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【短編小説風】吊革を掴んだ後、手を繋ぐのはやめて

「電車の吊革を掴んだ後で、手を繋ぐのはやめて」

初めて彼女にそう言われた時、意味がわからなくて戸惑ったのを覚えている。
色んな人が掴んだ電車の吊革は、侑希にとってはとても汚いものらしい。

彼女は、僕から見ると潔癖症だった。
けど、本人からするとそれは当たり前の価値観で。
その差を埋めることが難しいのは分かっていた。

それでも、僕は彼女が好きだった。
僕より2つ歳下。まだ23歳なのに、細かいことに気がつくしっかりした彼女が。

「靴下のままでベッドに上がらないで」

そう言って、4時間近く口を利いてくれなくなることもあった。
彼女は、不機嫌になるとそのことを教えることさえイヤになるタイプなのだ。

毎日喧嘩をした。
というより、一方的に無視され、怒られた。

「フローリングとカーペットの上は、同じ掃除機で掃除しないで」

僕からしたら些細な事でも、彼女にとって許せないことは多々あった。
僕は怒られるたびに謝った。自分は悪くないと思うこともあったけど、それでも謝った。

いくら神経を使っても、彼女に怒られず一日を乗り切るのは僕には難しかった。

僕と彼女は、大元の意識が違う。
細かいズレを一つずつ直しても、大きな意識の違いがある限りまた細かいズレが増えていく。まるでいたちごっこだ。

「そこまで思ってるんなら、もう無理だと思うぞ」

友人にそう言われた時、僕はひどく安心した。
思えば、別れるための後押しが欲しかったのかもしれない。

「別れちゃった方がいいよ」

その言葉が聞きたくて、僕は友達に相談したのだ。

そう気付いた頃には、2年半の月日が経っていて。
僕と彼女は、27歳と25歳になっていた。

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「価値観の違いって、埋めるのに限界あるね」

「そうだね」

別れを切り出した僕の言葉を、侑希は全く否定しなかった。

もしかしたら、彼女は別れを拒むんじゃないか。
そんな甘いことを考えていた自分に、死ぬほど嫌気が差した。

別れを決めた日の夜、侑希は僕の家に溜まっていた荷物を整理した。
一緒に行った映画のチケット、プレゼントしたぬいぐるみ、二人で撮った写真。全部バッグの中に仕舞った。

持ち帰った思い出の品を、彼女はどうするのだろう。
きっと捨てるんだろうけど、僕の前でそうしないことはきっと彼女なりの気遣いなんだと思う。

揉めることは多かったけど、良い思い出だってたくさんあった。
彼女が所有していたスペースが綺麗になっていくのを見て、思い出すのは不思議と楽しいことばかりだった。

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持ってきたバッグがいっぱいになり、彼女は困っていた。
うちにあった荷物は思った以上に多かったのだ。

「残りの分は、段ボールに詰めて送るよ」

僕の言葉を聞くと、彼女は困った顔をした。

荷物を送ることも許されないほど、僕は信用されていないのだろうか。
そう考えていると、彼女は困った様子で言った。

「段ボールは汚いから、荷物が直接当たらないようにビニール袋に入れてほしい」

僕は一瞬閉口した。
けど、言葉の意味を理解した5秒後ぐらいに笑いが込み上げてくる。
僕はそれを噛み殺しきれず、大笑いしてしまった。

その様子を見て、侑希はキョトンとしていた。
思えば、彼女の前で久しぶりにこんなに笑った気がする。

「やっぱ、別れることにして良かった」

久しぶりに、正直な自分の気持ちを言った気がする。
それを聞いて、侑希も笑った。

「やっぱり、私たち合わなかったんだね」

片付けを続けながら、彼女は続けた。

「私が好きになったあなたの笑顔、久しぶりに見た」

その言葉を聞いた時、僕はハッとした。

彼女も、自分が僕から笑顔を奪っていることを気にしていたのではないだろうか。
言っても無駄だと気づきながら、神経をすり減らしながら僕と我慢して付き合ってくれていたんじゃないだろうか。

苦しんでいるのは僕だけだと思っていた自分が、ひどく小さな人間に思えた。

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重そうだったので、マンションの1階までは僕が彼女の荷物を持った。

いつもなら、僕は侑希を駅まで見送る。
けど、僕らはお互いもうそれが必要ないことだとわかっていた。

侑希は荷物を肩にかけると、僕の目を見て言った。

「2年半、ありがとう」

僕はその目を見つめた。
大きな瞳と丸顔、厚めのくちびる。

性格は合わなかったけど、彼女の考え方や言葉の選び方。
マナーや時間をしっかり守るところ。
少し冷めていて、物事を俯瞰して見るところ。
広いと悩んでいた肩幅、柔らかい二の腕。

そのすべてが好きだった。

「こちらこそありがとう。幸せになってね」

僕は、指で部屋を差し示して言った。

「荷物、送るよ。ちゃんとビニールに包んで」

それを聞くと、彼女は悪戯っぽく微笑んだ。

「よろしくお願いします」

そして、行き先の方を向く。
最後に顔だけをこちらに向けて、言った。

「じゃあね」

いつもは「またね」だった別れの言葉が、姿を変えた。
もう彼女が僕の部屋に来ることは二度とない。
そう思うと、少し堪えるものがあった。

色んな言葉をかけたかった。
でも、何を言ったところで何か変わるわけでもない。
僕が言えることはひとつだけだった。

「気をつけて」

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戻った部屋は、いつもと同じはずなのにいつも以上に静かな気がした。
さっきまで侑希の下にあった座布団は、まだ歪んだ形のままだった。
僕は、その隣にある自分の座布団の上にもう一度座った。

別れることを決めた後のほんの少しの間だけ、僕らはお互い好きだった頃の自分たちに戻れた気がする。
別れ際に最悪な空気にならなかっただけ、僕らは幸せだったのかもしれない。

一緒に過ごした時間を悔やむ気はなかった。
僕も侑希も、人生は続いていく。

大きな荷物を持って遠ざかっていく背中を思い出しながら、僕は彼女の幸せを心から願った。

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