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巨象との邂逅

突然、猛烈に「象」を見たくなった衝動に駆られた私は、9つ離れた駅にある、小さな動物園へ向かう事にしました。動物園など、幼稚園の遠足で訪れた以来の場所ですから、所持品は何を持って行くのが適切であるのか頭を悩ませ、あれもこれも必要になってくるのでは無いか、と要らぬ心配が不安を煽りましたが、結果的に「象」を見に行くのに爪切りやハサミは必要ないと判断し、1,000円札を1枚のみ、ジーンズのポケットにぐしゃぐしゃと押し込み、各停電車に乗り込みました。

平日の昼間という事もあってか、車内はひどく空いており、私以外には新聞付属の数独に耽っている老人と、ベビーカーを押した妊婦がいるだけでした。週末ともなれば、家族連れがこぞって動物を見に向かうため、窮屈な車内だったかもしれないと考えると、衝動に身を任せ勢いのまま飛び出してきて良かった、と思うと同時に、これから「象」をお目にかかれるという、ほぼ確実に訪れる絶対的な未来に対し、徐々に期待感が募っていました。

目的地の駅で降車し、隣接された動物園のチケット販売所に向かいました。販売所の女性に、象を1枚、と言って1,000円札を出した所、非常に困惑した面持ちでこちらをご覧になっていたため、再度、象を1枚分下さい。と丁寧に言い換えた所、個別販売はしていない、と女性が言うのです。私はてっきり、目的の動物毎にチケットを購入する、遊園地のアトラクションのような料金方式かと思っていたのですが、どうやら入園時に一律の料金を支払い、あとは好きなだけ見て行ってくれ、と言った具合の料金体系のようなのでした。羞恥に晒された私は、マントヒヒのお尻から色素抽出した如く頬を赤らめ、そそくさと「一律の」入園料を支払い、園内へ一目散に駆けたのでした。

さて、受付で戴いた園内の地図を見ますと、「象」はこの園の最も奥に位置した場所に居るようで、順路通りに進んでいてはかなり遠回りになってしまう事が判りました。「象」以外の動物を見たい、と言った感情は特段なかったものですから、最速で「象」にお目に掛かるため、最短の道で「象」へ向かう事にしました。途中、ライオンやカバ、キリンと言った動物園の中でも主役級の錚々たる面々が居り、自身に群がってくる「人」を侮蔑的な目で眺めているのを横目で見ましたが、生憎本日の私は「象」以外に興味が持てず、脇目も振らず小走りで「象」の元へ向かいました。

いよいよ「象」の檻が近づいてきた頃、ふと、やはり引き返して家で大人しくラズベリーパイでも焼いた方が、些か有意義な時間を過ごせるのでは無いか、と先ほどまでとは打って変わった心持に転換し、「象」への興味が急速に失せつつありました。しかしその時、「象」と思われる大きな鳴き声が檻の向こうから響いたのを聞き、先ほどまでの帰宅願望が一切消滅し、早く「象」に会いたい、と今度は一心不乱に「象」の元へ駆けて向かったのです。

「象」はそこに居ました。鼻を左右に大きく揺らし、曇りのない瞳は確実に私に焦点があっており、やっと来たか、と言わんばかりに、時折その巨躯をブルブルとさせるのです。遠巻きからでも分かる、分厚い皮膚に覆われた年季の入った鼠色の皮膚には、水滴が幾つもついているのを見ました。私以外には「象」の周りには誰もおらず、この用意された絶対的不可侵領域は、我々以外の何者にも侵される事のない、物理的、精神的な自由が確立された空間なのです。

「象」との邂逅に、私は全身の筋肉が硬直し、身動きが取れなくなり、頬を伝う涙の感覚に、ただただ全神経を集中させ、更に驚くべきことに、「象」の眼からも涙が溢れて、頬を伝っている光景を見たのです。この空間で、「人」と「象」が全く同じ感覚体験をしている奇跡を経験し、初めは積極的な気持ちでその空間を楽しんでいたのですが、次第に、もはや「象」は「私」で、「象」も「私」なのでは無いかと、ある種断定に近い観念が急速に膨れ上がり、檻に囚われた苦痛、食事の時間を自らの意思で決する事のできない不自由、透明な鎖を脱ぎ捨てて駆け回りたいとする本能、そのどれも全てを有り有りと、はっきりと意識共通するに至り、次第に恐怖の感情が私の心を覆い尽くしたのです。

私も、「檻に入らなければ」と感じ、「象」の檻をよじ登り始めた時、自身の行いの愚かさに気付き、いよいよこのままここに居ては不味いと考え、「象」の元を離れ、来た道を戻り家まで全速力で駆けました。家に着くと、今度は猛烈にラズベリーパイを焼きたくなり、先ほどの奇跡体験の余韻に呆けながら、不格好ながらも1枚、焼き上げる事に成功しました。早速ひと口を戴いた時、まだ「象」との意識共通が残っているような気がして、パイの味が、何時もの半分ほどに感じられ、ああ、「象」はラズベリーパイが食べたくて、私を動物園へ導いたのだな、と象の意思を汲み取り、むしゃむしゃと本能のままに味半分のパイを1枚平らげたのでした。


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