夢を上書きする事の、大きな意義

アラフォーの私が大学を卒業した頃、世間は大不況で新卒採用を見送る企業が続出していた。

✳︎ラジオ番組制作スタッフを目指していた中学〜大学時代✳︎

私は中学生の頃からラジオが好きで、いわゆる「ハガキ職人」と言われるようなラジオ番組にネタのハガキを送って読まれるのを一日の楽しみにしているような子供だった。そして高校時代は「ジェットストリーム」という、飛行機の機内アナウンスの設定で展開するちょっと渋めの番組にハマり、大人になったらラジオ番組制作に携わりたいと思っていた。

大学時代。学内放送局のディレクターとして、学内で昼休みに流れる番組や早朝にAMラジオで流れる短い番組の制作を請け負ったり、執行部員として部の運営を担うなど、部活まみれの学生時代を送った。そんな中で私はNHKの主催するコンテストで二位になり、学長奨励賞を貰うなど、それなりに評価は貰った。けれど同時に業界を知れば知るほど、放送業界の将来性や自分の才能の限界を感じるようになっていた。そして次第に子供の頃から好きだった本の世界に興味が向くようになり、就活の頃には出版社を目指すようになった。

✳︎出版に携わりたかった20代前半✳︎

出版社の大半は東京にある。私は東京のある有名出版社の4次試験で初めて東京に行った時、会場に入ると、驚くべき事に部屋にいる私以外の20人程度の参加者同士が既に大方顔見知りらしく、集まって親しげに話していたり、皆お揃いの参考書を見ている様子を見て、初めて東京には出版社受験の為の専門学校がある事を知り圧倒された。自分の田舎者ぶりをまざまざと見せつけられた気がして、突然自信を失くした。そして今までなら何の気なく書けていた作文の構成のアイデアが、その日は待てど暮らせど頭の中に降りて来ず、結局時間内に上手く書けずにその選考で落ち、結局私の東京での出版社勤務の夢は一旦破れ去る事になった。

その後、一年間の役所でのアルバイト生活を経て採用されたのが自費出版を行うベンチャー系出版社だった。本社は東京の青山に、そして支店は大阪の新地にあった。営業職はプロデューサーと呼ばれ、営業事務はアシスタントプロデューサーと呼ばれていた。そんな当時、ちょうど皇族がその出版社から出ている犬の絵本を愛読しているということで、その出版社の知名度は爆上がりしていて、作家志望の人を対象とするコンテストには多数の応募があった。

私達「アシスタントプロデューサー(笑)」の仕事はコンテストに応募してきた人の作品に目を通し、「1位にはなれなかったけど、あなたには才能があり、この作品を埋もれさせるのはあまりにも惜しい。少なくとも私は一人の読者としてあなたの世界観にもっと触れたい。少し安く出来るから一緒にこの作品を世に出しませんか?」という、まるでラブレターのような手紙を応募者全員に書き、営業電話をかけまくる事だった。

私は幸いインセンティブもそれなりに貰ったし、研修で原宿や青山付近を歩き、名札をつけたままランチをするのはまさに「夢、実現!」な感じがした。けれど毎日終電帰りなのと社内いじめで同期が次々病んで辞めていく様子、貧乏な学生や会社員の人達が幻の印税生活を夢見て騙されて高額ローンを組むのを見ていられなくて、結局数ヶ月で辞めた。そしてその会社は私が辞めて一年たたないうちに、裁判を起こされあっという間に潰れてしまった。

✳︎夢より安定志向で会社を選んでいた20代後半〜30代、そして今✳︎

その後私は再び役所でバイトをしながら、仕事を丸投げされるのに名前すら覚えてもらえないようなバイトや派遣社員は嫌だ、との思いから正社員を絶対条件に仕事を探すようになり、大阪の超下町にある小さな工場での在庫管理や(セクハラがおぞましいレベルで酷すぎて身の危険を感じた為、一年半で退職)、準公務員の団体職員を経て、今は精神疾患や発達障害を抱える方を対象とする就労支援施設のスタッフをしている。

そして今、学生時代やOL時代に培った色んな場でプレゼンや説明をしてきた経験、後輩への対応、クレーマーへの対応や、出版社で使っていた言語化する力、褒めて乗せて信頼して人を動かす経験は、反面教師も含めて今の仕事の土台になっていると強く感じる。

✳︎全ての経験は生かされる。だから夢は上書きしても全然OK✳︎

今でもたまに大阪に行って新地の辺りを通ったり、原宿がTVで映ると、ふとあの頃を思い出す。

そして思う。

人は経験からいろんな事を学ぶ。
だからこそ、夢は日々上書きされて良いのだと。そして全ての経験には無駄は無いのだと。

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