってもらったように思えるのかもしれない。

 アーサーは言った。「自分が存在しているのか分からなかった」と。

 目の前にたまたま座った少年を笑わせてあげようとすれば、少年の親に「関わらないで」と言われ、通っている福祉施設のセラピストは話を聞いてくれない。自分は被害者なのに雇い主に責め立てられ、同僚は平気で自分のことを売り飛ばす。救われない。とことん救われない。「中途半端な正義がいちばんの悪や」といったのは『伝説の教師』の松本人志だけど、そんな中途半端な正義すらアーサーには訪れない。

 フィリップ監督は「この映画の大きなテーマのひとつが、思いやりの欠如」と語っている。

 貧困は文字通り余裕を奪っていくし、権力を持つ者は自分たちのためにそれを行使していく。他者への思いやりがどんどん失われていき、生きていることを実感する機会は減っていく。これって、映画の中だけの話だろうか。

 景気のよい国へと言いながら、消費税は10%にあがった。納得できる説明もないまま、あいちトリエンナーレの補助金は不交付となった。未成年者の自殺者数は増加したままだ。香港では覆面禁止法なんてものが施行された。

 もう一度いう。『ジョーカー』で描かれているのは、映画の中だけの話だろうか。

その階段が、アーサーとジョーカーの分かれ道

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 2回観た限り、いちばん印象的だったのが階段のシーンだ。

 「階段の全てが見えなくてもいいから、まずは最初の一歩を踏み出しなさい」といったのはキング牧師だけど、人生はよく階段に例えられることがある。

 アーサーは、どんなに辛いことがあっても、肩を落としながら、一歩ずつ長い長い階段をのぼっていく。彼の人生が、彼の生き方が、そこに現れている。

 たとえ不良少年たちに襲われても、たとえ同僚の嘘で職を失っても、たとえ辛い過去を知ってしまったとしても、それでも彼は重たい足を引きずって下を向きながらでも生きていこうとしているのだ。

 ただ、ジョーカーになった彼は違う。

 まるで「人間らしく生きること」に抗うように、「正しい生き方」なんていう考え方から解放されたように、タバコをふかし、嬉々として踊りながら階段を駆け下りていく。

 どう考えても許されざる目的地に向かう足取りに、その堕落していく姿の美しさに、思わず目を奪われてしまうのだ。

"人生は近くで見れば悲劇だが、遠くから見れば喜劇だ。"

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 Life is a tragedy, when seen in close-up,
 but a comedy in long-shot.
人生は近くで見れば悲劇だが、
遠くから見れば喜劇だ。
(チャールズ・チャップリン)

 チャップリンの有名な言葉。『ジョーカー』には随所にこの言葉を意識したシーンがあるし、何よりアーサー自身がくちにしている。

ボクの人生は
いままでずっと悲劇だと思っていた。
だけど、喜劇なんだと気づいた。

 ボクは、このチャップリンの言葉を「長い人生、がんばっていこうぜ」的な希望にあふれた言葉だと思っていた。

 「いまこの瞬間は辛いかもしれないけど、時が経てば笑えるようになっているものだ」

 『ジョーカー』を観るまでは、こういう趣旨だと捉えていたのだ。「偉人の名言」として紹介されているときなんか、たぶん同様だと思う。

 でも、違った。思っていたよりもずっとリアルな言葉だった。

 例えば、テレビの視聴者のように、一歩離れたところから観ている「喜劇」は、その当人にとっては「悲劇」だということを言っていたのだ。

 もっと具体的にいえば、バナナの皮で滑って転んだとしよう。その姿を見たら、周りのひとは笑うけど、滑った本人からしたら痛いし、恥ずかしいし、笑えない。

 という例えを誰かが言っていた気がしたのでググってみたら立川志らくさんのツイートが出てきた。さすがだ。

 つまり、アーサーの言葉を借りるなら「笑えるかどうかは主観の問題だ」ということだ。

 映画の中では、どこにも居場所を見つけられず、それでも必死に生きているアーサーの「悲劇」の人生が、ブラウン管の中で「笑いの対象(=喜劇)」として扱われていた。

 このとき、アーサーは気づいたのだと思う。悲劇側(苦しんで生きるひとたち)と、それを他人事として観ている喜劇側(権力や富をもったひとたち)がいるという現実の構造に。

 でも、この構造は崩れることになる。アーサー、いやジョーカーの行動が決定的な引き金となり、悲劇側にいたひとたちから、喜劇側にいたひとたちへの復讐がはじまる。

 遠くから見ていたはずが、その渦中に引きずり込まれていくのだ。

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 そこにはもう悲劇側も喜劇側もない。拍手もなければ、握手もない。あるのは燃え上がる炎と、悲鳴、そして悲哀をまとった笑い声だけだ。

「映画は、本当のことを言う嘘だ。」

 最後に、ロバート・デニーロ繋がりということで、ボクの大好きなCMのコピーを借りて終わりにしたいと思う。

 ここまで書いてきた通り、この作品は決して空想世界の話ではない。ゴッサムシティは、ボクらが生きている世界と地続きだ。

 いまもどこかでアーサーが階段を下りようとしているかもしれないし、明日になったらジョーカーの笑い声が聞こえてくるかもしれない。

 いや、そもそも、次にジョーカーになるのは、これを読んでいる自分かもしれないということを忘れてはいけない。

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映画は、本当のことを言う嘘だ。
(エイベックス・エンタテインメント「dビデオ」/2013)

END


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