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男と女の友愛など色欲に他ならない不純。友情など恋にも愛にもならない、それは単純接触効果

友情で結婚するなら相手は誰でも良いと言う事になる。それはかなり都合のいい色欲のための理由付け、かなり如何わしいものだと思っている。フリーメイソンの思想主義にある自由、平等、友愛を絶対とするなら勝手にそう思っていたらいい、友愛でパートナーを選ぶと言うなら同性でもいい、それなら同性と結婚すればいい。

合同結婚式を正当化する、恋愛感情なしに友愛と言って教祖が選んだ相手をあてがわれる、自由恋愛を禁止する、そこに属すことに何のメリットがあるのか。恋愛は自分が決めること、他の誰かに決めてもらう事ではない。人に頼らず1人で決める、自分の心が自立した判断で決めること。そこに友人の助言も関係なければ親の躾も関係ないし、教祖様の教義も一切関係がない、その感情をもたらすのは神のみ、従うのは自然なる秩序、自然法だけ。恋愛感情において他の誰か、人間に決めてもらう普通や当たり前の決まり事など何1つない。


本気で人を好きになることは、とても辛い、苦しく悲しく憤る。遮られ邪魔をされたなら、叶わない想いをずっと抱えて生きて行く、心を鷲掴みにされ泥水に投げ捨てられるような、そんな世の中ではどんなに純粋でいても想いは叶わない。

だけど心は腐らせてはいけない、どんなに辛く苦しく悲しくても、願いが叶わなくても、そのまま最後を迎えるとしても、心は腐らせてはいけない。その心が腐った時、既に心は死んでしまう、ゾンビのように生きる結果になる。


恋をするとは不思議な現象で、それは洗脳でもマインドコントロールでもない、神が与えてくれた大切な本能。みんなが必ず経験するが、必ず手に入るものでもない。

どんなに頑張っても叶わないなら誰しも諦める。諦めるから誰でも良いになってしまい、本当の恋とは何だったのか忘れ行く。

一方的な恋は一本道でしかなく、前にある光をひたすら追い求めるがいつまでも届かない。届かないから泣き叫ぶ、辛くなる、苦しみ悲しみ憤る、どうして届かないんだって。

相手を間違えるぐらいなら生涯1人で良いと思う。何処かにいる、世界で最も愛することができたはずの誰かを裏切る事になる。

自分は、運命の赤い糸のようなものはあると思う、目に見えない何かの繋がりは必ずあると信じてる。昔はそんなもの鼻で笑って馬鹿にしていた、何が恋だと、何が愛だと、くだらない世俗的な風習などくそくらえと、見下していた。

それは自分が誰も愛せなかったから、だからこの世の中を憎しみ、怒り、何かも解らない敵を作り出し、それを陰謀論のターゲットにして攻撃してきた。自分が満たされないのは何者かの陰謀だと、世の中が自分をこうさせたと、思い込んでいた。

誰も愛せないなら自分も誰にも愛されない、自分が恋をしないなら、誰も自分に恋をすることもない。だから恋愛が演じるための義務教育になり、愛が社会義務、みんながやってる普通や当たり前になり、子供を産むことが作業となり、結婚が肩書きやステータス、名前だけの何かになる。


自分は思う、容姿や年齢なんか関係ない、そんなもので諦める必要なんかないって。そこに普通や当たり前なんかないから、自分がどうなりたいかは既にその心が教えてくれている、だから自分の心に素直になればいい。

そこに本物の糸があるなら、容姿や年齢など関係なく引き寄せ合うもの、自然にそうなれるはず。無理矢理は違う、経済や思想主義で引き寄せるのは偽物。

本物なら互いに何もなくても引き寄せられる、そうでなければ不思議な感情が芽生えることはないので、心には何も起きはしない。それでも自分が一方的に気に入った相手の心を手に入れたいなら経済的な力や肩書きとステータスを利用すると思う、そんなのは本物なんかじゃない、間違いなく偽物の恋と愛になる。本当なら別にいた誰かと引き寄せられたはずなのに、間違えた相手を色欲とステータスのために手に入れようとする。

そこに駆け引きなんかいらない、恋愛はゲームじゃない、奪い合いじゃない、それが正しいと言うなら子孫を残すことがたんなる人増やし、作業になる。

本物の恋と愛を引き裂くのが偽物の恋と愛であり、それはまさにロミオとジュリエットのような世界観で表現されている。


自分は、容姿やその場の雰囲気、色欲や単純接触効果だけで誰かを好きにはならない。そこに自然発生的に起こる衝撃的な何かが無いなら、そこには何もないと思っていた。そんなことで誰かを好きになるなら、キャバクラに行った時に誰かを好きになってる、いつも職場で一緒に働く独身の誰かを好きになってる。でもそんなことはない、自分にしたらあり得ない、心の奥底に眠る感情が動かない相手を好きになる事はない。


殆んどの人が逆なんだ、恋愛を嫌悪し、色欲を好む。恋愛によるスキンシップは美しいものだが、色欲によるスキンシップは汚らわしいもの、多くがそれに気がつけない。

色欲とは何かと考えれば、それはアダルト動画の世界。痴漢や変態の世界、電車で自分の乳首を触りながらじっと見つめてくる、そんなおじさんが過去に騒がれたが、そんな世界。そこには恋も愛もない、あるのは異性の体を貪りたいとする色欲だけで、恋を恥ずかしがるのは色欲に支配されてるから。

考えれば解ること、なぜキャバクラなどの風俗があるのか、そこには恋愛などなく色欲と金銭欲だけの世界、そこから結婚に発展するなどあり得ない、でも人々はそんな世界に没頭する。それが色欲に溺れた変態の世界と何が違うんだろうか、ただ色欲を貪りたいとする欲望である事に変わりがない。

旧約聖書におけるソドムとゴモラとはどんな世界を表しているかと考えれば、今現在の社会を指していると思っても間違いではない。

日本でも薬物が蔓延、金銭的なやり取りでの色欲の提供、異性との関係は色欲前提としてあり恋も愛もなく平然と誰かと関係を持つ。


もしも、恋を馬鹿にし、揶揄し、否定し嫌悪し、それが解らないと言う人がいるとするなら、それで過去に誰かと関係を持った経験があるとするなら、その人は間違いなく色欲を貪っただけの快楽主義者、ソドムとゴモラの中にいる住人。

俺はそんな人を軽蔑し、決して好きになることはない。それは間違いなく、自分とは結ばれる運命など持っていないその他大勢の誰か。だからこの心が動くこともないし、もしも自分がそんな人を好きだと思っていたとするなら、それは自分の思考が恥辱された、強姦された、と言うこと。

男と女の恋と愛に友愛などない。それがあると考えるなら、それは間違いなく色欲。そうやって生きていたいなら生涯そう生きていたらいいと思う、自分には関係のない世界に生きている人達、そんなのに興味などない。

自分は、本気で恋愛できる男女が何よりもかっこいいと思う。











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