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「花束みたいな恋をした」を観ると自分が菅田将暉だと錯覚できる

「花束みたいな恋をした」を観てきました。

普段邦画はほとんど観ないんですが、良い作品でした。
やっぱりこういう細かい感情の描写が多い作品は文化が近い方が入り込みやすい。

この映画の真髄は、観客に「これは私たちの話だ」と錯覚させることにあると感じました。

菅田将暉演じる麦と有村架純演じる絹、二人の出会いは終電を逃したことに端を発する。
二人はなし崩し的に朝まで一緒に過ごすことになり、その中でお互いの共通点が多いことに気づいていく。

この導入部分の展開は、誰しもが思い描く「理想の出会い」といった感じ。
僕自身もこういうシチュエーションに憧れた。就活の夜行バスの帰りとかに運命的な出会いないかなー、みたいな。
途中、坂元裕二氏は僕の頭の中の妄想を見て脚本を書いたんじゃないかと疑いちょっと恥ずかしくなった。

ただ、導入部とラスト付近の展開は実際にはほぼありえないものだ。ここまで運命的な出会いと別れは実際には起こり得ないと思う。

ドラマチックな導入と結末に比べ、中盤は実に現実的。
若いカップルが同棲を始め夢と現実の間で葛藤し、やがて恋が終わってゆく。
中盤の描写は実に丁寧で、麦が夢を諦め就職し深夜職場でパズドラしてるシーンなんてこっちまで死にたくなった。
どんどんポップカルチャーへの関心を失い、絹と温度差が開いていく様子も観ていて辛い。
夢を諦め現実を見る、恋人との溝が開いていく。こういった経験は誰にでもあると思う。

更に強烈なのは、脚本に押井守の客演やきのこ帝国、シン・ゴジラ、ゴールデンカムイ、新海誠ストレンジャー・シングスなど実在する作品や人物を大量に入れ込んでいることだ。これが実にうまく機能している。
主役の2人に年齢や趣味嗜好が近いほど感情移入できるし、観客はこの作品をよりリアルで身近なものに感じる。

この中盤の「現実」パートが序盤・後半のドラマっぽさをうまく中和し、物語全体も現実的なもののように錯覚させる。
すると、観客はこの作品をさも「自分の物語」かのように思い込んでしまうのだ。
中盤のパートは実体験に近いもので序盤・後半は頭の中にある妄想に似ていているし、実際に自分が触れてきた人物やコンテンツも数多く登場する。
ここまで要素が集まると、まるで頭の中にある思い出を覗いて物語を作られたような気持ちになる。

ここで大事になってくるのが、W主演である菅田将暉・有村架純の存在。
彼らがカッコ良すぎ、美しすぎると観客はこれを「自分の話」と捉えることができなくなる。
あくまで"普通の男女"を演じきった二人の演技は素晴らしかったし、絶対的な美男美女をヘアメイクと衣装でその辺にいそうなカップルに仕上げたスタッフの手腕も見事。
これでこの作品を観た男性は菅田将暉に、女性は有村架純に遠慮なく自分を投影できる。
麦が本屋さんで自己啓発本読んじゃうところとか自分を見てるようだったもんな。まあ僕はあんなシュッとしてないけど。

主演二人の功績はこれだけではない。
この映画、物語の根幹こそ恋愛の普遍的な部分をモチーフにしているものの、魅せ方はサブカルに興味がある若者により響くものだ。というより、あえてそう作ってると言える。
麦と絹が最初に出会う場面の押井守の客演や、そこに同席している社会人の男女の描写から見るにそれは間違いない。
若者がみんな押井守の顔まで知っているとは思えないし…これは押井守氏に失礼か。

しかし、この作品をメインカルチャーにチューンナップする役割を果たしているのが主演の二人なのである。

この作品は先日「鬼滅の刃」から週末興行で首位を奪ったが、本来は週末興行ランキングで1位を取るようなジャンルの作品ではない。
この二人が主演しているからこそ作品の間口が広がり、サブカル云々ではない根底にある"恋人との関係"というテーマがより多くの人に伝わるのである。

映画やサブカルが好きな人であればより一層楽しめるけど、そうでない人も観てて切なくなれる良作。
僕はエンタメ好きを自称しながらサブカルはしっかり履修してないので、出てくる作家さんの名前は半分もわからなかったけど十分楽しめました。

ただ、同棲して長いちょっと気まずいカップルとかが観ちゃうと別れの決定打になる気がしなくもない。気にしすぎか。

あと、個人的にラストシーンの演出はやり過ぎかなーと思いました。
あそこだけ急に「東京ラブストーリー」感あるというか。笑
個人的にはもっとさりげなく終わってほしかった。

でも、いい映画でした。
たまには観ないジャンルを観るのも良いですね。



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