【短編小説】さよなら純真
「こんなことなら、最初から好きにならなきゃ良かった」
「それ言うの、今日だけで何回目よ」
そんなのもう、数えてない。
苦笑いする友人の質問に、心の中で回答する。
口に出せるほど気持ちに余裕がなかった。
2013年12月26日。
世間的には、クリスマス翌日という何気ない一日。
個人的には、僕が好きな子にフラれた翌日という特別な一日だ。
「めっちゃ好きだったんだよな…」
僕が今絞り出せるのは、未練と後悔だけ。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
彼女との出会いは街コンだった。
3年間付き合っていた大学時代の元カノと別れたことをかなり引きずっていると、自分では思い込んでたんだけど。
彼女の笑顔を見た僕は、あっさりと恋に落ちた。
立食形式のパーティーの中でも一際輝いていた彼女の周りには、ひっきりなしに男が群がっていて。
女の子と話すことも不慣れな僕は、彼女に話しかけることすらできなかった。
『パーティー終了まで残り5分です!』
運営側の無常なアナウンスが響く。
このままだったら、僕は一生変われないままだ。
何か行動を起こさないと。
そんなことを考えている時、彼女が席を立つのが見えた。
多分、お手洗いだ。
『討ち死にしてくる。健闘を祈ってくれ』
一緒にいた友人にそう告げると、彼は僕のケツをぶっ叩いた。
『立派な墓を建ててやる』
よろしくね。
僕はトイレの前に移動しながら、必死に話しかける方法を考えた。
変質者と思われるかもしれないけど、失敗したってどうせ今日しか会わない。
僕は自分を奮い立たせた。
やがて、彼女がお手洗いから出てきた。
一度、深く深呼吸した。
リラックスだ、とにかく。
『すみません』
声をかけると、彼女がこちらを振り向いた。
僕を見る目は少し不思議そうだったけど、穏やかそうな笑顔を浮かべている。
くそ、やっぱめっちゃかわいいな。
『あの、失礼かもしれないんですけど』
よし。声裏返ってない。
いけるぞ俺。
『ずっと話したいと思ってたんですけど、周りにたくさん人がいたから中々話しかけられなくて。
良かったら、連絡先だけでも聞いていいですか』
言えた。
この時点で、僕は94%ぐらい満足していた。
言えずに後悔するより全然マシだ。
頑張った、僕。
彼女は少し考えていた様子だったけど、やがて笑顔になった。
『いいですよ!』
その時点で、僕のその日の満足度は2億点になった。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
そこからの順調さは、自分でも信じられないものだった。
パーティーで彼女に話しかける人はたくさんいたけど、みんな20代後半から30代だったらしい。
21歳の彼女は、年齢が近い人を希望していて。
23歳だった僕が声をかけてくれて嬉しかった、らしい。
僕は、彼女とデートを重ねた。
しかし。
「8回は重ねすぎよ、いくらなんでも」
「そうだよな…」
僕は、彼女を待たせ過ぎた。
久しぶりの恋愛で距離感が掴めず、臆病になってしまった。
5回目のデートぐらいから、向こうのテンションが落ちるのを感じて。
そこから挽回することができなかった。
「4回目ぐらいで告白しないと、さすがに向こうも痺れ切らすぜ。
まあ、もう遅いけど」
そう、もう全て遅い。
久しぶりの僕の恋は、成就することなく幕を閉じたのだ。
「あー!強いの一杯飲みたい!!」
「お前、酒飲めないじゃん」
ヤケクソで嘆く僕に、友人がツッコむ。
「うるさいな。
そういう気分になる時もあるんだよ」
「女の子を忘れるには、新しい女の子だろ」
そう言うと、友人はポケットから紙切れを取り出し、僕に見せた。
「何これ?」
「300円バーのドリンクチケット。
ナンパしようぜ」
300円バー。噂には聞いたことある。
一杯300円でお酒が飲める、都内でも有数のナンパスポット。
興味はあったけど、大きな問題がある。
「俺、お酒飲めない上にナンパなんてしたことないんだけど」
僕の言葉を聞いて、友人はため息をついた。
「今なら失うものないだろ。
純真さを捨てて、ちょっと大人になってみろよ」
純真さを捨てる、か。
今の僕には、もしかしてそれが必要なのかもしれない。
「…よし、わかった。当たって砕けてやろう」
こうして、不思議な一夜が幕を開けた。
――――――――――――――――――――――――――――――――――
「マジかよ」
300円バーの店内を見て、僕は驚いた。
出会いを求める人って、こんなにいるのか。
店内には、所狭しと男女がひしめき合っている。
年齢層も多種多様だ。
しかし、男の方が多いのは難点だな。
女性が店内に入ってきた瞬間、男性がすぐ声をかけに行く。
「戦場だな、ここ」
僕が呟くと、友人が僕のケツを叩いた。
街コンの時と同じだ。
「一度は討ち死にを覚悟した身だろ。
あんときぐらいシャキッとすれば余裕だって」
「状況が違うと思うんだけど…」
本来、初対面の人に声をかけるのが得意じゃない。
こんな中で戦えるだろうか。
「まあ、声かけは任せとけよ」
心強い。
「あそこの二人を狙うか」
友人が、店内壁際の席を指さした。
スツールに女性が二人腰かけている。
年齢は僕らと同じぐらいか。
一人は、銀座を歩いてたら100人はいそうな女子。
ゆるく巻いた茶髪に白のコート。
友人は、こういう量産型がタイプだ。
もう一人は、切れ長な目が印象的な黒髪ショート。
細身の身体にシングルレザーのジャケットが似合っている。
強気な猫のような顔立ちは、多分刺さる人にはかなり刺さる。
ただ、僕はあまりタイプじゃないけど。
どうも、気が強そうな子は昔から苦手なのだ。
さっきまではその二人にも男が張り付いていたけど、今は離れている。
他に空いている女子グループもいそうにない。
「OK。作戦は?」
「成り行き任せ、出たとこ勝負」
がってん。
どうせ一度は討ち死にを覚悟した身。突撃あるのみ。
「ここ、空いてます?」
そう言いながら、彼女たちが座っているハイテーブルに自分のグラスを置く。
「空いてますよ!どうぞ」
量産型が返事をする。
反応は悪くなさそうだ。
「僕ら初めて来たんですけど、どうも慣れなくて」
嘘つけ。
あまりにもさりげなくウソをつくものだから、思わず声を出してツッコみそうになってしまった。
「私たちは時々来ます。ね?」
量産型がレザージャケットに同意を求めた。
「うん…時々ね」
レザージャケットはこういうところ慣れているのかと思ったので、意外だった。
タイプじゃないけど、モテそうだし。
「そうなんだ。二人はいくつなの?若そうに見えるけど」
「22歳です。職場の同僚で」
社会人一年目か。
「俺らの一個下だね」
「え!年齢近いですね。嬉しいです」
さっきから量産型の食い付きが良い。
多分、僕の友人がタイプなんだろうな。
「そうだね。
ドリンクなくなってるけど、何か取りに行かない?」
爽やかなほほ笑みと共に、友人が量産型のグラスを指し示した。
「行きます!」
量産型が友人とカウンターに向かう。
早くも二人きりになりやがったな。さすがの手腕。
僕が感心していると、レザージャケットが僕に声をかけた。
「多分戻ってこないですよ、あれ」
「え?」
レザージャケットが淡々と話す。
「あの子、ああ見えて狙った獲物を逃さないタイプだから。
あのまま、ふたりで店から抜けちゃうと思います」
「マジっすか」
それは困る。
俺はどうすればいいのだ。
こういうところ、基本的には苦手なのに。
「私もあの子が抜けるなら、帰ろうかと思うんですけど」
お、好都合かも。
情けないけど、僕もこのビッグウェーブに乗らせてもらおう。
「申し訳ないんですけど、僕も一緒に出ていいですかね?
こういう場所、苦手で」
彼女は目を丸くした後、今度は目を鋭くした。
忙しいな。
「ナンパしにきたんじゃないんですか?」
ああ、これはダブルのやつだ。
『何考えてるんだコイツは』という疑問と、『私について来ようとしてるんじゃないか』という不信感が入り混じっている。
「僕、お酒ダメで…彼を頼りに来たんですよ。
ひとりじゃ居づらいから」
「…なんでお酒ダメなのにこんなところに?」
「ちょっと殻を破ろうかなと思って。
まあ、破れなかったんですけど」
それを聞くと、彼女が初めてクスっと笑った。
「何それ。
それじゃあ、一緒に出ましょうか」
おお、神よ。
「助かります」
僕たちは店を出て、地上に繋がる階段を上がった。
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「いやー、助かりました。
一人で出るのは敗北感辛過ぎて」
僕は彼女に頭を下げた。
本当に助かった。
「いえいえ。それはこっちも一緒だったので」
気を遣ってくれているのかな。
案外、良い子なのかもしれない。
「じゃあ、僕はこっちなので。
何駅から帰るんですか?」
そう告げると、彼女の表情が一瞬にして消えた。
あれ、なんか怒らせること言ったかな?
「有楽町なんですけど…駅がどっちか、わかんなくて」
え、どういうこと?
「ここ、時々来てるんじゃないの?」
「私は今日が初めてです。
友達は何回か来てるみたいですけど」
さっきのはウソかい。
「さっき何回か来てるって言ってた気がするんだけど」
「舐められるかも、と思って」
なるほど。
まあ、気持ちはわからなくもない。
「有楽町駅なら俺も行くけど、一緒に行く?」
そう言うと、彼女はコクリと頷いた。
顔立ちのせいでしっかりして見えるだけで、案外天然なのかもしれない。
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「やば、終電終わちゃってるかも」
駅に着いた時、彼女がとんでもないことを言い始めた。
というか、まだ23時過ぎだけど。
「家、どこなの?」
「埼玉。しかも、めちゃくちゃ奥地で」
おいおい。
それなら、もうちょっと田舎者感出してくれよ。
「マジか。なんで気付かなかったの?」
「時間管理、あの子に任せてて」
見た目はしっかりしてそうなのに。
「ワンナイト狙いの子に時間管理任せちゃダメでしょ。
うーん、この辺あんまりネットカフェとかもないからな…」
しかし、さすがに若い女の子一人で置いていくのは気が引ける。
どうすればいいだろうか。
「映画でも観る?」
「家で?」
彼女の目に警戒心が浮かぶ。
いやいや、そんなつもりはない。
そもそも、彼女のことはタイプじゃないのだ。
「いいや、新宿で。
バルト9なら朝まで映画やってるから」
彼女はきょとんとした。
まあ、当然家に誘われると思うよね。
「でも、付き合わせるの悪いですし」
「こっちも、終電逃した女の子放って帰るのはバツ悪いよ。
新宿なら俺も家が近くなるし、そっちも帰りやすいでしょ?」
「…いいんですか?」
まあ、仕方ないよね。
こんな状況だし。
「ルパンvsコナン観たかったし、付き合って」
そう言うと、彼女は頷いた。
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「意外と良かったね」
映画を観終わった僕は、案外テンションが上がっていた。
彼女もそこそこ楽しめたのか、映画の前より明るいトーンで話してくれる。
「ルパンはあんまり知らないんですけど、面白かったです」
「マジ?ごめんね付き合わせて」
そう言うと、彼女はいやいやと手を振った。
「付き合わせたのはこっちです。
むしろ、ありがとうございます。
映画館、よく来るんですか?」
「うん、結構来るよ。そっちは?」
「まあまあ来ます。
映画館の空気が好きで」
「わかる。集中できるよね。
普段はどんなの観るの?」
「結構洋画のアクションが多いです。
派手なのを大画面で観るのが好きで」
「へー。同世代の女の子では珍しいんじゃない?」
「あんまり周りにはいないですね。
アニメあんまり観ないんで、新鮮でした」
「俺も普段は洋画しか観ない。
でも、なんかコナンは観ちゃわない?」
「わかります。みんな観てますもんね」
そこまで話した時、映画館のあるビルの外にたどり着いた。
人通りがほとんどない新宿はいつも以上に寒く感じる。
僕は時計に目を落とした。
「2時半か。始発までまだ結構あるね。
カラオケでも行く?」
彼女は少し考えて、僕に返事をする。
「お金、勿体なくないですか?」
「まあ、そうだけど」
「私は行ってもいいですよ、家」
正直、この展開は予想してなかった。
こういう時、男ってどうすれのが正解なんだろうね。
僕は、いまだにそれがわかってない。
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「どうぞ。あんまり広くないけど」
結局、連れてきてしまった。
断じて、下心があるわけではない。
実際深夜のカラオケは高いし、財布も痛むからね。
何言っても言い訳っぽいな。
「結構綺麗にしてるんですね」
お持ち帰りする可能性もあったからね、とは言えない。
今、近しい状況になってるし。
「荷物、その辺置いていいよ。
…そういえばさ、名前なんて言うの?」
今更ですか、と彼女は笑って名前を告げた。
僕は少し動揺した。
彼女の名前は、昨日僕をフった子と同じだった。
動揺を飲み込み、僕も名乗って取り留めのない会話を続けた。
すると、彼女がいきなり切り込んできた。
「何もしないんですか?女の子が家に来てるのに」
思わずビクッとしてしまう。
年下の女の子相手に何怯んでるんだ、僕。
「家に来たからって、いきなり襲う人はヤバい奴なんじゃない?」
そう聞くと、彼女は頷いた。
「同感です。私もそう思ってました。
でも、そうじゃない人も多いって聞きます」
「まあ、そうだろうね。
普通の男なら襲ってるのかも」
恥ずかしいけど、正直に言うしかなさそうだ。
「俺、ワンナイトって経験ないんだよね」
彼女がポカーンとした。
「えっ?」
「いや、だから。そういう経験ないんだよ。
付き合った人としかしたことない」
「じゃあ、なんであんなところに」
そうだよね。
しょうがないから、正直に話そう。
「昨日、失恋したばっかで。
久しぶりの恋愛で、めっちゃ好きになったんだけどフラれちゃって。
だから、半ばヤケクソでナンパしに行こうと」
言ってて恥ずかしくなってきたぞ。
でも、彼女は笑わず話を聞いてくれていた。
「…やっぱ、そんな簡単に忘れられないですか」
「うん。何をしてても、どうしても頭をよぎっちゃう。
だから、忘れてやろうと思ってナンパしようとしたんだけど。
実際に女の子が家に来たら、全然そんな気起きなくて。
あ、これは相手の問題とかじゃなくね」
それを聞くと、彼女はフっと表情を緩めた。
「実は、私も同じです」
「同じ?」
「フラれちゃったんですよね、クリスマス直前に。
1年間片思いしてたんですけど。
だから、半ばヤケクソ状態で。
誰でもいいから人に愛されたいなーって。
慣れてない300円バーに行って、適当な男と寝てやろうと思って」
今度は僕がポカンとする番だった。
ようやく一つの事実に思い当たる。
「適当な男、が俺ってことね」
「もちろん、誰でも良いわけじゃないですけど。
私も、これまでワンナイトとかしたことなくて。
見た目がこんな感じなんで、言っても信じてもらえないんですけど」
「そうなんだ」
正直、意外だった。
彼女からは何となく、大人な雰囲気がしたから。
「なんか、純真さを捨てたかったんですよね。
ちょっと大人になりたかったというか。
その日だけの関係とかを楽しめる友達が羨ましくて」
気持ちは結構…というか、すごくわかった。
僕たちは、どちらもちょっと背伸びがしたかったのだ。
「でも、やっぱ自分には合わないなーと思いました。
300円バーに行っても全然良い人いないし。
私も、ここに来てもテンションが上がらないというか。
全然そんな気が起きなくて」
なんか、お互い失礼な話をしている気がする。
…でも。
「わかる。
そんな簡単にそういうテンションになれないよね」
「はい。根が真面目なんですよね、結局」
僕らは、多分どこかが似ている。
でも、そんな自分がイヤで。
年相応に汚れてみたいと思っている。
でも、それは自分たちには無理だとどこかで気付いているのだ。
だから、僕は彼女にある提案をした。
「それならさ。
俺ら、ワンナイトしたことにしない?」
一瞬、彼女がキョトンとする。
「…どういうことですか?」
「俺ら二人が黙ってたら、誰もわかんないじゃん。
だから、やっちゃったことしよう」
「それに、何か意味あるんですか?」
「あるよ。なんかカッコ良いじゃん」
プッと、彼女が噴き出した。
「理由薄くないですか?」
「うるさいな。
でも、そっちだってそういうのに憧れがあったんでしょ?」
「まあ、そうですけど。
なんか、大人な感じしますよね」
「そう!それ。
なんか人生楽しんでる感というか、達観してる感があるんだよね」
「そうなんですよ。
ワンナイトの経験ある人、なんかちょっと偉そうだし」
「でしょ?
だから、俺たちは今日セックスしたことにしよう。
で、一生そのウソを隠す。
そしたら、異性と接するときも”まあ自分はワンナイトしたことあるからね”的な態度でいけると思うんだよね」
そう言ったとき、初めて彼女が声をあげて笑い始めた。
初めて、心からの笑顔を見た気がした。
「どんな態度ですか、それ」
「でも、わかるでしょ?気持ちは」
「まあ、はい」
「俺、わかったんだけどさ。
俺たち二人とも、大人になりたがってるじゃん」
「はい」
「でも、根が真面目な奴にワンナイトなんて無理だ」
そう言うと、彼女も微笑んだ。
「そうですね。
多分、一生無理です」
「じゃあ、決定ね。俺たちこれから共犯者」
それから僕たちは、互いに好きだった人について色々話をした。
もう一生会わないであろう相手と交わす好きな人についての話は、意外なほど盛り上がった。
「それは相手の男が悪いわ。どこが良かったの?」
「8回デートはやり過ぎですよ。
私なら3回で切ってます。
相手の人、結構優しかったんじゃないですか?」
「うわ、タチ悪いねえ。
そいつ、絶対他の女とも遊んでるよ」
「その人、中々小悪魔ですね。
もっと良い人絶対いますよ」
こんな感じで。
僕はお茶、彼女はチューハイを持って。
途中から、悪口の言い合いみたいになってた気もするけど。
「うわ、もう7時じゃん。
余裕で電車走ってるよ」
「本当ですね。そろそろ帰ろうかな」
「駅まで送るよ。また迷われても困るし」
そして、僕らは部屋を一緒に出た。
マンションの階段を下りて、路地裏を歩く。
「付き合ってない男の人の家に泊まった後って、こんな感じなんですね」
笑顔を見せてくれてからの彼女は、これまでより少し幼く見えた。
「これまでと、何か違うもん?」
「ううん、同じ。
でも、何かちょっとだけ大人になった気がする」
まあ、何もしてないんだけどね。
そう言おうとしたけど、なんだか野暮な気がしたからやめた。
やがて、改札口にたどり着く。
ここから埼玉となると、いささか遠い。
「気をつけて帰ってね」
そう声をかけると、彼女がスマホを取り出した。
「もし良かったら、LINEだけ聞いても良いですか。
ワンナイトしたのに連絡先も知らないって、変じゃないですか?」
改札の別れ際、彼女が僕にそう言った。
「確かに」
まあ、ワンナイトの常識はわかんないけどね。
僕たちは、同じ家で過ごした後に連絡先を交換した。
「へー、こんな苗字だったんだね」
フルネームも知らない人同士が同じ家に泊まってたって、なんだか変な感じだ。
「じゃあ、また。いつか機会があれば」
「はい。お仕事頑張ってください」
「そっちこそ。好きだった人よりいい人見つけなよ」
それを聞くと、彼女は微笑んだ。
「はい。さようなら」
そう言って、改札の中に入っていく。
彼女は一切振り返らなかった。
僕も、彼女が階段の姿が見えなくなる前に踵を返した。
ワンナイトって、そういうもんでしょ?
――――――――――――――――――――――――――――――――――
その日から、約10年。
ふと、彼女のことを思い出した。
友だちでも、恋人でもない。
もちろん好きだったわけでもないし、その後会いたいと思ったこともない。
あの日から、一度も連絡を取ることはなかった。
でも、僕は今も時々あの日のことを思い出す。
一緒に”純真”を捨てた、共犯者である彼女のことを。
彼女は僕のことを覚えているだろうか。
まあ、どっちでもいいや。
僕は、多分忘れないと思う。
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