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本紹介 ❃ 「人生を変えた一冊?」 Deep River / 遠藤周作

東京のどこかに、「あなたの人生を変えた本」というテーマで集めた本だけを置いた本棚のあるカフェがあるらしい。素敵なコンセプトだなぁと思う。

私は決して読書自体得意ではないのだけど、「読書が好き」と言う人に「なぜ好きなのか」と聞いて、その本を通してその人の人生観や世界観を知るのが好きだ。

パンデミックの真っ只中、人間との会話が恋しくなり、マッチングアプリを介して何人かにその質問だけを投げるという暇つぶしをしていた。
唯一印象深かったのは、その人が好きな洋書のページにある可愛い挿絵をタトゥーにして身体に彫ったという人の話だけで、他の人の話にはあまり興味をそそられなかった。

Twitterで「人生を変えた本」というお題でその名がよくあがっていたのは遠藤周作の「深い河」。
英題はDeep River…
ん?どっかで聞いたことがあるぞと思い調べてみたら、やはり宇多田ヒカルのあの曲はこの作品に基づいて書かれていたらしい。
音楽的才能はもちろんのこと、海外で生まれ育ったふたつのアイデンティティを持つ彼女の作曲のきっかけになった一冊であるということも気になった。

そして、最近読了した小説のうちの1冊がまさに「深い河」で、好きな本のひとつになったし、読み終えた数日間はしばらく作品の余韻に浸っていた。
学生時代は、こんな形で文学をたのしむことはあまりなかったように思う。

あえて「文学」と言ったのは、実際に触れた作品が一般的に「文学」と呼ばれてるものだというそれだけの理由で、別に気取っているからではない。

じゃあ「文学」ってなんだよ、って話になるのだけど、書き手にとっても読み手にとっても、その人の「人生そのもの」と私なりに解釈してる。

知らない言葉はまだ未知の世界にあるからで、逆にいうとその人が使う言葉は、その人の知識や経験、品格を表す指標になる。

外国語を学んでいると余計にそう感じるのだけど、新しいボキャブラリーを覚える方法として、電車の中で100万回単語帳を捲るより、実際にそういうシチュエーションで使うほうがよっぽど根付く。

だから、文学の楽しさを味わえる人って人生の酸っぱさや甘さを知っていて、結構人間くさいのかななんて思うし、言葉を選ぶことができる人は、選べるだけの通ってきた道がある人でいて、尚且つ話している相手の気持ちを考えられる思慮深い人だなぁとも思う。

「深い河」は、自分の中にもともと在った輪郭のないぼんやりとした感覚を言語化してくれるような作品だった。だから「大津が熱く語っていた”玉ねぎ”の話に感化され、今までの固定観念が覆されました!」とかそういう感想に至ってはいなくて。
あのツアーに参加した日本人たちはみんななぜか別々のバックグラウンドがあるはずなのに行き着く先が同じだった。そして「それぞれに抱えていた空虚感をそれぞれの方法で成仏した」ということを、大津のセリフを介して異なる思想をフラットに描いているところも好きだったし、それがなんだか「読書」を通じて純文学に答えを探しに行くひとたちのようで「人生」と「文学」においての共通点があるような気がした。

私にとって、「人生を変えた本」ではなかったものの、「その人生のステージで、そのタイミングで、読むべき本」であったことは確かだと思う。

インドに行ったことはまだないが、私は今3つの異なるカルチャーが入り混じるマレーシアという国で生活をしている。先日、30日間のラマダンが明けたばかりのこの国に来て「深い河」を読んだからか、信仰心について以前よりは少し、ほんの少し理解できるようになった。

実際、マレーシアのヒンズー教徒は国民の20%を占めていて、一度礼拝の様子を友人と一緒に見学させてもらったことがある。

邪魔にならないよう隅の方で遠慮がちに見ていたら、おじいさんが”Excuse me”と声を掛けてきた。
「信仰心のないものは出て行け」といよいよ追い出されるかな?と思っていたら「これからみんなでご飯食べるけど一緒にどう?」と誘ってくれ、やや困惑して友人と顔を見合わせたほどだった。
お言葉に甘えて、友人とその他礼拝に来ていたヒンズー教徒の人たちと一緒に、お寺の敷地内で夕食を共にした。その経験がガンジス河はあらゆるヒトやモノを包み込むというところにすごくリンクしたし、これも信仰的習慣の一部なのかもしれんと思った。
本を読んでいる同時期に、ブルーモスクにも参拝したのだけど、そこでも「信仰心」とはそういうものなのか、と目から鱗が出た話があるので、また改めて文字に起こしたい。

大津がいうように、みんな心の中にそれぞれの「玉ねぎ」があるんだと思う。その思想を人間だけが「宗教」と呼んでいて、「宗教」なんて言われるとあまり親しみがない日本人には、やはり美津子が大津を見ていたような感覚が宿ってしまう。日本人にとってのドメスティックな宗教イメージが、某凶悪犯罪組織やオカルトでしかないから想像し難いのは否めない。
どの宗派を信じるかうんぬんの話じゃなく、シンプルにただの思想としてずっと昔から存在していて、それを知らないから理解できないというのは、私がさっき例えた文学や言葉の話にやはりよく似ていると思う。

美津子のことを、「リアリティーのない女性像だ」と言う人がいたけれど、私にとってはこのツアーに参加した日本人のなかで1番感情移入できる登場人物だった。
恐らく、美津子は女性でいて私と年齢が近いうえにオンナとしての立ち位置も似ているからだと思う。

これは私の憶測に過ぎないのだけど、美津子は男性を翻弄することにおいては失敗したことがなかったし、大津のようなどこか情けない雰囲気を醸し出し、真面目さだけが取り柄のような男性が自分を好きにならないはずがないという確信と自信があった。実際に大津は一瞬だけ美津子の思惑に負けてしまう。

でも、大津のなかにある「玉ねぎ」は美津子が思うよりもずっとずっと強くて、そんな自分の知りえない謎の思想に負けて、女性としての魅力で彼を誘惑しきれなかった悔しさが、だんだん「なぜ」という疑問となり執着に姿を変えていく。

きっかけはほんのからかいからはじまったものの、旅の道中からは、大津の思想に対する謎解きではなく、美津子自身の「玉ねぎ」を探し始めてたような気がする。全身全霊捧げることのできる「何か」を。
宗教・信仰心というものは、ヒトにとっての心の拠り所になっていることを、美津子は気付き始めていて、ある意味でそれを擬人化したものが恋だとか愛だとかのお相手だと思っていたけれど、結婚後も空虚感から逃れられなかった美津子は、実はそれはもっと超越したものなのではないかとインドで見たものを通じて少しずつ気づき始めてくる。

ガイドの江坂がインド旅行の際には必ず訪れるという女神を見に行くシーンも大好きだった。西洋文化のような見た目に美しいものを表面的に愛でるのではなく、美の本質を突くところに行き着いた、人生を喘ぐ醜いものに美しさを見出す江坂と、江坂の話に魅了されていた参加者たちの心情や、女神を見に行かなかった人たちや江坂に共感できなかった人たちとの温度差の描写も「人生」という感じがした。

あー、文学が人生だとしたら、10年後に再読した時にどんな後味が待っているのだろうかと気になって仕方がない。

物語のクライマックスに落ち込んでしまったこともあり、この作品の世界からなかなか抜け出せないでいたけど、遠藤周作の別の作品も読んでみたいきっかけになった。


#nowplaying


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