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スエズ運河は流れる① - 喝采と銃撃..歌声響き血は流れて

★一回さきほど上げたのですが、長すぎたなと分けることにしました。どうもすみません🙇


↑前


ルクソール観光では、普通は西岸(ネクロポリス)の観光は、午前の早い時間に済ませるものだった。何故なら暑いからだ。理由はそれだけ。


1997年11月17日午前8:45、

自動機関銃ナイフで武装し、治安部隊のメンバーになりすました6人のエジプト人がルクソール西岸の、クルナ村そばのハトシェプスト女王葬祭殿で、62人を虐殺した。(重症者も多数)

ここは行ったことのある人なら誰もが分かるが、敷地があまりにもだだ広く、葬祭殿も横に伸びているだけで奥行きもない。そして建物の背後は谷の絶壁なので、正面からしか出入りは出来ない。

つまり突先に身を隠す所も逃げ場もない。

その6人は、アルカイダとの関係が疑われるアル・ガマア・アル・イスラミヤ(「イスラム集団」)とタラー・アル・ファテ(征服の先駆者)のイスラムテロリストだった(と言われている)。

その後、テロリストたちは観光バス一台をハイジャックしたが、武装したエジプトのツーリストポリスと軍隊がすぐに到着。

6人のテロリストとの激しい銃撃戦になった。

彼らテロリストの全員は後に殺害または自殺した。しかし"口封じ"で処刑されたのだろう、という噂は囁かれた。

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もし私がその戦士であったなら!勇士の一隊を私が率いて戦いに勝ち、メンフィスじゅうの喝采を得るのだ!そしておまえのもとに..いとしいアイーダよ、栄冠(月桂冠)を戴いて帰郷しおまえに言おう; 「おまえのために戦い おまえのために勝ったのだ!」『清きアイーダ』(Celeste Aida" ("Heavenly Aida") ) より


さて、エジプトの近代史(テロを含む)を振り返ると、私はどうしても、スエズ運河がその核にしか思えません。ピラミッドでもアブシンベルでもなく、スエズ運河です。

よって、私の主観/推測/解釈による、スエズ運河をキーポイントにした、エジプトの近代史を簡単に書いてみたいと思います。

それらをザッと見ていくと、やはりすべての一連の出来事が、スエズ運河を通して繋がると感じます。


2019年-

ルクソール西岸のハトシェプスト女王葬祭殿で、オペラ『アイーダ』が上演された。それは90年代から続いた、エジプトの暗い印象の払拭を、まるで狙っているかのようだった。


2019年の22年前の11月17日午前8:45、ハトシェプスト女王葬祭殿で大きなテロが起こった。

実はこの3年前にも、1994年11月26日、この葬祭殿で野外オペラ『アイーダ』が上演されていたのだが、エジプトのツーリズムの人々は

「困った時には"アイーダ"を」と言っていた。

何故なら、いつだって『アイーダ』の華やかな上演を開催することにより、それ以前のエジプトの"怖い"イメージを消そうとしてきたからだ。

「はい、世界の皆さん。また『アイーダ』を上演しますよ。もうテロも戦争も終わったという証拠ですよ、大勢人を呼べるんですからね」 とエジプト政府がこのオペラを利用してきたのである。


※『アイーダ』:

80年代イスラエル(ユダヤ)人を狙うテロ多発⇒

1987年カルナック大神殿で上演⇒

観光客来ない(テロ多発&湾岸戦争勃発)⇒

1994年ハトシェプスト女王葬祭殿で上演⇒

観光客来ない(1997年ハトシェプスト女王葬祭殿で大きなテロ)⇒

1999年ギザのスフィンクス前で上演⇒

観光客来ない(第二次湾岸戦争&エジプト革命)⇒

2019年ハトシェプスト女王葬祭殿で上演(←今ここ)

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ところで、90年代のエジプトにおけるテロの状況は大まかにこのようなものだった:

1990年、パレスチナイスラム聖戦団により、観光バスに乗っていたイスラエル観光客16人(確か)殺害。

同年、エジプトの国境警備隊が国境を越えてイスラエルに入り、エイラート-カデシュバルネア道路の車両にAK-47で発砲し、4人が死亡。

1992年にはアシュート村でコプト(※後でコプト(クリスチャン)の説明がやっと出てきます)13人がモスリムに銃殺された。

翌年1993年は、カイロの飲食店(記憶違いかもしれませんが、アメリカン大学前の、オープンしたてのアメリカのマクドナルドだったような...)で爆弾を仕掛けられ、3人死亡、約20人負傷。

同年、カイロ付近バス爆破。イギリス人5人含む22人が負傷、エジプト人2人死亡。

そしてカイロ市内ホテル(どのホテルだったか忘れましたが、インターコンチだったような) で、イタリア人、フランス人、二人のアメリカ人殺害。

この年は、テロリストに千人以上殺されたという噂もあった。


1994年に入ってもテロは相変わらずだった。

ヨーロッパ人特にドイツ人多い、紅海リゾート地ハルガダで、自動ライフルにより二人のドイツ人と二人のエジプト人が殺害。


1994年、ハトシェプスト女王葬祭殿で『アイーダ』が大きく上演された時、私も行ったが(観光ガイドとして、ツアーグループを引き連れて)、

如何せん音響が悪すぎて音が割れてもうひどいったら...歌も生演奏も耳障りでしかなかったが、確かチケットは数万円だった...

しかし、場所が場所なだけに- ルクソールの谷間の葬祭殿...その迫力は確かに見事だった!

三年経っても、カイロオーケストラ楽団にはまだあの時のギャラが振り込まれなかったというオチはあるが(その後、振り込まれたかどうかドキドキして、楽団の誰にも聞けなかった)、

大勢の日本人グループもヨーロッパ人たちも大勢押し寄せて、大盛況だった。厳重なるセキュリティーの成果もあり、何の事件も起きなかったので、成功だったと思う。


1995年は、大きなテロの話は聞かなかった。


ところが、1996年、ギザのヨーロッパホテル入口前で18人のギリシャ人観光バスのエジプト人運転手、エジプト人ポーターが殺される。

ネットでは、ギリシャ人18人だけが殺された、となっているが、エジプト人も殺されている。ホテルのポーターと観光バス運転手だ。

なぜそれを知っているのかといえば、その場にいたのでね、私は...正確には、中のロビーにいた。


このヨーロッパホテルは四つ星ホテルだった。

(日本人の感覚だと、一つの星もありえないほど、暗く何も充実もしていない暗いホテル。ロケーションもイマイチで、朝食もマズイが宿泊料金が安い)

私の担当の、安いツアーグループがこのホテルに泊まっていたので、観光のお迎えでホテルロビーのソファーに私は座っていた。

だから現場といおうか、その襲撃の場面は目撃していない。でも銃声音(ライフル?)で気づき、旅行会社のアシスタントに叫ばれ、一緒に突先に、

スーツケース置き場部屋(チェックアウトしたお客さんやグループのスーツケースを保管する狭い小部屋)に隠れた。


その後、グループの日本人の皆さんは各部屋から降りてきた。むろんホテル真ん前でテロが起きたのは、全員分かっている。

それでいろいろ聞かれたが、怖がらせてはいけないというのと、ちゃんと予定通り観光してくれ、というその時の添乗員の意向が強く、皆さんには

「大したことなかったですよ」

と誤魔化し (!)、普通にカイロ市内観光へ出かけた。

ホテルを出ると、辺りは血だらけで、物々しい感じはあった。武装警察官だが軍人は大勢いたし。だから全然誤魔化せなかったのだが、それはそうとパパラッチは皆無だ。

いくら大事件が起きようと絶対絶対、テロ現場などにパパラッチが押し寄せることはなかった。もしマスコミが来たら、その記者は捕まるんじゃあ...

大勢記者が押し寄せるとしたら、ムバラク大統領がどこかに表敬訪問したとか、どこぞの国の政治家に会ったとか、オペラ座に足を運んだとかそういう時だけだった。


ギリシャ人たちが殺されたヨーロッパホテルは、のちにホテルは名前を変えたが、風評被害でその後はやはり閑古鳥が鳴いていた。ホテルとしてはいい迷惑だっただろう。

ちなみに、おそらくこれはギリシャ人たちがユダヤ人(イスラエル人)に間違えられたんだろう、ということだった。


1997年2月には、アブキルカスの教会付近で、コプトが15人狙撃され殺された。

あとは年と日付が曖昧だが、私が覚えているのはカイロ市内のムハンマドアリモスクでのオーストラリア人グループ狙撃、ナイル川クルーズ船のチェコ人グループ狙撃、

カイロタワーでのユダヤ人グループ狙撃、カイロのインターコンチネンタルホテルでの朝食中のベルギー大使だが領事の狙撃(手榴弾だったかな)、カイロのアメリカン大学前のバス停の爆発、、、

(いろいろありすぎて、以下省略。ただし毎回死人が出たわけではない)

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ところで1997年11月17日に、ハトシェプスト女王葬祭殿にて、62人が殺されたテロがあったと前述したが、

1869年の11月17日には、スエズ運河開通式が行われていた。

史上最大の贅沢なセレモニーと揶揄されたほどの、豪華絢爛なものだった。

開通式に参列した、ヨーロッパ列強各国の招待客のために、カイロにはオペラ座が建設され、そのこけら落としで『アイーダ』が上演される予定だった。

(↑※実際は同じヴェルディの『リゴレット』が上演された。『アイーダ』はそもそも上演予定はなかった、という新説が最近では一般的だ。

でも私は『アイーダ』を上演したかったはずだ、と思っている。その理由は後ほど...)


繰り返すと、1869年"11月17日"にスエズ運河開通式、そして本来ならばそれを記念して、大勢の外国人VIP招待客に、オペラ『アイーダ』が初披露されるはずだった。

そして1997年11月17日、『アイーダ』が上演されたハトシェプスト女王葬祭殿にて、外国人数十人が狙われ殺害された。と

これは単なる偶然か否か...

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時間をぐっと遡る。

古代エジプト時代、スエズの地には運河が流れていた。

実際、第12王朝のファラオ、センウセレト1世(Senusret I, 在位:紀元前1971年 - 紀元前1926年)は運河を繋げている。


古代エジプト人はもともと地中海(レバノン)からはレバノン杉を、プント(紅海)からは多くの物資を多く輸入し、

また巨大建造物を造ってきた民族だ。水上航行による物資の運搬も行っていた。

ところが地震や気候の変化で地形が変わり、運河が塞がれてしまった。

しかし古代ファラオの運河の復活、またはその改良版運河を作りたい、とペルシャのダリウス王もマケドニア(ギリシャ)のアレキサンダー大王も、

かのクレオパトラ七世そしてローマ軍も運河の再建を夢見てきた。

でも難しい。ファラオの運河の復活は実現には至らなかった。砂に埋もれたままだった。

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現代、エジプトの遺跡観光をすると、どこもかしこにもラムセス二世のカルトゥーシュ(象形文字)の名前だらけを見かける。

それもそのはずで、それまでのファラオの名前を削り、上から自分の名前のラムセス二世に"上書き"してしまっていた。

その一方、未来の後継者には、自分としたのと同じようなことをさせないため、自分の名前は削り消されないよう、非常に深く彫った。

自信満々なのも根拠があって、ラムセス二世の統治下のエジプトは、確かに全盛期を誇った。

が、彼の死後から30年経ち、ラムセス三世の時代に入ると、エジプトも終焉の兆しを見せ始めた。

リビアがナイルのデルタ地帯を攻め、ヌビアがテーベ(ルクソール)を攻め、アッシリアが攻め、そしてペルシャ(イラン)がナイル流域を攻め支配をした。


ペルシャのダリウス王は、エジプトの伝統宗教と文化を敬った。

彼はメンフィス(古王国時代の首都)のダムを修復し、ヒエログリフ(象形文字)学校を再開させた。

それだけではない。ホルス神殿のために多大なる寄附をし、また通貨を制度化させた。

また運河も完成させた。ナイル川から紅海に水路を繋げたのだ。


因みにエジプトはざっくりいえば、ペルシャ、マケドニア(ギリシャ),ローマ、アラブ、オスマントルコ、フランス、イギリスに支配(統治)されてきた。

なぜこうも、多くの外国はこうもエジプトを狙い続けてきたのか-

答は明白だ。


エジプトはアフリカ大陸にあるが、ヨーロッパ(地中海)とアジアを結合する、この世界で唯一の国だ。

第二にナイル川、そして古代時代はまだその姿がぼんやりにすぎなかった、そうスエズ運河があるからだった...



つづく

次↓



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↑50回は読んだのでボロボロ。今回参照しました。

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↑フランス人(右)の書いたアレキサンドリアの本は、ナポレオンに甘い! 高評価!  ところがイギリス人(左)のアレキサンドリアの本だと、ナポレオンを小馬鹿にしたような書き方で、比較すると面白い。今回、この二冊もちょっと見直しました。

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↑1999年にも『アイーダ』はギザのスフィンクス前で上演されています。その時の広告ポストカード。
スフィンクス写真は、「百年以上前の写真だ」とナイルヒルトンに入っていた骨董屋に言われ、本物認定証明書まで付けてもらい、購入。値段は忘れましたが、それなりにした記憶。でもやっぱりただの印刷でした、本物の写真ではなかった!

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