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くねくね歴史散歩

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興味を持った人物や地域、国の歴史を調べたり、実際に”クネクネ”歩きながらご紹介。
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2023年12月の記事一覧

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #6

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #6

07.中川清兵衛の新たなる挑戦1891年(明治24)ビール醸造業から去った中川清兵衛は、妻子とともに札幌から小樽に移り住みます。

小樽での旅館経営

小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。
場所は、現在の小樽市色内1丁目付近です。

旅館は、立地も良く、技術者一筋の中川でしたが、「誠実・勉強」をモットーに大いに繁盛したといいます。「日本郵船旅客取扱所」の肩書までもらい、小樽屈指の旅館となります。

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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #5

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #5

06.相次ぐパイオニアの辞職「開拓使官有物払い下げ」事件と村橋久成の辞職

「冷製札幌ビール」が第2回内国博覧会で「有効賞」を受賞した1881年(明治14)、開拓使がこれまで建設してきた工場や倉庫、農場、牧場などの”官有物の払い下げ”をめぐり開拓使内部で様々な動きが露見した年でもありました(「開拓使官有物払下げ事件」)

開拓使は1882年(明治15)で廃止になり、他の府県と同じく県庁が置かれるこ

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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #4

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #4

05.開拓使麦酒醸造所開業

1876年(明治9)9月23日、開拓使は、総工費8348余円、現在の金額で約1億円をかけて『開拓使麦酒醸造所』を開業します。

木造二階建てで、この木造工場は、やがて赤レンガ造りとなり、次々と増築されていくことになります。開業当初の建坪は約260坪でした。

この年は、札幌農学校(現 北海道大学)が開校してクラーク博士が来日した年でもあります。

開業式では、工場の中

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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #3

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #3

04.日本初のビール醸造所開設ビール醸造所設置の背景

なぜ、当時、日本でビール醸造所の建設が急がれたのでしょうか?

それは、開拓使が北海道開発のためにアメリカ式農法を導入し、それによって作られた大量の大麦を上手に活用する必要があったからです。

それと時を同じくして、北海道の地質調査を行っていたお雇い外国人トーマス・アンチセル(1817~1893)が”野生のホップ”を岩内で発見(1871年/明

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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #2

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #2

村橋久成が北海道から鹿児島へ帰還したのは、1869年(明治2)7月下旬で、その後は、藩庁会計局出納方の出納奉行副役を務めています。いわゆる閑職でした。

また、ドイツでビール醸造業を習得した中川清兵衛が帰国するのは、箱館戦争が終了した6年後の1875年(明治8)8月のことです。

03.出会い日露関係と黒田清隆

函館戦争後の1870年(明治3)5月、黒田清隆(1840~1900)は、北海道開拓次

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反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る〜村橋久成と中川清兵衛 #1

反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る〜村橋久成と中川清兵衛 #1

00.プロローグ2021年(令和3)の日本での1人当たりビール消費量は、年間33.2リットル、大瓶換算で約52.5本でした(世界第8位)。

ちなみに、世界第1位のチェコ共和国は、年間184.1リットル、大瓶換算で290.8本で日本の約5倍です。

チェコ共和国に及ばないにしても世界第8位の消費量を誇る日本人に愛飲されているビール。
このビールが北海道で初めて造られるようになったのは、さかのぼるこ

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