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村上春樹の短編を読む 海外文学と音楽 その4 『TVピープル』後篇 

 村上春樹さんの短編小説を作中に登場する海外文学や音楽から読み解くシリーズの四回目。今回は、短編集『TVピープル』収録の作品についての後編です。

「ゾンビ」

 男と女が墓場の隣の道を歩くシーンから始まります。そこで女が言うセリフが「まるでマイケル・ジャクソンのビデオみたい」。ーーこれは「スリラー」のMVのこと。このMVを知らなければ、面白さがわかりにくい小説ですよね。といっても、私がMVを観たのはYouTube時代になってから(曲は前から知っていたし、どんなMVか話には聞いていたものの)。雑誌の編集者も、元ネタがわかりにくいと考えて、雑誌に持ち込まれた時にこの短編をボツにしたのかな(ウィキによると、ボツになったそうなので)。

「眠り」

 特に好きな短編の一つです。主人公は裕福な家庭の専業主婦。私自身は、彼女のような献身的な主婦であったためしはなく、専業主婦だった期間も短い。また、夫が昼食をとりに家に戻って来るとか、夜七時前に帰宅するといったシチュエーションもあり得ません。つまり、彼女とは共通点が少ないのですが、それでも「今の生活に不満があるわけではないけど、自分のための時間がない、家族軸ですべてが動いている」という主人公の状況はよくわかります。細切れの時間、何かに没頭すると、家事や育児が疎かになってしまいそうで、踏み出すこともできない…(1989年に発表された作品なので、当時は、良妻賢母への圧も今の比ではなかったと思いますし)。

私は簡単な日記のようなものをつけていたが、二、三日つけ忘れるともう、どれがどの日だったか区別がつかなくなってしまった。昨日と一昨日がいれかわっても、何の不思議もないのだ。何という人生だろうと時々思う。それで虚しさを感じるというのでもない。私はただ単に驚いてしまうだけなのだ。昨日と一昨日の見分けもつかないという事実に。そういう人生の中に自分が含まれ、飲み込まれてしまっているという事実に。自分のつけた足跡が、それを認める暇もなく、あっというまに風に吹き払われていってしまうという事実に。

村上春樹「眠り」より

 前回取り上げた「飛行機」に出てくる女性も、同じように感じていたのでしょうか。「飛行機」の女性は、不倫という出口を見つけるわけですが、「眠り」の主人公は、自分のためだけに使える時間を得ます。ーー眠れなくなることによって。

 眠れなくなった主人公は、読書を始めます。最初に選んだのがトルストイの『アンナ・カレーニナ』でした。このチョイスもよくわかります。パンデミックにより、家で過ごす時間が増えた時、最初に読んだのは塩野七生さんの『ローマ人の物語』でした。最初のうちは、家族用の食事を日に三回作るのが大変で(おいおい)、小説を読む心の余裕がなかったためです。でも、その次に読んだのは『アンナ・カレーニナ』でした。現実を忘れさせてくれる小説、登場する人々の運命が知りたくなる小説、それが『アンナ・カレーニナ』だったので(その後が『戦争と平和』、次にジョージ・エリオット『ミドルマーチ』、ディケンズ『荒涼館』と普段読めない長編に読み耽った)。
 
 主人公は、専業主婦としての縛りのために、「昨日と一昨日の見分けもつかない」日々を送っています。アンナも、同じだったような気がします。誰からも好かれる完璧な女性。夫との間に愛はないにしても、何でも話し合える関係だったし、息子のことは熱愛している。だけど、多分どこかに満たされないものがあり…。そんな日々が、ある日突然変わります。
 眠れなくなって、自分の時間を持てるようになっても、不倫どころか、外出することさえない主人公は、小説を読むことで、自分とは全く違う選択をしたアンナという女性の生き方を追体験していたのかもしれません。


キャサリン・マンスフィールド
 主人公が卒論に選んだ作家。二十世紀初頭に活躍したニュージーランドの作家です。短編作家ということもあり、モダニズム文学者の中で最も読みやすい作家の一人でしょう。
 学生時代に新潮文庫の短編集を読みましたが、繊細で美しい話という印象が残っています。ウィキには、チェーホフに影響を受けたとありますが、チェーホフのようなユーモアはなく、その代わり、もっと繊細で透明感のある話が多かったかな。特に、「ガーデン・パーティー」は折に触れて思い出す作品です。新訳もあるようなので、自分が周囲から切り離されたように感じることがある方は、ぜひ読んでみて下さい。


ドストエフスキー

 『アンナ・カレーニナ』を繰り返し読んだ後、主人公はドストエフスキーを読み始めます。夫への違和感が大きくなっていき、かたわらにはドストエフスキーの本がある。もうもとの彼女には戻れないのではないかと感じる描写です。


 
 


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