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「アレクサンドリアのギリシャ協会に尋ねよう」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅢ〜LOLOのチェコ編⑪

「ベルエポック時代のエジプトに住んでいたんです」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅠ

「在カイロ・オーストリア大使館に問い合わせて下さい」〜チェコ人建築家ヤン・レッツェル(原爆ドーム)シリーズⅡ

 

 カイロにマグニチュード6.5の大地震が起きたのは、 2013年10月12日の午後3時9分のことでした。人々はこのちょうど21年前に起きた「カイロ大地震」を思い出し、
なぜ21年後の同じ日の同じ時間に!?
とびっくりしました。

 そう、その以前の1992年10月12日の午後3時9分ー 

 屈折ピラミッドで知られる、ギザから南に18km(カイロからは南30km)離れたダハシュールが震源地でしたが、地震が発生したのです。

 ちょうど少し前に、フランス調査隊がダハシュールで中王国時代のファラオの墓の発掘を開始していたことを、ここで記しておきます。

「そんな馬鹿な、無関係だ」

 そう否定するお方よ、いえとんでもない。フランス人考古学者氏が
「決して公言はしないが、霊現象は沢山起きている」
と私に直接話しています。

 それはさておき、1992年10月12日午後3時9分から地震は30分続きました。

 この地震の深さは23.4km、マグニチュード5.8でした。アレクサンドリアとポートサイードを含んだエジプト北部のほとんどの地域、南はアシュート、それになんと外国のパレスチナ(イスラエル)南部まで揺れました。

「決して小さくはないけれども、壊滅的なほどでもないだろう」

 いえいえ、大事でした。ギザの大ピラミッドからは巨大石が落下、ナイル川沿いの泥レンガの家々は破壊し流されました。
 
 中でも最も被害を多く出したのは、カイロの旧市街でした。なぜなら地震そのものによりというより、人々がパニックに陥ったからです。

 元々ここは人口過密地区で、粘土や日干しレンガの脆い建物が密集していました。今でもですが…。

 また違法で勝手に高さを増築したり、作ってはならない土地で地下室を設けた建物だらけだったのも、問題でした。

 この地震により350棟の建物が完全に破壊され、他の9,000の建物が甚大な被害を受け、216のモスクと350の学校が破壊し、約5万人が家を失いました。

 死者は百人近くでましたが、その直接的な原因はやはり地震そのものによってではなかった。

 何も避難訓練を受けていない人々が頑強な屋根の下に隠れたり、頭を守ったりすることもなく、どうしたらいいのか訳が分からず、悲鳴を上げなら外を走り回り、人を押しのけたりぶつかり転んだりと秩序が乱れました。
 これは後の2010年のチリ地震、2009年のコスタリカ地震の時よりも、総合して最悪の結果でした。

 にも関わらず、そのカイロ大地震の後も、勝手に高さを増築する違法建築は普通に続けられたことも、そして相変わらず避難訓練がなく、毎回何か大きな自然災害が起こる度に、取り乱した人々の大混乱が起きることを付け加えておきます。(学ばない…)

 ムバラク政権のエジプト政府は家を失った人々や大怪我を負った人々に対して十分な救助、保護を何もしませんでした。被害者たちが貧困層だったからに違いありません。

 赤十字も国連も救済に動かなかったようで、そこで見るに見かねて「テロ集団」として悪名が高いムスリム同胞団やイスラム原理主義団体だけが援助活動に踏切り、炊き出しや毛布などの寄付、仮設家の提供など、手を差し伸べました。

 この 1992年の「カイロ大地震」(震源地はダハシュールだったものの、カイロ大地震と呼ばれています)は1847年の大地震以降初めての大きな地震だったわけですが、

 19世紀から1952年にかけて、カイロ市内にフランス人やイタリア人そしてドイツ人、AH(オーストリア=ハンガリー帝国)の建築家たちが手掛けた、多くの建物は無事でした。

 しかし、市内にある巨大な旧アブディーン宮殿こと、大統領府だは被害を被りました。

アブディーン宮殿

 500 室の部屋数を誇る、この元宮殿は1863年に当時のイスマイール副王(ケディブ)の命令により、フランスの建築家ルソーが設計し着工した 建物です。

 しかし、あまりにも壮大であるためと、後継者のケディブ(副王)らが増築改築を繰り返したこともあり、途中でイタリア人やドイツ人の建築家らも加わり、完成に十年以上かかっています。

 やっと完成したと思うと1891年、大規模な酷い火事が発生しました。

 まあ、「放火」だと私は思っています。大抵「火事」は「放火」、「事故」は「テロ」。それに当時、すでに民衆による反乱が激化していましたし。

 当時のタウフィク副王(イスマイールの息子)が家族とアレクサンドリアのラス・エル・ティーン宮殿で夏の休暇を過ごしている間でした。

 この火災により、ハラムレク棟と王室近衛兵の宿舎が焼失しました。

 その翌年、タウフィクは息を引き取り…ちなみに彼はフリーメイソンメンバーだったので、エジプトのグランドロッジからは
「エジプト全フリーメイソンメンバーに告げる。七ヶ月間は喪に服すように」

というアナウンスが出たのですが…すぐにタウフィクの息子のアッバス・ヒルミー2世が即位しました。

 ヒルミー2世はまだ18歳でウィーンに留学中だったものの、学業を断念せざるをえなくなり、急遽エジプトに帰国。そして火災で燃えたアブディーン宮殿の完全な修復を望み、王宮建築省の人数を増やしました。

 ところがどういうわけか、なかなか宮殿の再建が進みません。建築家同士が意見を対立させ、揉めてばかりいるのも要因の一つでしたが、エジプトの領土であるスーダンで大規模な反乱が起きて、戦争が勃発したからです。


  1904年。
 英仏協商が結ばれました。この二カ国はずっと北アフリカの植民地の件で揉め続けており、ここでやっとアルジェリアとチュニジアはフランスに、エジプトはイギリスにということで決着がつきました。

 これにドイツが横槍を入れてこないように、とすでに英仏は根回しをし、ドイツのアフリカ内植民地を見逃す、干渉しないとし、ドイツを黙らせました。

 英仏…特にイギリスに元々反発を覚えていたヒルミー2世はこの件でなおさら宗主国オスマン帝国との関係を昔のように強化させ、それと同時にハプスブルク家のAH(オーストリア=ハンガリー帝国)とのパイプを太くすることを決心しました。

 ウィーンに留学していた彼は英語フランス語よりも、ドイツ語の方が得意であり、また母親はコンスタンティノープルの貴族の娘でした。

 
 さて1905年になっても、1891年の火災で燃えて崩れ落ちたアブディーン宮殿の部分の修復はまだ完了していません。

 そこに新しい宮廷建築家のひとりとして、AH領ボヘミア地方のプラハから、24歳の青年が雇われました。のちに広島原爆ドームを建築するヤン・レッツェルです。

              §
 1998年または1999年ー

「写真よりもずっと大きくて迫力あるなあ」
 ウィーンのシェーンブルン宮殿を初めて目にした時、私は口がぽかんと開きました。

 プラハに住むようになり、そこそこの頻度でオーストリアに足を伸ばすことが増えました。仕事です。
 例えば日本人の個人のお客様(FITと呼びました)のエスコート業務で、プラハの国際駅から一緒に列車に乗り込み、ウィーンの駅まで向かう。

 奇妙に思われるかもしれませんが、外国で携帯電話が使えず、スマホで現地情報や列車のトラブルなど検索できなかった時代、
「万が一何か起きたら心細い」
と現地の人間を雇い、長距離移動の同行をお願いする日本人が結構おられました。

 ウィーンの駅に到着すると、そちらの日本人ガイドさん(私とは違い、難関な国家試験を合格したライセンスガイドさん)にバトンタッチします。

 しかし、時には私も今度は添乗員の形でそのまま同行し、一緒にオーストリアを回ることもありました。お客様にすれば、ガイド、エスコート、ドライバーをつける分、それだけ人件費がかかっているわけですから、ある意味大したものです。

 映画「サウンドオブミュージック」の舞台になったザルツブルクでは、そういう方々と「ドレミの歌」を日本語で歌いながら!歩きました。
 他にも「ドレミの歌」を歌いながらザルツブルクの街を闊歩する日本人ツアーを何度も見かけました!

 ザルツブルグ観光局が熱心に日本で誘致の宣伝をしていた時代で、街中日本人だらけでした。

 映画公開当時は、地元は(かなりフィクションを入れた)「サウンドオブ」の内容や出来栄えに不満だったそうですが、その後これだけ日本人の観光客を呼び込みました。

 ホテルもレストラン、土産物屋も大繁盛し、いっぱい地元にお金を落としてもらった。結果的に良かったのかもしれません。

 ウィーンのジルベスターコンサートなどにも同行もしました。チケットは国立劇場の支配人とコネを持つ日本人の方に、いつもお願いしました。その方を通すと、ソールドアウトのいい席も必ず入手できたものでした。

 私も資本主義の国、社会主義、軍事政権の国などいろいろ訪れたり住んだりしましたが、言えるのはどこであれ、人脈とコネがモノを言わない国はないということです。

 それにしてもです。ウィーンの劇場の足を運ぶ客層には、最初えらくびっくりしました。

 オーストリアでも貴族制度はとっくに廃止されているものの、貴族にしか見えない人々が男性はシルクハットに燕尾服、女性はすごい豪華なドレス姿で馬車に乗って劇場前までやって来るのです。

 私が引率する日本人の客層もクラシックやオペラにやたら詳しく、一つの舞台を鑑賞するのに百万、二百万円をぽんと出せてしまう層で、
「パバロッティ、ドミンゴ、ホセ・カレーラスの三大テノール共演来日コンサートの時は40万円で、案外安かった」
などおっしゃる私のお客様もおりました。

 しかしまあ、ただの引率者といえども、まさかその辺の安物ワンピースのわけにいきませんから、私は服装に困り、逆に出費の方が大きくため息が出たものですが、今思えば、それでもあれだけの一流の演奏を生で聴けたのは貴重な経験でした。

 ところでプラハの国立劇場でもそうでしたが、ウィーンの劇場にも必ず格安の立見席が用意されていました。

 ぼろぼろになった楽譜を小脇に挟んだ音大生たちが、その券を購入し、毎晩のように通い、指で楽譜の音符を追いながら、舞台を真剣に見学していました。

 このような音楽を学ぶ恵まれた環境…つまり数百円で一流の舞台を見れる環境を目にすると、そういう意味でも感心します。

 私の知り合いの、元某ヨーロッパのフィルハーモニーに在籍していた初代日本人の音楽家の方は

「日本人がクラシックをやるというのは、アフリカ人が歌舞伎をやるようなもの。つまり遺伝子も体内に流れるリズム感、音感など、ヨーロッパ人とはまるで違うし、レッスンのレベルも教え方も根底からレベルが違う。
 日本の音大の大学院に進むのならば、本場ヨーロッパに留学すべし」

 確かに世界で活躍する日本人演奏家を見ていると、日本人の盆踊りDNAにとらわれていない才能の持ち主ばかり!

 ベリーダンサーを見ていても、これは上手い下手、技術がどうのこうの以前に、生まれ持つ踊りのリズム感の違いを痛感します。

              §
 「LoloさんがFITに同行して、私のガイド案内を聞いているのはいいけれど、美術史博美術館の古代エジプトコーナーだけはやりにくいわあ」

 何度か一緒に組んだウィーンの日本人ガイドさんは苦笑し、ある時そう言ってきました。

 彼女は元々音大を出ており、音楽留学でこちらにやって来てから、そのまま住み着いておられるのだといいます。

 国家試験を受験できて合格すれば、外国人籍でも観光ガイドになれるイタリアでも、元音楽留学生だったという日本人ガイドさんは多かったです。

 それにしてもです。
 ロンドンの大英博物館、パリのルーヴル、ベルリンの博物館、サンクトペテルブルクのエルミタージュ美術館、そしてウィーンの美術史美術館などのガイドは大変だなと舌を巻きました。

 私は「エジプト考古学博物館の案内は難しい。数千年分の遺跡があるから」とぼやき続けていたのを、撤回し反省しました。
「いろいろな国の歴史や美術品を学ぶ必要がなかった、エジプト史だけの勉強で済んだのは、実はありがたかったんだ」

 ウィーン美術史美術館に展示されているエジプトの骨董品の膨大なコレクションは、もともとフェルディナンド・マクシミリアン大公のミラマール宮殿に所蔵されていました。

 そもそもは1798年のナポレオンのエジプト遠征の際に、それに同行したフランス人の考古学者や地理研究者などが調査した「エジプト誌」が発行されたことに遡ります。

 すると、ヨーロッパ全土で古代エジプトに対する新たな関心が高まり、オーストリアも例外ではありませんでした。在エジプトのオーストリア総領事は、早くも 1847 年に発掘調査に資金を提供し始めました。

 1869 年、フランツ・ヨーゼフ皇帝は帝国ヨット グライフ に乗って、オーストリアの装甲軍艦ハプスブルクとエルツヘルツォーク フェルディナント マックスに護衛され、エジプトのポートサイードの港に到着しました。

 そしてそのままスエズ運河開通式典に出席したのですが、その時にヨーゼフ皇帝はエジプトのケディブ(副王)のイスマイールにいくつかの古代エジプトの柱を贈呈されました。
 それらの柱も現在、ウィーン美術史美術館のエジプト展示室の天井を支えています。

 ヨーロッパ各国の博物館で見ることができる古代エジプトの遺跡は、何も強引に略奪されたわけではなく、エジプトの王室側も進んで贈呈していたのです。

 
  別のある時です。

 お馴染みのウィーン在住の日本人ガイドさんが
「チェコはともかく、エジプトにいたのならばオーストリアの観光地だなんて面白くもないでしょ?」

「そんなことありません。エジプトとはまるで違いますから。それにシェーンブルン宮殿の壮麗さに感激しましたし」
「あれ?エジプトには宮殿はないんでしたっけ?」

「ありますが、1952年のエジプト革命以降、その多くが荒れ果てたんです。
 1970年にサダトが大統領になると、いくつかの宮殿を修復改修し、ムバラク大統領時代にはカイロにあるアブディーン宮殿…現大統領府ですが…の完全修復が命じられました。

 ところが1992年にカイロに未曾有の大地震が起きたんです。せっかく再建していたのに、また壊れ、結局そのまま放置されました。ムバラクは別の場所に立派な私邸を所有していましたしね。

 1997年に外国人観光客団体を狙ったテロが二回も起きました。

 当時、エジプトの最大の観光客であった日本人も欧米人、北米人もバタッと全く来なくなりました。

 エジプトの観光業に閑古鳥が鳴きました。
 そこで弱ったエジプト政府は…観光客を取り戻す話題作りの一環だったと聞いていますが…放置していたアブディーン宮殿の再建に重い腰を上げ、1998 年 10 月 17 日再オープンを発表しました。

  この前年の11月17日に痛ましいルクソール襲撃大事件が起きているので、その追悼の日を迎える前に、アブディーン宮殿のリニューアルオープンという明るい話題を提供し、ごまかそうとしたんだろうなと私は思っています」

 
この話をしていた時、私はふと目下調査中のヤン・レッツェルのことを思い出しました。

「そうか、今気づいた。

 レッツェルが日本で建築した建物の多くが関東大震災で倒壊しているけれども、レッツェルが1891年の火災でダメージを受けたアブディーン宮殿の修復に関わっていたものの、

 この宮殿も1992年の大地震で再び大きな損傷を負ったということなんだ。彼が手掛けた建物は日本でもエジプトでも、地震にやられたわけだ…」

              §
 プラハの撮影会社で、カイロのオーストリア大使館からFAX送信された、当時エジプトで活躍したAH出身の建築家たちの名前リストを見ました。

 ヤン・レッツェルの名前はどこにも見当たりません。

 しかし1905年にエジプトへ行き、アブディーン宮殿の建築家になっているのは、様々な文献に書かれているのを既に確認していますし、観光ガイド試験の時の試験官もそれははっきり述べていました。

「ということは、エジプトではレッツェル自身による建築作品がないということで、肩書の文字通り、本当に宮殿の修復や補修を手掛けていただけなのに違いない。

 それでも、エジプトでのレッツェルについてもう少し知るためには、当時の、彼の上司であっただろう宮廷の主任建築家が誰であったのかと探せばいいのかもしれない」

 そしてリストの名前をひとりひとり調べました。

〖アントニオ・ラシアック、エドゥアルト・マタセク、カール・シェイノハ、ユリウス・フランツ、オスカー・ホロヴィッツ、アドルフ・ロース、ジョセフ・ウルバン、ジョヴァンニ・ミクラベツ、ミクサ(マックス)ヘルツ

 このリスト最初に記されているアントニオ・ラシアックに、レッツェルについての「ヒント」がありました。

 ラシアックは宮殿を元の状態に復元することに成功させた、アブディーン宮殿の主任建築家でした。なお復元工事の際、宮殿の下の部屋は博物館に改装されました。

 しかしです。ラシアックが宮廷主任建築家の座に就いたのは1907年で、どうもほぼ同じタイミングでレッツェルは辞職しエジプトを離れています。
 しかもラシアックによるアブディーン宮殿復元工事そのものは1909年から1911年の間に行われており、全くレッツェルとは関係ありません。

「つまり、見方を変えれば1907年にラシアックが宮廷主任建築家に赴任するひとつ前の主任建築家が、レッツェルの上司だったのに違いないということになる。
 その人物の詳細が分かれば、エジプトの宮殿に仕えた時代のレッツェルについて、詳しいことが見えてくるかもしれない」

 ここまで来たら、もう意地です。

 
 ラシアックは今でも評価が高い大物建築家であったので、幸いに彼に関する論文や著書は図書館で色々見つかりました。プラハも建築の街なので、図書館でもその分野の書物が充実していました。

このラシアックの建築の専門書は後になって出版されています

 
 そうしてアントニオ・ラシアックの経歴を調べ、そこから彼の前任者が誰だったのか分かりました。
 その人物は1907年までアブディーン宮殿主任建築家だったのは間違いなく、1907年までそこに勤務していたレッツェルの時代と重なります。

 ところがです。

「デミトリアス・ファブリツィオ?」

 名前が何だかオーストリア人でもハンガリー、ボヘミア人でもない気がします。
「少なくとも、苗字のファブリツィオはおそらくイタリア…」

 
 翌日、チェコ語夜間学校へ行き、クラスメートのヨーロッパ人たちにその名前を見せました。

 すると
「ラテン系の苗字だ」
「いや、バルカン半島にもある苗字だ」
「僕の祖国のブルガリアの苗字ではないよ」

「そもそも、昔は世界地図が違う。特に地中海辺りは全然違っている。よって例えば現イタリアでも、当時はギリシャやオスマン帝国だった地中海、エーゲ海辺りの島出身の可能性もある」
 そう言ったのはイタリア人でした。

「これは困った」
 そこで思い出したのが、私を「喘息にさせた」!、観光ガイドになるための個人授業で、雪の中のプラハの街を散々引きずり回されたカレル大のカレル先生です。

 かくかくしかじかと話すと、カレル先生は興味を持ってくれ、教授ネットワークを駆使し、地中海建築の研究者に連絡を取ってくれました。

  その結果
「1907年までアブディーン宮殿の主任建築家だったデミトリアス・ファブリツオは、エーゲ海の〇〇島(*さすがに島の名前のメモは残っておらず)で生まれたギリシャ系ドイツ人である。
カイロのブラク地区の自宅で息を引き取り、遺体は旧市街のギリシャ正教墓地に埋葬され、まだ残っている」

「ひぇー、ギリシャ系ドイツ人?初めて聞く…」
「じゃあ今度は在カイロ・ドイツ領事館に問い合わせるの?」
 チェコ人同僚が笑いました。一体何やってんだがと半ば呆れているのが見え見えです…。

 でも私は真剣な顔つきで考えました。
「…いや、この場合は違うな。ドイツ領事館じゃない…。アレクサンドリアのギリシャ人協会EKAだ…」

 アレクサンドリアは遥か昔にアレキサンダー大王が建設した街で、別名ギリシャ人王朝ことプトレマイオス王朝が栄え、直近では1950年代にナセル大統領によるエジプトの外国人追放命令の時に、多くのギリシャ人がエジプトを離れました。

 しかし以前NOTEの記事にあげていますが、私はそれでも「しぶとく」エジプトに残り続けたギリシャ人末裔(グレコ・エジプシャン)らに出逢っており、彼らが「エジプトのギリシャの記録」を管理して持っていることも聞いていました。

「ファブリツィオはカイロ旧市街のギリシャ正教墓地に埋葬されたということは、宗教がそれだったからなのでしょうけど、ギリシャ人としての墓を望んだということでもあったはず。

 それに19世紀、20世紀初頭のエジプトでは、ギリシャ人建築家も大勢活躍しているから、これはギリシャコミュニティに聞く方がいいと思う」

 自信がありました。

 あの人たち(アレクサンドリアのギリシャ人)たちは、自分たちがどれだけエジプトに貢献してきており、どれだけ活躍してきたか、さんざん私にも自慢しており、アレクサンダー大王の時代についても「つい先日」のように語っていたくらいです。

 アブディーン宮殿の主任建築家だった「ギリシャ系」のデミトリアス・ファブリツィオの記録がないわけがない。

 だから問い合わせFAXには、決して「ボヘミア人レッツェルを調べるついでで…」と「本当」のことを私は書かず、このような尋ね方にしました。

エジプトで名を残したギリシャ人、またはギリシャ系外国人の建築家の功績を調べており…

 すると、ちゃんと地中海の街アレクサンドリアから、EKAの返事が送られてきました。

 私の読みの通りでした。
 グレコ・エジプシャンこと、エジプトのギリシャ人末裔協会はデミトリアス・ファブリツィオ、レッツェルの上司だったであろう,ギリシャ系ドイツ人建築家の情報を持っていました。

               つづく

ヘッダー画像、クリムト、1891年
 多くのエジプト人は画家といえばピカソしか知りませんが、オーストリア出身のクリムトはエジプトに影響を受けた作品を発表しています。


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