西浦 宏之 | ノース・ブランド LABO 代表

札幌市在住。ロシア、東欧の専門旅行会社勤務や日ロ航路運航担当者を経て離島フェリー会社で…

西浦 宏之 | ノース・ブランド LABO 代表

札幌市在住。ロシア、東欧の専門旅行会社勤務や日ロ航路運航担当者を経て離島フェリー会社で営業担当。利尻,礼文、奥尻、サハリンの魅力や北海道と国内外の交流や歴史も紹介していきます。 ■ノース・ブランドLABO 代表(個人事業主) ■礼文島観光大使 ■旅行サービス手配業務取扱管理者

マガジン

  • 乙女座おやじのつぶやき

    9月8日生まれの乙女座。還暦過ぎたオヤジの切ないつぶやき。

  • くねくね歴史散歩

    興味を持った人物や地域、国の歴史を調べたり、実際に”クネクネ”歩きながらご紹介。

  • サハリン・コンシェルジュ

    日本最北端の地・宗谷岬から直線で約43km、マラソンと同じ距離に位置するロシア・サハリン島。日本時代は樺太と呼ばれていた。 この島ほど、日ロの政治の思惑に翻弄された場所はないだろう。 その昔は、日露の人々が一緒に暮らす雑居地だったり、全島がロシア領になったり、日露戦争で北緯50度以南が日本領となり約40万人の人々が暮らしたこともある。その人々が、樺太を追われたことと同時に残留日本人や残留韓国・朝鮮人問題も忘れてはならない。また、従来よりサハリンで暮らしていた樺太アイヌ、ニブヒ、ウイルタなどの少数民族も日ロ政府により、その生活環境を大いに変えられたことも知っておくべきこと。 残念ながら、サハリンは、いま”近くて遠い島”へと後転してしまった。 しかし、近い将来、必ず、日ロの人々の交流が再開される。 その際、この「サハリン・コンシェルジェ」がサハリン島を訪れる観光客の一助となれば幸いです。

  • 利尻島コンシェルジュ

    日本最北の名峰『利尻山』1721m。利尻島は、そのまま利尻山であるといわれる。島の山麓は周囲63kmの裾野となり豊かな森林帯が海まで拡がる。森には野鳥も多く、海辺にはハマナス、草原にはエゾカンゾウが咲き乱れる。高山植物も豊富である。ウニやホッケ、ホタテなど全国的に知られたグルメ、また、島の紺碧の海でのシーカヤックとそれを利用したブリ釣りなどユニークなアクテビティも観光客を退屈させない。これらの情報を”少しだけ”掘り下げてます。案内役は元・地元フェリー会社のおっちゃんです。このマガジンをみて、利尻島へ出かけてみたいと思って頂ければ幸せです。

  • 利尻島への旅~島は未知の体験がいっぱい!

    いにしえの昔より“北のランドマーク”として注目をあびてきた利尻島。島の観光ポイント、アクティビティ、グルメ、歴史など元・地元フェリー会社のおっちゃんが島の旅ネタを写真でご紹介します。

最近の記事

今年も第5期礼文島観光大使に任命された。さて、何をPRしていこうか。 ウニ、昆布、アワビ、タラ、ホッケなどの海産物、レブンアツモリソウやエーデルワイスなどの高山植物、日本最北端の温泉と盛り沢山。みなさん、礼文島へ一度、お越しください。

    • サムライの珈琲とストーブ~#2 ロシア初の使節

      2.ロシア初の公式使節、根室来航1778年(安永7)ラストチキンらが初めて松前藩と接触してから14年後、日本に対するロシア政府の最初の公式使節アダム・キリルビッチ・ラクスマン(1766~不明)と日本人漂流民・大黒屋光太夫(1751~1828)、磯吉(1766~1838)、小市を含む乗組員42名を乗せた帆船「エカテリーナ号」が、現在の根室港に到着します。ロシア歴1792年10月9日(和暦:寛政4年9月3日)のことです。 当時の根室は、松前藩の役人、商人、アイヌ人の人々など数

      • 国の全国旅行支援・北海道版が昨年12月で終了。 事務局は残務処理の為、存続していたが本日で閉局。 2年間、お世話になったが観光客の皆さんにお役に立つ 仕事ができたのだろうか? 現在、求職活動中。しかし、活況を呈する観光業界には60歳過ぎたポンコツおっちゃんの居場所がない現実。

        • サムライの珈琲とストーブ~#1 ロシアの南下政策

          プロローグ江戸時代後期以来、18世紀~19世紀頃のロシアの領土的拡張は、日本の脅威となっていました。ロシアは、シベリアを領有し千島列島(クリール諸島)、カムチャッカへ進出していきます。 その進出理由は、当時、最高級品として特にヨーロッパや中国(清)で需要が高かった「ラッコや黒テンの毛皮」です。特に、ラッコ猟に関わる船の食糧や燃料を確保するために、日本と通商条約を結ぶ必要があるとロシアは考えていました。 当然、食糧や燃料を遠く首都のペテルブルクから送ることは、ほぼ不可能です

        今年も第5期礼文島観光大使に任命された。さて、何をPRしていこうか。 ウニ、昆布、アワビ、タラ、ホッケなどの海産物、レブンアツモリソウやエーデルワイスなどの高山植物、日本最北端の温泉と盛り沢山。みなさん、礼文島へ一度、お越しください。

        マガジン

        • 乙女座おやじのつぶやき
          11本
        • くねくね歴史散歩
          12本
        • サハリン・コンシェルジュ
          1本
        • 利尻島コンシェルジュ
          8本
        • 利尻島への旅~島は未知の体験がいっぱい!
          8本
        • 礼文島コンシェルジュ
          6本

        記事

          サハリン・コンシェルジュ/歴史編 “ゴールデン・カムイの世界“〜#1 ニブヒ族・『民族の名前』

          プロローグ30年以上前のこと。サハリン島北部のノグリキ市にある「ノグリキ郷土博物館」をツアー添乗員として初めて訪れました。その時、ニブヒ族の若者たちが民族衣装を着て出迎えてくれ、彼らの民族衣装に施されている文様がアイヌ民族のものに似ていることを感じました。博物館を訪れてから、私はニブヒ族を含むサハリン島の少数民族の文化、暮らし、そして日本との交流の歴史に興味を持つようになりました。今回は、ニブヒ族について、ご紹介します。 #1 ニブヒ族の名前の由来ニブヒ族は、ロシア・サハ

          サハリン・コンシェルジュ/歴史編 “ゴールデン・カムイの世界“〜#1 ニブヒ族・『民族の名前』

          幕末のレオナルド・ダ・ビンチ?~武田斐三郎

          幕末のレオナルド・ダ・ビンチ?~武田斐三郎

          利尻島コンシェルジュ/観光ポイント #8 寝熊の岩と人面岩

          『寝熊の岩』利尻島西部の九連(くずれ)地区の海岸沿いには、利尻山の火山活動が活発だった頃(約4万年前)に流れ出た”沓形溶岩”を見ることができます。 これらは、黒っぽい玄武岩質の岩石で表面に縄文様やつぶれた袋のような文様があります。 その中に大きな熊が沖に向かって寝転がっているように見える岩があります。これが、『寝熊の岩』です。 利尻島に熊は、生息していませんが、唯一、ここで”熊を見ることができます”!?。 「寝熊の岩」は、沓形溶岩が、北の海の荒波や強い風で風化されて誕生

          利尻島コンシェルジュ/観光ポイント #8 寝熊の岩と人面岩

          島唯一の熊~寝熊の岩/利尻島

          利尻島コンシェルジュ/観光ポイント #7 仙法志御崎公園

          概要「仙法志御崎公園」では、利尻島の最南端に位置する透明度が高い海と利尻山(1721m)のもっとも猛々しい姿を見ることができます。 海岸線には、溶岩が流れ込んで冷やされた奇岩などが数々あり天然利尻コンブやウニの姿を見ることができます。 公園内には、お土産店もあり、駐車場や他に”アザラシプール”や”自然磯観察場”も設置されています 仙法志の由来 仙法志は、幕末の探検家・松浦武四郎が「チエフホフシ」と書き記していいます。アイヌ語のチェプポ・オチ(小魚の多くいる場所)に由来す

          利尻島コンシェルジュ/観光ポイント #7 仙法志御崎公園

          全国でも珍しい可愛いアザラシへのエサやり体験〜仙法志御崎公園/利尻島

          全国でも珍しい可愛いアザラシへのエサやり体験〜仙法志御崎公園/利尻島

          礼文島コンシェルジュ/観光ポイント #6 久種湖

          概要礼文島の北端にある日本最北の湖。江戸時代の探検家・松浦武四郎の「山川地理取調図」に”モシリトー”(正確には、モシㇼト)という記載があります。「モシㇼ」(島)、「ト」(湖)は、”島の湖”の意味。 久種湖は、船泊市街地に接するアイヌ語でオショナイ川(川尻にある川)/大備川に船泊湾からの北風にあおられてできた砂丘により河口がせき止められた湖です。周囲約4.2㎞、面積0.49㎢、最大水深5.2mの淡水湖です。 南岸には、ミズバショウの群生地があり、西岸には、町営の「久種湖畔キ

          礼文島コンシェルジュ/観光ポイント #6 久種湖

          北の湖に伝わる悲恋伝説〜久種湖/礼文島

          北の湖に伝わる悲恋伝説〜久種湖/礼文島

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #6

          07.中川清兵衛の新たなる挑戦1891年(明治24)ビール醸造業から去った中川清兵衛は、妻子とともに札幌から小樽に移り住みます。 小樽での旅館経営 小樽運河沿いに船宿「中川旅館」を開業。場所は、現在の小樽市色内1丁目付近です。旅館は、立地も良く、技術者一筋の中川でしたが、「誠実・勉強」をモットーに大いに繁盛したといいます。「日本郵船旅客取扱所」の肩書までもらい、小樽屈指の旅館となります。 利尻島の港湾整備事業に乗り出す 中川は、海運関係者と親交を深めるうちに、日本最

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #6

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #5

          06.相次ぐパイオニアの辞職 「開拓使官有物払い下げ」事件と村橋久成の辞職 「冷製札幌ビール」が第2回内国博覧会で「有効賞」を受賞した1881年(明治14)、開拓使がこれまで建設してきた工場や倉庫、農場、牧場などの”官有物の払い下げ”をめぐり開拓使内部で様々な動きが露見した年でもありました(「開拓使官有物払下げ事件」) 開拓使は1882年(明治15)で廃止になり、他の府県と同じく県庁が置かれることが内定していました。 何人かの開拓使幹部が一斉に開拓使を辞職して会社を作り

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #5

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #4

          05.開拓使麦酒醸造所開業 1876年(明治9)9月23日、開拓使は、総工費8348余円、現在の金額で約1億円をかけて『開拓使麦酒醸造所』を開業します。 木造二階建てで、この木造工場は、やがて赤レンガ造りとなり、次々と増築されていくことになります。開業当初の建坪は約260坪でした。 この年は、札幌農学校(現 北海道大学)が開校してクラーク博士が来日した年でもあります。 開業式では、工場の中庭にビール樽を四段に高く積み上げ、樽1個1個に白ペンキで「麦とホップを製すれば、

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #4

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #3

          04.日本初のビール醸造所開設ビール醸造所設置の背景 なぜ、当時、日本でビール醸造所の建設が急がれたのでしょうか? それは、開拓使が北海道開発のためにアメリカ式農法を導入し、それによって作られた大量の大麦を上手に活用する必要があったからです。 それと時を同じくして、北海道の地質調査を行っていたお雇い外国人トーマス・アンチセル(1817~1893)が”野生のホップ”を岩内で発見(1871年/明治4年8月)し、1872年(明治5)7月に”道内に野生のホップの存在を報告(ケプ

          反骨と信念の明治の男たち、ビールを造る~村橋久成と中川清兵衛 #3