見出し画像

変なプライドの高さは働きたくなさに繋がるから危険

「働きたくない人間による働き方研究」をテーマにnoteを書いています。2日目です。

働きたくなさをようやく克服しつつあるのだが、今までプライドが無駄に高かったせいで働きたくない気持ちが増幅していたように思う。

というのも学生時代はそれなりには勉強ができる方だった(はず)。でも勉強以外は特に何もできず、部活動で特別な成績を収めたこともなければ、バンド活動をしたこともなく、ピアノで受賞したこともなく、友達がたくさんいたわけでもなく、まぁ普通かこじらせ気味の学生だった。

勉強以外はあんまり得意じゃない場合、そして自分としては努力して学力を上げたと自負している場合、勉強が拠り所になる。

勉強ができれば自分自身に存在価値があるような気がしてくる。逆に言えば勉強ができない自分には存在価値が無いような気がしてくる。

おまけに自分のレベルよりも少し上の大学に入学できたことにより、勉強ができることのプライドは強化されたように思う。

だけど勉強ができるからって仕事ができるとは限らない。とくにアルバイトや新卒の人が取り組むような仕事は、頭脳云々よりも、協調性や瞬発力が大事なことが多い。

考える力や暗記力、積み上げることよりも、瞬発力や無難にこなす能力、愛想のほうが大事だったりする。

そうなると勉強が得意なことは仕事にはあまり役に立たず、むしろ苦手なことを頑張らなきゃいけない事態に直面する。人間性にあまり自信のない勉強できるタイプの人間は、今まで積み上げたプライドと、仕事のできるできないのズレにより、不快感を感じるのかもしれない。

勉強というのはわりと受け身なもので、用意されたものに対して回答すればいいだけで、一方通行なやり方でも通用する。

だけど仕事は相互作用なもので、用意されたものに対して回答するものでもなくて、なんかいろいろと複雑である。勉強とは勝手の違うものである。人間関係を避けてきたような者にとってはハードルが高い。

勉強がそこそこできることの何が厄介かといえば、「できない自分」を認められないことである。

優秀という自己イメージが完成されると、優秀じゃない自分を否定したくなる。学生や新卒で、仕事経験がない状態で仕事が得意じゃないのは当たり前なのに、それを認められなくなる。そして不快なので、その場から逃げたり、「仕事が好きじゃない」と思うようにして心を守る。プライドが高いと、「できない不快」に対して冷静に対処できなくなる。

ゆがんだ形で自分に自信を持ってしまうと、優秀さが通用しなくなったときにパニックに陥り、過剰に変な反応を起こしてしまうんだと思う。

その変な反応が、わたしにとっては「仕事は嫌い」 「仕事はしたくない」と思い込むことだった。

あれに似てるな。好きな人に振り向いてもらえないときに「別に好きじゃないし!むしろちょっと嫌いだし!」と思いたくなるやつ。あれを無意識にやってたのが、前までの、仕事が好きじゃないわたしだ。

変にプライドが高いと、ちょっとやって成果が出ないものを「合わないな」と切り捨てたり、自分にそなわった天性の何かに過剰に期待したり、人にうまく頼れなかったり、仕事面でとても損をする。わたしは仕事が好きじゃないのだ、という厄介な反応として表面化してしまう。17歳くらいの心で止まってしまう感覚。

変なプライドが無くなると、自分の天性の才能にはいい意味で期待しなくなるので、正当にやりたいことに取り組める。これくらいやれば成果が出るかもしれないし、出なくても別にいいし、それで自分へのイメージは変わらない、という気持ちになる。

どんな自分でもオッケー、がナチュラルにできるようになると、変なプライドはなくなって、生きやすくなる。仕事するのも平気になる。

変なプライドを消し去って、どんな自分でもオッケー、と思えるようになるのが快適に仕事をしていく一つのポイントだ。

毎日投稿33日目。28歳で生きやすくなっている。日々自分に向き合ってきて、良かったと思う。生きやすい人が増えるといい。


この記事が参加している募集

サポートはお菓子代になる予定です