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人生美味礼賛

 四の五の言わずにまずはこちらをご覧頂きたい。

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 これは私のInstagramのほんのひと握りの部分をスクショしたものである。御覧の通り欲望があふれている。この投稿の上下にはひたすら同じように料理を写したものが連なっている。
 私のライフワークのひとつになっている「食べ歩き」のいわば記録簿のようなものだ。どこかで食事をしたら写真に収めて、食後にInstagramに投稿する。そして行ったお店はマップにブックマークをして残しておく。こうすることで、自分の足跡や行動歴を後から見返すことが出来るのだ。これが楽しい。

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愛すべき美食家(グルマンディーズ)たち

どちらかというと私は食への拘りが少ない人間だと思う。甘党でも辛党でもなければ、ヴィーガンでもフレキシタリアンでもない。これといった好き嫌いはないわけではないが、極度の偏食家でもない。味覚に関してはいたって普通の、どちらかというとバカ舌寄りの、食べ歩きが好きな、ごく普通の人間だと思っている。

 しかし幼い頃の私は今では考えられないほどの少食で、食への興味はほとんど皆無であった。ここでいう"食への興味"というのは料理や食品への味覚的な興味関心ではなく、『食べる行為そのもの』への興味だ。つまり"食べない"のだ。寿司とか焼肉とか、料理の種類はなんだってよくて、料理はただ"食べなければいけない形式的なもの"という考えだった。おまけにその食べる量も少なかったので、幼い頃の私はガリガリのヒョロヒョロで背丈も小さかった。その弊害が成長した今も少し残っている。

 ただでさえ食べないうえに当時は好き嫌いも多々あった。とりわけエビとイクラに関してはアレルギー反応を示した。このアレルギー反応が元来の体質に依るものなのか、それとも嫌悪しすぎて体が拒否反応を起こしているのか定かではないが、とにかくエビを食すと喉が痒み、イクラを食すと気分が悪くなり酷いときには嘔吐していた。そして今でもこの苦手意識はトラウマに近い形で根強く私の身体に刻み込まれており、大人になった今でもエビは食べることができない。また今でもイクラと魚介類を同時に摂取すると嘔吐してしまう。今まで精密な検査をしたことがないので詳しくはわからないが、甲殻類や魚卵へのアレルギー体質なのかもしれない。

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舌も肥えるし、脳も肥える

 食と記憶の関係性は実に興味深い。食に興味が希薄だった幼い頃の思い出がいまだに自分の食の嗜好に影響を与えているのだから面白い。あの頃なんとなく食べてみて偶然口に合わなかっただけかもしれない料理は、やはり今でも食指が動かない。何が行われているのかよくわからないけれど不思議と楽しい宴の空間で食べたあの料理の味は、食べるだけであの狂騒が自然と思い出されるほど強く脳にこびりついている。食べ物の味は舌のみが覚えているのではない。脳も目も耳も、しっかりとその味を覚えている。脳は口ほどに物を食べるのだ。

 したがって食べ物の好き嫌いは一生治らないと思うのだ。三つ子の魂百までというが、人間の本質はこれに尽きる。わがままで怒りっぽい性格は死ぬまで治らないし、幼い頃から苦手な食べ物は舌が裏返りでもしない限り死ぬまで食べない。死ぬほど空腹状態に陥っていてもだ。バカは死なないと治らない、だから考えたって仕方がない。仮に好き嫌いが治ったという体験がある人、それはおそらく好き嫌いではなく食わず嫌いである。食べたことがなかったけど食べたら美味しかったというコロンブスの卵のような当たり前の事象である。

 このように、舌や脳たちはなにも食のネガティブな側面ばかり記憶しているのではない。楽しかったことや嬉しかったこともしっかりと覚えている。覚えているはずなのだが、いかんせん人間というのはバカで、美味しいものは美味しいという結論しか導けない。不味いものはどうして不味いのかという理由を思い出にこじつけて長々と話せるくせにだ。美味しいものはただ美味しい、それに尽きてしまう。いや、むしろこれは人間の在るべき姿だと思いたい。理屈抜きに美味しいのであればそれ以上に求めることはない。

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 財力も知識も増え、食に興味関心を注ぐ余裕が生まれた私は、食事というものに少し特別な感情を抱き始めた。そのときすでに私は、食は生活習慣の一サイクル、という無関心の段階を抜け出して、食事は他者とのコミュニケーションを円滑にするための所作であり楽しむもの、という位置づけまで昇華させていたのかもしれない。当初の無関心っぷりからすると相当な進化を遂げた。四足歩行の猿は道具を器用に扱える類人猿レベルまで文明は発達していた。
 そこで、私が掲げたテーマはこれであった。

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『思い出と食の紐付け』

 次に私が食に見出した意義は、「食と思い出の共有化」だった。

 過去の好き嫌いも、料理への拘りも、全ては自分が経験してきた食の思い出とリンクしている。特定の料理を食べた時、それが吐き気を催すような不愉快な記憶であっても、それとリンクした思い出が即座に脳に引用される。
 このように食→記憶、の作用が働くのであればその逆、『記憶→食』の紐付けも可能であると私は考える。食べて思い出す、のではなくて"思い出の軸として食を置く"ということだ。

 皆が各SNSで楽しかった思い出を写真とともに振り返る。写真は様々で、集合写真や風景写真、ツーショット写真、なんでもいい。ただ、皆と同じようにそうするのであれば、私はそこに何か拘りを取り入れたかった。毎回闇雲に漠然と写真をあげるだけでなく、何かひとつのテーマに拘ってみたい。統一性を持たせたい。そこで私が行き着いた結論は『思い出の中核として"食"を据える』ということだった。

 まさに『おいしいはたのしい』。たのしかった記憶の真ん中においしいものがある。これが思い出と食の紐付けだ。料理の写真を毎回収めているのは単なる備忘録や記録ではない。これが私なりのSNSの使い方、記憶との紐付け作業である。その対象が食である他に、なにも他者との相違はない。

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 ここらで閑話休題。
 食に興味のなかった私がある時期を境に食に興味を持ち始め、頻繁に外食をするようになった。それが転じて今では出先で食べ歩きや新店訪問をすることが趣味になっている。このことを話すと、記録するために食べているのでは、と邪推されてしまうのは甚だ心外だ。

 私は堂々と反論させてもらう。コレクターや食べ歩きを趣味に持つ人なら、必ず後ろ指を指されることがあると思うのだが、けして目的と手段は逆転していないということを伝えたい。食べるということは消費活動の一環である。自らの生理的欲求を満たす行動でもあって、また経済を回すことにも寄与している。これは多くの要素を包括した極めて合理的な活動であって、一長一短の趣味で終わらせられるのは不服だ。

 食事という経済消費活動は、"形に残らない"、"残すことのできない"消費パターンの性質を持つ。唯一これを形に残す手段といえば「写真に撮る」しかないわけで、刹那的な快楽に過ぎないこの行為はある種の美しささえも持ち合わせている。食事という行為を単なる欲求行動と捉えるか、優越感のもとの征服行動と捉えるか。いずれにせよ、形に残さないことが前提である食事の様を記録し電子媒体に残すことは、なんらかの摂理や道義に反する背徳的な行為であるとも思う。

 そこで、私のこのライフワークがいつくかの信念に基づいているということをお伝えしたい。

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『おいしいはたのしい』

 『おいしいはたのしい』という命題を満たすためにはいくつかの不可欠な要素がある。それは食事自体を構成する基本要素であり、それが満たされていなければ命題は守られない。大前提として料理自体の味、その時同席していた人との関係性、その食事の状況自体が持つ意義など。おいしい食事は料理の味だけで成し得るような単純なものではない。インスタ映えという言葉がその最たる例で、味覚以外にも料理を味わう方法はある。

⑴料理の味

 これは言うまでもなく大前提である。料理を名乗ってもらうからにはその味が美味しいと判断できない限り、楽しい思い出にはなり得ない。あの店の料理は不味くて嫌な思いをしたからもう二度と行かない、これは至極普通の判断である。そもそもが美味でなければ標準以上の満足さえ保証されない。インスタ映えすることで話題!という謳い文句を見るが、これらの多くの場合は味を置き去りにしている。ビジュアルに全振りしすぎたせいで味のクオリティが疎かになっているパターンだ。これはいけない。料理は最終的に食べてなくなってしまうモノなのだから、いくら見栄えがよかろうとそのままショーケースに入れておくわけにはいかない。食べてこそ、なのだ。

⑵同席者

 当然だが食事というものは、一人ないしはそれ以上の人数のもとで行われる。一人〇〇という言葉が流行するくらいにはおひとりさまへの人権も確保されているし、一人で食事をすることはむしろスタンダードになりつつある。また、このご時世では厳しいかもしれないが、大人数の下で行われる食事としては、宴会、打ち上げ、冠婚葬祭など、同席者や意味合いは違えどこれだけのものがある。

 しかし、人数の大小は食事自体の雰囲気に比例するわけではない。一人だからつまらない、多数だから楽しい、とは一概には言えないのだ。たとえば一人旅で異国の地に赴いたとき、ふらっと寄った居酒屋で味わう地元の食材と地酒は一人であったとしても胸が躍ることだろう。また、多数が同席する飲み会であっても、会社の上司が主導のものであれば、むしろ肩が張って楽しめないことであろう。人数という要素が必ずしも比例的な楽しさを生むわけではないことを理解すべきだ。

⑶食事が持つ状況的意義

 これは上記の同席者の項と少し似通う部分がある。要するに、『この食事シーンはどのような過程で開催されたか』ということ。たとえば一人で食事した場合でも様々なシチュエーションがあると思う。上述したように一人旅の中での一コマ、あるいは仕事帰りの一コマ、友達と待ち合わせた時間まで余裕があるから寄った喫茶店での一コマ、列挙するとキリがない。

 複数での会食であれば、それは誰かの奢りであったか、憧れの誰かと同席したものか、人生の転機になったものか、社会的意義はあったか。このように食事自体の楽しさはさておき、どのようなシチュエーションでの食事かというのは重要な項目だ。

 この3項目が複雑に影響しあって、至福の『おいしい時間』は作られるのだ。しかし、3つのうちどれかが絶対的に欠けてはいけないというわけでもなくて、これらの項目はあくまで十分条件に過ぎない。各項目には満たすべき明確なボーダーのようなものがないので、これらは十分条件である必要すらない。各項目はチェックポイントのようなものだと考えればいいかもしれない。結局のところ、自分が楽しんでしまえばいいだけの話。

 

 長々と語ってきた。そろそろ結論へと落とし込みたい。

 私にとっての『おいしいはたのしい』という言葉が持つところの意味は、『思い出は食と共にある』ということに尽きる。食の楽しみ方、在り方は人それぞれ。さあ、晩餐を共にしよう。




 

 



#おいしいはたのしい


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