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親の心、子知らず。

線香の煙が目の前を淀んでいる。
1ヶ月前、母が逝った。

彼女の人生は、彼女にとって満足のいくものだったのか。彼女は幸せだったのか。彼女の人生は何だったのか。大きなお世話かもしれないが、ぐるぐるとそんなことを考えていた。

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一人っ子の僕はお母さん子だった。お母さん子といえば聞こえがいいかもしれないが、いわゆるマザコンだったと思う。親父は仕事でいつも帰りが遅かったから、ずっと二人の生活だった。

親父はたまに早く帰ってきても家のことをしようとしなかった。おまけに小さな借金をいくつかつくって母を困らせた。親父のことは嫌いではなかったが『なんでいつもそんな感じなのだろう』と子供ながらにもやもやしていた。


そんな親父がある日突然逝った。僕が17歳になる頃だった。最期まで多くを語らず、飄々とした人だった。母と僕は、本当に二人っきりになった。

母は、親父と一緒になって幸せだったのだろうか。
それがずっと、心に引っかかっていた。

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線香は燃え尽き、すっかり灰になった。
煙は未だ、目の前を覆うように漂っている。

「姉さんの部屋の片付けもしなきゃな。」
隣にいた叔父がそう言った。彼は母の弟にあたる。

晩年の母の趣味は水彩画だった。彼女が長らく一人で住んだ家には、草花のモチーフを描いた葉書サイズの絵が多く飾られていた。本棚に収められているアルバムにも、多くの絵が綴じられていた。母のあしあとを辿るように、その一枚一枚をゆっくりと眺めた。

ふと、ひときわ色褪せたアルバムが目に付いた。思わず手に取り、そっと開いた。


結婚式の前撮りだった。
慣れないタキシードを着た親父は、ぎこちない表情を浮かべている。


親父の隣にいる彼女は、大きな口を開けて笑っていた。今まで見たことのない幸せそうな表情だった。きっと彼女にとって、人生最良の日だったのだ。

長らく胸につかえていた何かが、すっと流れていくのを感じた。
母はきっと、大切な人たちと、幸せな人生を送ったのだ。


叔父に声をかけられた。
「お前のお父さんのこと、姉さんは俺によく話してたんだ。『決して人を悪く言わないし、大事なところは頼れるひとなのよ』って。」


僕は二人のことを何も知らなかった。
関係性や、信頼や、愛情は、僕の見えないところに確かにあったのだ。

その事実だけで、これからも胸を張って生きていける気がした。
母を心配していた今までの自分を笑った。心配することなど、どこにも無かった。


ふと、棺の中で眠る母の顔を思い出した。
彼女の顔は笑っているようだった。

線香の煙は消え、目の前は明るくなり始めていた。

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