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好きなだけ

昔、カフェラテとカフェオレの違いを知りたいなあと思って調べたことがあったのだけれど、その内容は忘れてしまった。ミルクティーとロイヤルミルクティーの違いはなんだろうと思って調べたこともあって、その内容も同じように忘れてしまった。

調べた時は「なるほど!」とか「明日誰かに言おう!」とか意気揚々としているくせに、結局自分にとってそこまで必要ではない情報は、すぐに忘れてしまう。ラテとオレの違いなんて、カフェで働くことなど無縁の私にとっては取るに足らないことなのだ。

コーヒーは好きだと思う。基本的に毎日飲みたいし旨いコーヒーを出すお店にも行ってみたいとは思う。ただ、ウィンナーコーヒーと初めて聞いたときは例に漏れず"あの状態"を想像したし、バリスタが何のことを指すのか今も正直よくわかっていない。それでも私は「コーヒーが好き」だし、それを隠すつもりもない。

ところがどっこい、最近は「好き」に対して息苦しい世の中ではないかと密かに感じている。「好きならば、その対象のすべてを理解していなければならない!」、「好きなくせに認識が間違っている!それは好きではない!」と言った具合に、好き警察のパトロールも増えつつある印象だ。気軽な気持ちで「好き」と発信してはいけない、そんな息苦しい雰囲気を感じ取っているのは私だけだろうか。

仮にそう感じているのが私だけだとして、勝手ながらなぜそうなったのかを考えてみると、好意の細分化が一つの要因にあるような気がして他ならない。
最近メジャーになってきた「推し」。単に好きということではなく、恋にも愛にも似つかないそれでも相手に対してのポジティブな思いを表現する言葉としてカジュアルに用いられて久しい。
これまでは「好き」の一言で完結していた好意の表現が、「推し」のみならず「沼」「尊い」「好きすぎてしんどい」「天才すぎる」「大優勝」などと分けられてきた結果、それまで多くの意味を包含してきた「好き」そのものが、より崇高で上位に位置づく感情となり、発信するためのハードルが高くなっていると同時に、歪な方向に伸びている、そんな気がする。

※余談だが、先述した言葉(「沼」「尊い」「好きすぎてしんどい」「天才すぎる」「大優勝」)でしか自分の好意を表現できない人が増えている。
言葉は無限なのに、なんと勿体ないことかと思う。

確かに人間は、時代と文化によって揺れ動く微細な感情、環境によって生まれ変わる新たな価値観を、何百年何千年もの間、様々な言葉をつかって表現してきた。
感情を示すために人間が作った言葉なのに、その言葉に人間の感情が制限されているのであれば、言葉を話さない動物や植物、はたまた地球外の未確認生物たちは、何を思うのだろう。

「好き」のハードルは、もっと低くていいはず。
全て知らなくても、「好き」でいい。間違って覚えていても、「好き」でいい。
勿論、関連情報を全部調べてありとあらゆる細かい情報まで全部把握したうえでの「好き」もいい。

気軽に「好き」を発信できる世の中のほうが、私は好き。

こんな一切脈絡のない毒にも薬にもならぬ、ワードセンスも構成も下手くそな文章を紡ぐことができるのも、言葉がうまれたおかげだろう。これからも私は自由な言葉で下手くそな文章を、気ままに適当に書きたいと思う。

なぜなら私は、文章を書くことが「好き」だからである。

ちなみに先日自販機で買ったカフェオレ、全然甘くなかった。オレオレ詐欺じゃん(ダジャレも好き)。

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