孤独感 聴くこと 他人に理解されたい
他人に理解されたいとずっと感じていた。でも他人に理解されるということなど絶対に不可能なので、この孤独をどうしたらいいか考えていた。
人間は「不連続」な存在なので、絶対的な孤独にあるとバタイユは考えていた。この人は「神の死」を一身に引き受けた人なので、孤独を感じざるを得なかった。だから、詩的なテクスト実践をしてなんとか「伝達」しようとしていた。萩原朔太郎という詩人の朗読音声を聞いていたのだが、序文で同じようなことを言っていた。
僕は「他人に理解される」ということは、客観的な事実ではなく、主観的な実感であると思う。「客観的な事実」としては、個々の肉体や体験を共有することは絶対に不可能だ。同床異夢という言葉が好きなんだけれど、同じベッドで違う夢を見ているようなものだ。他人の夢の話を聞いて、実感を持てたことがない。全ての「体験談」は夢の話と同じだ。全然理解できない。そういう意味で、人間は「本当は」絶対に孤独だ。
「主観的な実感」としては「理解される」ということはあり得る。「理解されていると感じる」ことはあり得る。他者が本当に理解しているかは関係がない。
典型的なのは「聴罪司祭」「仏壇」「カウンセリング」「動物」が挙げられる。司祭を通して、神に罪の告白をする。孤独を感じた時は、仏壇の前で先祖や仏に手を合わせる。誰にも話せない悩みがあるときにカウンセリングを受ける。動物を抱く。
告解や仏壇という装置も全く同じ機能をしていると思うが、カウンセリングの本をよく読んだので、カウンセリングから考える。
カウンセリングで一番重要なのは「黙って聞く」ことだとどの本にも書いている。アドバイスもしないし、裁きもしない。相槌だけ打つ。感想も言わない。自分で試してみると分かるが、本当に難しい。「それは違うんじゃない?」とか「そんな男やめときなよ」とか口を挟みたくなる。人間は喋るから理解できない。
黙って聞く。話したいことを話せるような空間を作る。自分の個人的な話を全て話せば「理解して貰えた」という実感が湧く。少なくとも「話せて本当に良かった」とスッキリする。「沈黙」が重要になる。口を出せば「この人には何も分かってもらえない」という感情が生まれる。
カウンセリングは20世紀初頭に始まったらしい。僕は、これは神が死んだからだと思う。キリスト教には詳しくないんだけれど、司祭を通して神に洗いざらい話すことで「理解されている」と感じていたんじゃないだろうか。
仏壇については、曾祖母と祖母の様子を見ていたのでなんとなく分かる。曾祖母は亡くなった曾祖父にいつも手を合わせていた。熱心な天理教の信者だったので、死後の世界を本当に信じていたと思う。「死者」は絶対的に「沈黙」しているから、死者に「話を聞いてもらう」ことで、魂が癒される。曾祖父と曾祖母はいつも言い合いをしていたのだが、むしろ曾祖父が亡くなってからの方が「理解されていた」んじゃないかとも思う。
祖母は祖先崇拝の強い人で、墓の前で「いつも見守ってくださりありがとうございます」と言って泣いたりする。守護霊みたいに先祖が守ってくれている「実感」があるらしい。
こういった制度や伝統が崩壊したことも、若者の「孤独感」を助長している原因だと思う。僕は猫を飼っているから、猫の話は実感として書くことができる。
どうしようもなく孤独を感じた時、飼い猫に「もうお前だけだよ~お前だけしかいないよ~」と言って抱きかかえる。寝転んでお腹の上に乗せて顎を撫でると喜ぶ。眼を閉じて、喉をゴロゴロ言わせているのを聞く。「こいつがいて良かった」と心底思う。孤独感が溶けていくのを感じる。
もし、猫が、ポケモンのニャースみたいに話しかけてきたら、台無しだろうなと思う。「そこじゃない、もっと上を撫でて」とか「そろそろあっち行きたい」と言葉を話されたら、僕は余計に孤独になってしまうと思う。
神はいないし死者もいないし、猫は僕のことを理解していない。だからこれは「一人合点」なのだけれど、それでいいんだと思う。他者を「理解する」ことではなく、他者の「一人合点」をどう助けるかが重要。
ティク・ナット・ハン師やクリシュナムルティが「聴くこと」についてしつこいぐらい説法をする意味が分からなかったが、最近やっと分かった。黙って聴くことが愛だからだ。相手の感情や体験など絶対に理解できないが、黙って聴く。黙って聴くことで相手の魂が癒される。これは本当に難しい。誰でもできていたら、カウンセラーなんて職業はいらない。1時間1万円の価値がある行為だ。
自分がなぜ孤独を感じやすいかというと、誰も僕の話を聞いてくれないからだと思う。ASDだから、興味が極端だ。世俗的なこととか、表面的な挨拶は本当にどうでもよくて、哲学とか仏教とか詩の話だけをしていたい。このブログに書いてあるようなことをずっと語り合いたい。けれど「存在」や「認識」や「ニヒリズム」に興味のある人はごく少数であるから、誰も僕の話したいことを聞いてくれない。だから孤独を感じてしまう。このブログの読者にはそういった意味で凄く感謝している。ありがとうございます。
恋人は、興味があるのかは分からないが、こういう話を聞いてくれる。(多分たまにうんざりしている)。芸術家の友人は本当に一人で思索して創造しているので、マジで孤独だろうなと思う。自分の好きなもの(フェティシズムと呼んでいた)を創ることを目的としているので、他人と話す気にもならなさそうだ。でもお互いの創作論なんかを話したり、年齢が同じなので昔話をしたりして、楽しい時間がある。人間関係には恵まれていると思う。
風俗をしている友人は「誰にも理解されない」とずっと嘆いている。変な男に捕まっているし、他の友人は「そんな男やめろ」としか言ってこないらしい。だから僕は、否定せずに、黙って聴こうと思った。
沈黙の時間を共有したり、批判せずに黙って聴くこと。ASDだから孤独感やコミュニケーションについて思索を続けてきたが、一番大事なのは沈黙だと思った。
仏教で、一番の慈悲の象徴である菩薩の名前が「観音菩薩」というのは象徴的だ。観音菩薩になりたい。黙って聴く。深く聴く。音を観じる。
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