かそっい

迷宮探索

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最近の記事

ライムライト

宗藤竜太さんのSoundCloudの 『ライムライト(自宅ver.)』について 音とメロディが美しくて泣けてしまう。 音楽の中で、ここまで丹念に奏でられてる曲をきくのは初めてなんじゃないかと思う。 この曲以外にも宗藤さんの素敵な曲はたくさんあります。どこがどういいかを一つ一つあげてもキリがないです。というか形容できない。 (とは言ったけど、あげてみる。  ・魂に忠実な旋律とテンポと強弱  ・歌と弾きが別々に動いている感じ  ・歌の言葉ののせ方の拍感覚がステップのよう。

    • ▽(水) A Chain of Flowers

      2×××年、再現された「団地」のアパートの一室にて。 誰かの記憶が入ってくる。彼誰時、自動反応で泣いてるセリザワ(仮)。この時代の人はきっと皆こうであろう。涙を拭うセリザワ、童子のようである。 am4時(仮)コップの水、飲み干す。 なんで?という質問は今は野暮ということになっている。「それ」は「それ」だからだ。時間稼ぎがもうできない。当然のように交感している。 太陽風で、ランダムに電気通ったり通らなかったりする。過疎。 公園のステージのようになってるところ、カリンバを奏で

      • 1983

        今だから言うが、社会のジェンダーレス、とかジェンダーフリーとかって打ち出し方に最初は自分の中に反発心があった。反発心というかもやもやしていたというか。 で、最近わかったのが、象徴としての「男性性」「女性性」が失われるんじゃないかとどこかで恐れていたからなんじゃないか、とちょっと興味あったタロットの本を読んでて気づいた。でも原形がそう失われることってないよな、ってわかって落ち着いた。知らない間に自分が男性性女性性というものを愛していたということにも気づいた。自分自身が女性らしく

        • はたらく

           アニメ『はたらく細胞!!』を観たのだが、大義・団結欲がうずく。血の中にあるのだろう。  話は変わるが、本屋でたびたび若者向けに書かれたと思われる「はたらくとはどういうことか/どうしてはたらかなくてはならないのか」みたいな本を見かけるが、”誰しも社会に必要な一個人であり、適所についてはたらくことで社会を回している、賃金から差っ引かれる税でくらしが大変な人を助ける事ができる”とかそんなことが書いてあるのだと思う。読んだことないが。  しかし万策尽くしても適所がない人はいると

        ライムライト

          鋳型と粒子

          人の形、をしてしまうと言葉が言葉でしかなくなって(一つの感情に一つの言葉しかあてはまらなくなり)、音楽がバックグラウンドとしか見なされなくなる。 そんな風にカッチリした人の形になってる自分と、霊性感覚を持った自分とが両方居る。同時に発現されることはないが。 システムでしかない、機械的な自分/離散・集合を繰り返す、粒子体のような自分。 社会・人間の箱庭に居る自分/万物を感じている自分。 もちろん今日はどっちにしよう、とどちらかを選ぶ事はできない。 システム化してる時の自分が、霊

          鋳型と粒子

          とるにたりない(五人分の)

          1、あの時もはやどうやって立っているのかわからないくらい弱っていたタキ君の愚痴をちゃんと聞くべきだった!とミユはベッドの中で閃いたように後悔した。気分の変調と野心のせいで彼女は色んなものを見捨てなくてはならないが、嫌いなものを見捨てるのはまだいいとして、愛せる可能性が僅かでもあるものまで見捨てるのはどうか?結局私というやつは非情なのよ、とミユは考える。彼女の結論はいつもここに行き着く。 2、よしえは市役所の自動ドアを通過し順番発券機からナンバーの印刷された紙を引き抜く。背も

          とるにたりない(五人分の)

          体のやりにくさ

          私は対人時に相手の肉体の充満しているのを見るといったんたじろぐフシがある。相手にもよるのだが。そばを通ると飛び去っていくスズメのような感じなのだろうか。弱いというより体が満ちていないという感覚。わりに動物にモテるほうではある。屈強とは言わないが恒常性のようなものを体にもっと欲しいと思っていた。 過度に動かなくても体が削がれる感じとか、ごっそり持っていかれるように疲れてたりとかがよくある。皮膚感覚と関係あるかも知れない?

          体のやりにくさ

          羊文学

          2021年は羊文学をよく聴いていたのですが、総計1リットルくらい泣いた気がする。雪解けのようだった。悲しむタイミングで悲しめなかった人とか感情を表に出せない人とかが聴くといいかもしれないと思った。 水気と金属質の音が多いのも好み。音そのものが詩的と感じる。 私は「風の歌をきけない」タイプなので、羊文学さんを介して自分じゃ聴けない音を聴いてるみたいなこともある。 はまるきっかけが『ghost』だった。自動的に泣いてしまった。時を忘れてしまう。4分強くらいの曲だけど、とても長い

          起きる目的

          私は大抵、理解されない環境で生きていたことが多かったのであった。 「弁明をしなくては」というのと、 「誤解されることへの反発心」などがあり、それが私の目的のひとつだった。 いままで負の力で朝起きていたのか、と気づいた。 「快活さ」で起きるには動機として足りなかったってか。でも朝は綺麗、である。 今年はもっと別の理由で起きたい。

          起きる目的

          書く

          書きたい、というのは自分の中の「水銀」のようなものが浮上している状態なのかも知れない。情動のうちに書かないとまた沈殿してしまう、というのがある。おさまってしまえばなにごともなかったようになる。水銀がたまっていく。 叙述が苦手と気づく。時系列で出てこないというか。時間の概念があまりないのかも知れない。あと皮膚の外側をあまり書けない。 「整合性」というものを怪しむ。

          インサイド

          私は成長期で、しゃべれなくなるみたいな現象がおきていた。はっきりとした現象というよりリジン感覚が断続的にあったというか。今もその感覚は持っている。対処することはできる。対処、というのは、とりあえず輪郭を仮に作るというようなことである。 体が十分なときと、不十分なときとがある。冬と雨期は不十分になる傾向がある。わりに誰でもその傾向はあるという気はするが、その振幅が大きいということなのかもしれない。 私は没頭すると、擬似であっても本当に「体験してしまう」という感じになる。創作に

          インサイド

          HUNTER×HUNTER 冨樫義博

          最初に手に取ったHUNTER×HUNTERは11巻だった。なぜか。 幻影旅団のあたり(ヨークシン編)の話で私は初めて、「生まれ方を想像する」みたいなことをした気がする。無知のヴェール的なことだろうか。流星街がカルチャーショックだった。 「会話」に無意味さを感じていた当時、かかれている大部分が「対話」なのが刺激的だったのだろうなと思う。 見える体術的な部分と、見えない念の部分とが同線上(紙面上)に置かれているというところもいい。見える部分と見えない部分どちらをなくしても私は人

          HUNTER×HUNTER 冨樫義博

          ライフ・アフター・ゴッド

          ダグラス クープランドの『ライフ・アフター・ゴッド』を読んだ。 自分とは見え方が大いに違っている主人公の話だった。逆、と言ってもいいかもしれない。 時間。わたしはそうこうしているうちに寿命がきてしまう。わたしは成長しきらずに人生をおわってしまうんじゃないだろうか。一周する?たびに「やっと生まれられた」などと言っているのがわたしである。 さみしい、というのは、愛を手にしてないからそう思うものだというラフなひとつの認識が自分のなかにあったのだが、ここにでてくる主人公はもともと

          ライフ・アフター・ゴッド

          鬼束ちひろ

          「痛みは時間が解決してくれる」とかそういう箴言?に苛ついていた若い時に、『月光』の  「時間は痛みを加速させてく」 というフレーズをきいて、この人は本当のことを知っているんだ、と漠然と思った。 そして数年前、体が限界になっていたときに『琥珀の雪』をきいて、この歌から見える景色というかこの歌の出どころというのが本当に「世界のへり」なのだと感じた。 労働後の荒廃した心とか、払拭できない屈辱感とか、 出られない下水管の中ような状況のとき、熾そうとする火その火種を必ず消されるとき

          鬼束ちひろ

          『ALTER EGO』というゲームをプレイしました。 私はMBTIなどで自分のことはそこそこわかっているだろうと踏んでいたが、まだ死角というか浮上してなかった部分があるものだな、と唸った。(耳が痛い部分も多々あった。) そしてノベルゲーム全般、私の場合、設問とか会話に答える時(選択肢を選ぶ時)、自分の中から社会性がぽっと現れると気づいた。非現実的な選択はできないというか。 私はプレイ1周目、「the end of super ego」だった。スーパーエゴって聞き覚えある用

          a girl

           無作為の”a girl”は、ランドセルを背負った12歳の性的未熟児の一人で、そのa girlが下校途中のことである。途中まで同町内の子と帰っていて、その子と分かれてひとりで歩いていたときのことだ。進行方向とは逆側から自転車に乗った男が近づいてきた。その男は平常ではないように見えた。ふらふらした走行で、あやしげで、人間としての気配のない、なにか植物の茎みたいな細い男だった。中年という歳でもない青年くらいの。(でもそういう年齢とかの概念を感じさせない存在だった。)その男が私のす