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魂の約束を果たす。最愛の人を見送る。

7月17日、大好きなおばあちゃんが
家で、私の腕の中で、息を引き取った。

おばあちゃんを看取ること、それは私の魂の約束で夢だった。

私の両親は二人とも会社経営で
夜家に帰ってくるのは21時〜で土日も仕事だったので
おばあちゃんにいつも見てもらってた。

7歳で両親が離婚した後もおばあちゃんが私と妹を引き取って育ててくれた。

小学校高学年になりグレた私は
おばあちゃんにひどいことを言ったりした。
おばあちゃんも大阪の女で氣が強いから結構なことを言うけど、お互い寝ると忘れるタイプだった。

中学になって家にあまり戻らなくなったときは、朝帰りするといつもご飯がラップしてお盆の上に置いてあった。
おばあちゃんの作る肉じゃがが大好きだった。

家に帰ると怒るでもなく、
ご飯おいてあるからちゃんと食べなさいよ。心配してたんだよ。って。


髪の毛は片方刈り上げて、片方はピンクのツンツン。
顔に安全ピンを刺してボンテージパンツを履いた15歳のパンク娘は
母の日におばあちゃんを映画とご飯に連れて行った。オダギリジョーが出てる東京タワーっていう映画だったかな。

久しぶりに手を繋いで、大きかったおばあちゃんはもう私より背が低くて
私の歩くペースが早くて止めた。
小さい私を自転車の後ろに乗せてどこまでも一緒に連れて行ってくれたおばあちゃんとはもう同じじゃないんだなと思った。

恥ずかしくて伝えられなかったので、手紙を書いた。
「育ててくれてありがとう、いつも愛を与えてくれてありがとう。おばあちゃんが動けなくなったときはかれんが見るからね。心配しないでね。長生きしてね」といった内容。

そこからシングルマザーになった私は21のときに日本を出て戻らなかった。
どこにいてもおばあちゃんのことが氣がかりだし、ホームシック=おばあちゃんシックで
毎年一瞬帰ってはいたけど、一緒に生活して生きていくのとは別物。

父は実家の離れに住んでいるけど、足の悪いおばあちゃんがスーパーに行きたいって言っても車を出さないし、一緒にご飯も食べないし、精神的に完全に不在の存在だった。
もう何十年も使った身体の器官が弱まるのは当たり前なのに、トイレに間に合わないおばあちゃんを汚いと罵っていた。もうすぐ自分もそうなるのに。
それどころか、おばあちゃんの年金を使い込んで、おばあちゃんにお金を返してと言われても
「返したわ!ボケてるだけだろ!」と言っていた。絶対に天罰は下るぞと思っていたけど、最近自己破産するつもりだと言っていた。1縁を笑うものは1縁に泣くのだ。

そんな状態の実家を見てみるふりして私は旅を続けた。私は私で、旅をせざるを得なかった。どこからか湧いてくるパワーが全て旅への好奇心だった。私のセラピーでもあった。

長男が小学校に上がるタイミングで
どこかに落ち着かないととオーストラリアで看護学校に入った。

患者さんをみていても、家族のケアをしていても、なぜ自分の祖母をみないのか、なぜ自分の家族は壊れたままほったらかしなのか

魂に嘘をついてる氣がした。


きのこを食べた。アヤワスカを飲んだ。

やっぱりビジョンに見えるのはおばあちゃんをはじめとした家族のことだった。


コロナで医療者はワクチン義務になったのでオーストラリアを出て
日本にしばらくいようと思った。
けどいられなかった。3ヶ月で出て中南米に行った。

長男がどうしても兄弟が欲しいと12年間言い続けているので、
私は機能不全な家庭出身で、私が死んだら長男は一人ぼっちになってしまうので
わかった作るわ、と言い
旅中に出会いがあって、というか前世でも一緒にいた人と再会して、
次男を授かった。
もういいだろう自分、おばあちゃんはもう今年96歳になっちゃう。

そしたら、不思議と旅への情熱がパッとなくなった。
きっと、家族を増やすためだけに南米に引き寄せられてたんだ。

おばあちゃんにワクチンは絶対に打たせるなと言ってあったのに、施設にも電話して言ってあったのに、父が私に嘘をついて5回も打たせていたことが判明し
いくら丈夫なおばあちゃんでもいつ死んでもおかしくないと思い焦った。

日本におばあちゃんを迎えに行った。

仕事も見つけ、部屋を借り家具家電を揃え、地域のケアマネージャーさんとやりとりをし、在宅介護の準備を進めていた。
ケアマネさんが家に下見に来るという日に、それよりも早く8人の警察がガサ入れにきた。
そのまま息子たちは児相に引き渡され、私は手錠と腰紐をかけられて警察署に連行された。『疑い』で。

結局22日後、証拠不十分不起訴で出てきたけど、オーストラリアで医療大麻を扱えるからって変な言いがかりをつけられるのはもうこりごりだし、13年ぶりに帰ったら日本はまじで更にやばいところになってると思った。

次男がメキシコで生まれて私も永住権をもらえたので、もうメキシコに行くしかないと思った。


4月末、なんとかおばあちゃんを車椅子でメキシコに連れてくることに成功。

20年前に書いた手紙の約束をやっと果たせた。

おばあちゃんは戦争を経験してる人なので海外アレルギーで、今まで何十回も誘ったけど日本は絶対に出なかった。

それが、カリブ海に入っちゃうなんてね!

さすがの私でも、シングルマザーで乳児を抱えておばあちゃんの介護は無理だとわかっていたので
日本から看護師を雇って来ていた。
でもその人は朝から酒に大麻にヘロヘロして、海外移住したー!とインスタツイッターに自撮りを載せることで氣がいっぱい。
その分の手当も渡してたのにお金がもったないと子供を学校に行かせず仕事にもならないし、子供を置いてナンパしてきたわけわかんない男とほぼ毎晩飲みに行くし、
1ヶ月のうちにおばあちゃんはその人の監視下で2回も怪我をした。
頭を強く打ち救急にかかり三半規管に内出血が見つかった。ヘラヘラ笑ってた。もちろんクビにした。

すると不思議なことに、メキシコに来てから初めて私のことを忘れちゃってたおばあちゃんだけど
思い出した。
それまでは私のことを介護士だと思い手をパンパン叩いて呼んだり
何様だって態度だった。笑

そこから私のワンオペ介護乳児が始まり、本当に本当に大変だった。

ハイハイの練習してる息子を車椅子で突き飛ばして轢きそうになってるし
激辛ポテチをあげて泣かせたり
木の棒や石で叩いたり
乳児と要介護は自立度も同じようなもんだけど
精神年齢も同じように喧嘩する。
タチが悪いのは身体が大きく変な知識はあるところ。

夜中おしっこに行きたいと私を起こせば
授乳スケジュール以外でもベビも起きてしまうし

金銭的、精神的、肉体的、どのサポートも家族からもらえなく
新しい地で信頼できる友達もいなく

買い物に出るだけで車椅子と抱っこ紐で大変だから
遊びに出れるときもなかった。別に普段からインドアだから全然苦じゃないんだけど

自分の選択で出ないのと、何かがあって出れない状態ってのは心持ちが変わっちゃうんだよね。

メキシコに来て2ヶ月、急におばあちゃんが転倒することが増えた。

歩けないのを忘れて自分で歩いてしまうんだけど、つかまるところがあればなんとか大丈夫なんだけどな?と思い頭を打ってたので病院で検査。

転倒の原因は心臓だった。

今まで認知症と、肥満で膝が悪いの以外何も悪いところがないすごく丈夫な人だったからびっくりした。

一晩モニターをつけていたところ、心臓が27回も止まっていた。転んじゃうのは、その止まったときに頭に血が回らなくて倒れてしまうからだった。

一概に言えないけど、ワクチン5回が頭をよぎった。

95歳で入れる海外旅行保険はなかなかなく、あっても月45000縁の掛け捨て、結構な額だから断念した。

次男の家族ということでおばあちゃんもメキシコの永住権を取れるって移民弁護士から聞いてたのに、結局取れなかったのでメキシコの国保的なのは使えない。

日本を出る前ギリギリに作っておいたクレジットカードに付帯の海外旅行保険が3ヶ月使えた。

でも病氣の場合保証は150万縁までで、海外で入院したら3日でもうその限度額にいってしまう。

メキシコのプライベート病院は人命救助優先じゃなくて
全て先払いで、今お金がないとなると治療は開始してくれない。
緊急時も財布とかに保険カードか何かを入れてないと見殺しにされる。

保険金が満額になりそうだと伝えたら即強制退院させられた。
これ以上金のかかることはしない!といった感じで点滴さえ抜いてくれない。尿道キャセターもつけっぱなし。

ああ、私が英語で看護の勉強をしたのもこのためだったんだ。と思った。
医療単語はローマ語から来てるから、英語もスペイン語もほぼ同じだから。

入院でまた一氣に弱った。
45年くらい前に亡くなったおじいちゃんが迎えに来てるとも言ってた。
(まだ生きるわ!って3回追い返したらしい)

車椅子にも座れないくらい弱ってたから、病院を出るのも救急車を頼まないといけなかった。

メキシコは(キンタナロー州は?)病院に救急車がいるわけじゃなくて
タクシーサービスに緊急救命士サービスがついたような感じでプライベートの救急車会社に頼む。からそれも別料金で会社によって安くて5万縁する。

家に戻ってもまじで大変だし、私もダブルワンオペからもう数日休みがほしかったので

救急車で国立病院(安い)に行き
あと何日か入院させてくれと頼んだ。

でもそこには見たことない光景が広がってた。。

一つの病室にベッドがぎゅうぎゅうに10個くらいあって、なぜか冷房3台16度でガンガンでもう凍えそう。

喧嘩でボコボコにされたようなおじさん

その横に超未熟児

その横になんの容態かわかんないけどすごい状態のおじいちゃん


すごいところに来てしまった。。。

後日ニュースで見たけど、その国立病院で6歳の女の子がストレッチャーで運ばれてるときにエレベーターがドアを閉めずに上がっていってしまい挟まれて死亡。

更に40代の女性は医療ミスで両足と子宮を切除され慰謝料90万縁もらう。

なんともおぞましいところだった。

プライベート病院から救急車で運ばれ極寒の中何時間も待たされ、
やっときたお医者さんの返事は「ペースメーカーつけるしか治療法はなし!手術したくないならやることないから病院にはいれん!出てけ!これがメキシコだ!」

もう一回救急車を呼んで家に帰ることに。
もう夜中だった。ベビもくたくた。何も食べてないし母乳も枯れてしまう。


あんなところ、おばあちゃんの守護霊が許すはずないもんね。。。

私は本能的に、おばあちゃんはもう家で亡くなることを決めたんだなと思った。


食べるのが大好きでいつもご飯の心配をしてたおばあちゃんの食欲がそれからなくなった。
何日も食べなくなって、トイレにも起き上がれなくなって、混乱も進んでた。

全く食べなくなってから大体1週間、長くても10日かなと思った。

でも1週間経つと「お腹減った」と言い
離乳食より少ない、スプーン2、3杯食べた。

多分それでまたリセットされて、また1週間後に少し食べた。
それを繰り返して結局3週間もった。
私の心の準備ができるまで、一生懸命呼吸して時間を稼いでくれた。

食べれるときはおばあちゃんの好物のお寿司やお好み焼きを作った。
きっとメキシコに来て初めて食べたであろうマンゴーに感動してた。
最後の方はスムージー、蕎麦湯、ハーブティー、甘酒をおいしい、おいしい、と言って飲んでくれた。

水さえ飲めなくなったので、もうおばあちゃんは復活しないんだ、と覚悟した。
点滴で無理矢理延命治療をしても、苦しめるだけなんだ。

看護師をクビにしてから自分の時間がなくて、自分のことはご飯もシャワーもできない日が何日も続いて
自分を育ててくれた人、何かあった時に唯一電話したい人がいなくなることを受け入れないといけなくて
私の精神も限界にきてた。

すごく鬱っぽかったし、何も悪くないベビやおばあちゃんや自分にイライラした。なのでクオンタムヒーラーさんのセッションを受けることにした。

なんとか日々をこなすためにセルフメディケートで朝から夜まで大○を吸うようになってしまってて、優しくはなれても記憶があまりない日が続いた。

それにおばあちゃんの与えてくれた無償の愛や、作ってくれた美味しいご飯と比べたら
私はもっともっとできたのに

きっとその時その時私は精一杯で、しなければならないことをしてきてて、自分を責めるべきではないとは思いながらも
自分の悪魔を知ってるので責めてしまう。

あのとき、毎日のうんこ地獄洗濯地獄で疲れ果てて
もうトイレもちゃんとできないのに、おむつにするのは最後まで嫌がって
結局トイレ中うんちパニック

『もおおおおおおおお。。。。。』

おばあちゃんにトイレの掃除を自分でさせた
亡くなる10日前。
震える手でブラシを持つおばあちゃん。

シャワーだって、最後だってわかってたらもっと丁寧にできたのに
車椅子のおばあちゃんをシャワーにあてて

自分で洗っといてー!といい私はベビのお世話や洗い物に走った。


酢飯も、急いでて目分量で酢を入れすぎたから
キツいお寿司になっちゃった。

写真を見返せば、散歩にいったり
三人で昼寝したり
幸せな時間を過ごしてたけど
大吸いすぎで半分くらいは写真を見返すまで覚えてなかった。


おばあちゃん、私は親孝行できた?


おばあちゃんが転倒したとき
「守りきれなくてごめんね。。」と言ったら
「あんただって大変なんだから、仕方ないよあんたのせいじゃない。」

最後3週間は毎日「育ててくれてありがとうね、ずっと大好きだからね、かれんと明ずっとここにいるからね、心配しないでね」と何回も伝えた。
おばあちゃんが寝てるとき、頭と手を地面につけて「育ててくれてありがとうございました」と何度も何度も言った。

「大したことないよ、お互い様じゃない、ありがとうね」「良い思い出がたくさんだ」「照れるわいな」と言ってくれた。

「かれんにオムツを変えてもらうようになって、嫌じゃない?」と聞いたら
「嬉しいよ」と言ってた。


最後数日は目が開かなくて、「かれんだよ」と言うと「ああ私の娘ね」と言ってくれた。

亡くなる直前、呼吸が変わる。顎と肩で呼吸をするみたいにぜえぜえ苦しそうになる。
本人は神経伝達物質が出てるから苦しくないみたいなんだけどね。
その呼吸になったら30分〜とかで亡くなる。


顎で呼吸し出したから、最後口の中をお掃除した。

息がはあはあ早くなると、苦しくないのはわかってても苦しそうだから「おばあちゃん、かれんと明ここにいるからね。ずっと大好きだからね、何も心配しないで、大丈夫だから」と言うとふう、と呼吸がゆっくりに戻った。
聴覚は最後まであると言われてる。

それを何回か繰り返して、最期の息を引き取った。


次の呼吸がなくなって、あ、と思っておばあちゃんの胸に頭を置いた。

最後に、返事をしてくれたように一回心臓がドクッと動いて、そのあとはもう動かなかった。


私はすごく冷静で、グレープフルーツの精油を使いおばあちゃんの身体を拭いて、

その1時間前にスーパーで買ってあったローズマリーとカモミールのハーブを焚いた。
お花屋さんに連絡して、ブーケを作って配達してもらった。

葬儀屋に連絡して死亡届を頼んだ。
まだ一緒にいたいからと、それが16時頃で22時頃に引き取りに来てもらった。

葬儀は明日の朝10時。


次の日起きてから、いつも通りおばあちゃんの部屋のカーテンを開けに行くんだけど

おばあちゃんの靴と車椅子しかない。

おばあちゃんがいない世界は初めてで、すごく寂しい。


クオンタムヒーラーさんに連絡した。

「おばあちゃんが昨日亡くなりました。今日火葬なので、もしよかったらお祈りしてください」


火葬まで来てくれた。

そして、おばあちゃんの魂が、私が彼女に連絡する10分くらい前にすでに彼女に会いに行ってたことを聞いた。
「だから私の魂も、ここに来ないといけなかったの」と言ってくれた。


きっと、まだお葬式に呼びたいような友達がここにいないうちら、そして残された私、この人なら救ってくれると思って行ってくれたのかな。

最後まで私の心配して。


日本の友達がその頃レイキヒーリングに行ったら、
ヒーラーさんが友達がドアを開けるなり

「あれ、誰かのおばあさん最近亡くなった?」

そのヒーラーさんは沖縄のユタの家系だそうだ。

「そのお友達のことをすごく心配して何かを伝えにきてくれてるわ、少し遠くてはっきりはわかんないんだけど、その子はすごく強いけど、弱い子?」

おばあちゃんエブリウェアだ。


クオンタムヒーラーさんが葬儀に来てくれたとき、おばあちゃんの魂はまだここにいるよって言った。

私はそれを感じてたので、認めてくれて嬉しくて涙が出て来た。

おばあちゃんは亡くなってからも私を無償の愛で包んでくれてて、ハートチャクラがじーんとあったかくなった。
空間すべてにおばあちゃんが存在してて、物質を超えたスーパーナチュラルな存在に圧倒された。

次男を出産したりおばあちゃんを看取ったり、何かご縁がありそうなメキシコ。


葬儀屋には3つ部屋があって、1個目と2個目は24人用。3個目は48人用。

参列者はいないと伝えてあったけど、なぜか3個目の一番大きい部屋に通された。

私がいつもマッサージをしてもらうヒーラーさんも来てくれて、クオンタムヒーラーさんと二人で「やばいよね」「うんかなり」と話してるので何事か聞いたら

部屋1と2のエネルギーがやばい。特に1。って。
で、葬儀屋のスタッフに聞いたら部屋1はマフィア関係や酷い殺され方をした人の部屋。部屋2は事故とか。部屋3は自然死など。


おばあちゃんを見送るとき、ヒーラーさん二人でセレモニーをしてくれた。

ポータルを開いておばあちゃんをしっかり見送れるように。

他の部屋にスタックしてしまった魂も成仏できるように、なるべく大きく広くポータルを開いてくれて、おばあちゃんのおかげで沢山の魂が救われたみたい。


おばあちゃん、すごいよ。

私のシャーマン。

おばあちゃん、全部わかってて
日本を出て2ヶ月と26日くらい、3ヶ月しかない海外旅行保険がギリギリ適用で、葬儀費用も出た。

最後まで、迷惑かけずに
最後まで、私を育てて
今も色んなことを教えてくれてる。

本当にギリギリまで待っててくれて
最後の時間を、あんなに嫌がってた海外にまで来て私にくれた。

おばあちゃん、私の氣持ちは届いてる?

おばあちゃんに次会えたとき誇れるように。

私は今、靈性を高めて
何よりもおばあちゃんにまた会いたいんだよ。

いつも庭の手入れをしてて、庭で採れたハーブで化粧水やクリームを作ってくれたね。これは医者いらずなのよって。私のルーツ。

掃除だって、◯◯用とか書いてあるけど中身は同じ!重曹とクエン酸でよし!の人だったし

服や寝具も素材にこだわって

食品添加物も本を買って勉強してた


おばあちゃんの教えてくれたことは全部本当だった。


大阪の女は氣前がいいのよ!が口癖で

別に余裕があるわけじゃないのに
タクシーに乗れば「お釣りはいいよ!」

スーパーで買い物するのに待たせといて、運ちゃんの分までお弁当とジュース買う人。
近所に配るために煮物作りすぎる人。


私が息子たちにふと歌う子守唄も、おばあちゃんが私に歌ってくれたレパートリーしかない。
カラス〜なぜ泣くの〜カラスの勝手でしょ〜!
とかって替え歌で歌うから私は本当の歌を知らないよ。


私の中におばあちゃんはたくさんいる。
それを次の命に繋いでる。

大切な人を亡くしたとき
忘れようとか
先に進もうとか
英語だと「move on」と言うけど

違うよね

生きてるときは with me だけど
これからは in me. 

心の中に生きるその人と、これからも一緒に進んでいくんだね。

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