孤独感 聴くこと 他人に理解されたい

 他人に理解されたいとずっと感じていた。でも他人に理解されるということなど絶対に不可能なので、この孤独をどうしたらいいか考えていた。
 人間は「不連続」な存在なので、絶対的な孤独にあるとバタイユは考えていた。この人は「神の死」を一身に引き受けた人なので、孤独を感じざるを得なかった。だから、詩的なテクスト実践をしてなんとか「伝達」しようとしていた。萩原朔太郎という詩人の朗読音声を聞いていたのだが、序文で同じようなことを言っていた。

 私のこの肉体とこの感情とは、もちろん世界中で私一人しか所有して居ない。またそれを完全に理解してゐる人も一人しかない。これは極めて極めて特異な性質をもつたものである。けれども、それはまた同時に、世界中の何ぴとにも共通なものでなければならない。この特異にして共通なる個々の感情の焦点に、詩歌のほんとの『よろこび』と『秘密性』とが存在するのだ。この道理をはなれて、私は自ら詩を作る意義を知らない。
 私の詩の読者にのぞむ所は、詩の表面に表はれた概念や「ことがら」ではなくして、内部の核心である感情そのものに感触してもらひたいことである。私の心の「かなしみ」「よろこび」「さびしみ」「おそれ」その他言葉や文章では言ひ現はしがたい複雑した特種の感情を、私は自分の詩のリズムによつて表現する。併しリズムは説明ではない。リズムは以心伝心である。そのリズムを無言で感知することの出来る人とのみ、私は手をとつて語り合ふことができる。

月に吠える
萩原朔太郎

 僕は「他人に理解される」ということは、客観的な事実ではなく、主観的な実感であると思う。「客観的な事実」としては、個々の肉体や体験を共有することは絶対に不可能だ。同床異夢という言葉が好きなんだけれど、同じベッドで違う夢を見ているようなものだ。他人の夢の話を聞いて、実感を持てたことがない。全ての「体験談」は夢の話と同じだ。全然理解できない。そういう意味で、人間は「本当は」絶対に孤独だ。

 「主観的な実感」としては「理解される」ということはあり得る。「理解されていると感じる」ことはあり得る。他者が本当に理解しているかは関係がない。
 典型的なのは「聴罪司祭」「仏壇」「カウンセリング」「動物」が挙げられる。司祭を通して、神に罪の告白をする。孤独を感じた時は、仏壇の前で先祖や仏に手を合わせる。誰にも話せない悩みがあるときにカウンセリングを受ける。動物を抱く。

 告解や仏壇という装置も全く同じ機能をしていると思うが、カウンセリングの本をよく読んだので、カウンセリングから考える。
 
 カウンセリングで一番重要なのは「黙って聞く」ことだとどの本にも書いている。アドバイスもしないし、裁きもしない。相槌だけ打つ。感想も言わない。自分で試してみると分かるが、本当に難しい。「それは違うんじゃない?」とか「そんな男やめときなよ」とか口を挟みたくなる。人間は喋るから理解できない。
 
黙って聞く。話したいことを話せるような空間を作る。自分の個人的な話を全て話せば「理解して貰えた」という実感が湧く。少なくとも「話せて本当に良かった」とスッキリする。「沈黙」が重要になる。口を出せば「この人には何も分かってもらえない」という感情が生まれる。

 カウンセリングは20世紀初頭に始まったらしい。僕は、これは神が死んだからだと思う。キリスト教には詳しくないんだけれど、司祭を通して神に洗いざらい話すことで「理解されている」と感じていたんじゃないだろうか。

 仏壇については、曾祖母と祖母の様子を見ていたのでなんとなく分かる。曾祖母は亡くなった曾祖父にいつも手を合わせていた。熱心な天理教の信者だったので、死後の世界を本当に信じていたと思う。「死者」は絶対的に「沈黙」しているから、死者に「話を聞いてもらう」ことで、魂が癒される。曾祖父と曾祖母はいつも言い合いをしていたのだが、むしろ曾祖父が亡くなってからの方が「理解されていた」んじゃないかとも思う。
 祖母は祖先崇拝の強い人で、墓の前で「いつも見守ってくださりありがとうございます」と言って泣いたりする。守護霊みたいに先祖が守ってくれている「実感」があるらしい。

 こういった制度や伝統が崩壊したことも、若者の「孤独感」を助長している原因だと思う。僕は猫を飼っているから、猫の話は実感として書くことができる。
 どうしようもなく孤独を感じた時、飼い猫に「もうお前だけだよ~お前だけしかいないよ~」と言って抱きかかえる。寝転んでお腹の上に乗せて顎を撫でると喜ぶ。眼を閉じて、喉をゴロゴロ言わせているのを聞く。「こいつがいて良かった」と心底思う。孤独感が溶けていくのを感じる。
 もし、猫が、ポケモンのニャースみたいに話しかけてきたら、台無しだろうなと思う。「そこじゃない、もっと上を撫でて」とか「そろそろあっち行きたい」と言葉を話されたら、僕は余計に孤独になってしまうと思う。

 神はいないし死者もいないし、猫は僕のことを理解していない。だからこれは「一人合点」なのだけれど、それでいいんだと思う。他者を「理解する」ことではなく、他者の「一人合点」をどう助けるかが重要。

 ティク・ナット・ハン師やクリシュナムルティが「聴くこと」についてしつこいぐらい説法をする意味が分からなかったが、最近やっと分かった。黙って聴くことが愛だからだ。相手の感情や体験など絶対に理解できないが、黙って聴く。黙って聴くことで相手の魂が癒される。これは本当に難しい。誰でもできていたら、カウンセラーなんて職業はいらない。1時間1万円の価値がある行為だ。

 自分がなぜ孤独を感じやすいかというと、誰も僕の話を聞いてくれないからだと思う。ASDだから、興味が極端だ。世俗的なこととか、表面的な挨拶は本当にどうでもよくて、哲学とか仏教とか詩の話だけをしていたい。このブログに書いてあるようなことをずっと語り合いたい。けれど「存在」や「認識」や「ニヒリズム」に興味のある人はごく少数であるから、誰も僕の話したいことを聞いてくれない。だから孤独を感じてしまう。このブログの読者にはそういった意味で凄く感謝している。ありがとうございます。
 恋人は、興味があるのかは分からないが、こういう話を聞いてくれる。(多分たまにうんざりしている)。芸術家の友人は本当に一人で思索して創造しているので、マジで孤独だろうなと思う。自分の好きなもの(フェティシズムと呼んでいた)を創ることを目的としているので、他人と話す気にもならなさそうだ。でもお互いの創作論なんかを話したり、年齢が同じなので昔話をしたりして、楽しい時間がある。人間関係には恵まれていると思う。
 風俗をしている友人は「誰にも理解されない」とずっと嘆いている。変な男に捕まっているし、他の友人は「そんな男やめろ」としか言ってこないらしい。だから僕は、否定せずに、黙って聴こうと思った。
 
 沈黙の時間を共有したり、批判せずに黙って聴くこと。ASDだから孤独感やコミュニケーションについて思索を続けてきたが、一番大事なのは沈黙だと思った。

 仏教で、一番の慈悲の象徴である菩薩の名前が「観音菩薩」というのは象徴的だ。観音菩薩になりたい。黙って聴く。深く聴く。音を観じる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?