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【哲学入門】不思議ちゃんヴィトゲンシュタインはこう考えた

ウィトゲンシュタイン。
この人の哲学は、言語で表現できることの限界を線引きした。

論理哲学論考とか言語ゲームの結論はこれ

ユーチューブ解説もしました。読むか聞くか、理解しやすい方でどうぞ


言語の限界とは何か?

言語の限界は2つ
・ア・プリオリな限界(あらかじめ設定された言語の限界)→論考
・共同体幻想や文脈が限界→後期ウィトゲ

補足 言語が文脈に依存するとは?
→具体例をつらつら。
・バイト仲間同士だけで通じる変なお客さんのあだ名
・ギャル語はおじさんにはよくわからん
・業界用語。漁師のおっちゃんたちの使う言葉とか、投資家の使う用語とか
・方言。大阪弁とか鹿児島弁とか
・「日本国民とはー」「経済政策のホニャララがー〇〇でー」
@「?何を話してるの?」

こんな感じのことが、共同体の中で言葉をどんな意味で使ってるのかってこと。人間たちが、友達同士とか集団の中で通じるように言葉を使ってることを「言語ゲーム」と呼んでる

※伝統、言葉の定義は統計で決めた方がいいってオプチャでncoさん大佐が話してたことがあるけど、これも同じ。
nco大佐「伝統や言語って、要するに共同体で通じる幻想のことだよ。統計で集団としての言葉の使い方を分析したら?現象学的還元とか解釈学的循環は必要だと思うけど」

ここから、論理哲学論考の解説です
形而上学者ウィトゲンシュタインて本を元に解説してます。


論考のア・プリオリな言語の限界とはなんだ?

・論考は『ア・プリオリな言語の限界』を線引きした。
『ア・プリオリな言語の限界』=「あらかじめ設定された、言葉で世界をどこまで表現して説明できるかの限界ライン」
要はカントが純粋理性批判でやったことをより厳密に詳しくやった。

ア・プリオリな言語の限界ってどこなの?
→言語で表現できることは、具体的な現実のみ。形而上学(存在とは何か+神学的なもの)を言語で語ることはできない

◯大前提としての、ウィトゲの言葉づかいの解説


・命題は事実のみを語りうる=言語は具体的な現実(事実)のみを説明するってのが本質なんやで。言葉は本来、現実と対応させて使うもんなんやで
・事実は別様にありうる=事実は別の可能性を考えることができる。→たとえば「〜がない場合」「でもこんな状況もあるよね」「他の選択肢もあるよね」を考えられる。


つまり、言語そのものの性質は
・別の可能性を考えられる事実のみを表現するためにある。
・別の可能性、別の在り方を考えられない、本質論(=形而上学)に関わることを、言語によって表現したり説明することは不可能
※本質が2つも3つもある状態ってなんかおかしく感じるでしょ?

ココがウィトゲの大事なポイントだと思う。

命題≒言語 は事実しか語ることができず、本質論は語れない。

言語で表現できない形而上学的なものって何なの?

→論理的なものと倫理的なものの2つ
→論理的なものは2つ。論理形式そのものと、独我論のテーゼ『世界は私の世界である』を言語で表現できない(この2つは論理の領域に属する)
→倫理(倫理的な生き方、意志の自由、魂の不死性、神の現存在)は語れない。

論理と倫理は、別の可能性があることを想定できない、本質的なもの(形而上学的なもの)だとヴィトゲは考えた

※ウィトゲの言葉づかいの補足
・語れない=別の可能性を考えることができない。

論理形式、独我論、倫理について補足


論理形式

論理形式そのものは、別の在り方(別種の論理形式)があることを想定できない

いろんな国の言語はあるけど、言葉そのものがない可能性、言語という概念が存在しない世界は考えられない みたいな話

独我論

独我論のテーゼ『世界は私の世界である』は、別の可能性=私以外の世界があること(他人の世界がある) を想定できない。

世界そのものが存在しない可能性を想定できない。「世界がない」ことは想像不可能である。こんな感じ

「私の世界」は対比されるもの(他人の世界)を持たない。対比されるものがないなら、ただ世界があるとしか言えない。独我論の「私の世界」の「私」は余計な形容詞にしかならない

解説本での説明を要約すると、ウィトゲは「世界は生である」というテーゼで、世界=生は比類されるものがない唯一のものだとかなんとか

どうもウィトゲの独我論は「我=私」を強調する独我論とは別物らしい。

あえていえば「独-世界論」とでも呼べばいいのかも。「世界があることそのもの」が比類できない唯一のものって感覚らしいから。

世界の唯一性を強調した人らしい

参考にした『形而上学者ウィトゲンシュタイン』によると、

ウィトゲは、世界があること(世界の実在)に驚いたのであって、「私」の存在に驚いたわけじゃない。(むしろ「私」は、ほとんどどーでもよい?)

ハイデガーと同質の体験といえるらしい。

倫理

倫理的なものは、言語や論理でそもそも語れない。
言語の性質とは事実(別の可能性を考えられるもの)を語ること
→倫理は事実とは別カテゴリ、別次元にある問題
→倫理(意志の自由、魂の不死性、神の存在)は事実ではないから語れない。

事実と呼べる領域の外側の問題が倫理。問題設定の次元が別のところにあるともいえる

論理と倫理の整理

ウィトゲの論理ー倫理に対する考え→表象する主体(思考している私)は論理に属する。意志する主体(私の意志)は倫理に属する
※ショーペンハウアーの表象としての世界ー意志としての世界 と対応してる

少しまとめて、言語の限界とは、思考する私(表象の主体)と、私の意志(意志する主体)の2つだと、論考で主張したといえる。

・思考する私と、私の意志が世界の限界である

ショーペンハウアーの考えを再解釈してるともいえそう

表象の世界→論理の世界。表象する主体(思考する私)
意志の世界→倫理の世界。倫理の責任を負う意志の主体(私の意志)

ショーペンハウアーの考えた、意志と表象としての世界は、論理の世界と倫理の世界だと再解釈した。

論理と倫理が言語で表現できないなら、なんで私達は論理と倫理が理解できるの?

→語れなくても、『在る』と指し示すことはできるから。

論理的なものと倫理的なものは示し表すことだけが可能。

※繰り返し補足
論理的なもの(=論理形式と独我論のテーゼ「世界は私の世界である」)
倫理的なもの(本来的な形而上学=倫理、自由意志、魂の不死性、神)

論理形式は命題を語ることで自己(論理形式そのもの)を示すことができる。
→言語で現実世界を説明するってやり方で論理形式を示せる

独我論は私の言語(思考)が私の世界のみを描出することで自己(この場合は独我論そのもの)を示せる

サッカー観戦で、選手の努力しか見えない観客の見ている世界と、戦術理論(カオス理論とポジショナルプレーの違いとか、質的・量的・位置優位とか)について理解した観客の見る世界は違う。みたいな話


倫理は沈黙して(=語ることをやめて)生き方で示すことはできる。 

ウィトゲの考えだと、善の意志に従って生きると幸福な世界を生きて、悪の意志に従って生きると不幸な世界を生きるらしい。

本から引用『世界の限界は意志する主体であり、幸福と不幸がこの主体の述語である』

ざっとまとめよう。
世界とは意志で切り取って構成したものである。善と悪2つの意志のうち、どちらを選ぶかは私しだいである。つまり幸福か不幸かを決めるのは本人の意志である。こんな感じ…かも


少なくとも、ウィトゲの感覚では、倫理は形而上学の領域にあって、言葉でごちゃごちゃ語るもんじゃない。

まとめ

ウィトゲの考えた、言語の限界は2つある
・ア・プリオリな限界(あらかじめ設定された言語の限界)→論考のテーマ
・共同体幻想や文脈が限界→後期ウィトゲのテーマ


後期ウィトゲの考えはこれ
・私達が、共同体の中(=友達同士とか集団の中)で通じるように言葉を使ってることを「言語ゲーム」と呼んだ。
要するに、私達の使う言葉の意味は、文脈によって制限されている。

前期のウィトゲ(論理哲学論考)について
・ア・プリオリな言語の限界に対してウィトゲの考えたこと
→論理的なものと、倫理的なもの。この2つは語れない。指し示せるだけ

論理的なもの=論理形式と独我論のテーゼ「世界は私の世界である(世界の実存そのもの)」
倫理的なもの(本来的な形而上学)=倫理、自由意志、魂の不死性、神
語れない=別の可能性を考えることができない。比類できない唯一のもの

言語そのものの性質は
・別の可能性を考えられる事実のみを表現するためにある。
・別の可能性、別の在り方を考えられない、本質論(=形而上学)に関わることを、言語によって表現したり説明することは不可能

論理と倫理を示すやり方
※論理に対して使うか、独我論に対して使うか、倫理に対して使うかで、指し示すやり方が違ってくる
・論理を指し示すやり方→命題を語ることで示す→言語で現実世界を説明するってやり方で論理形式を示せる

・独我論を指し示す→私の言語が私の世界のみを描出する。自己紹介することで本人の世界観が見えるみたいな話。語るに落ちるともいう。

・倫理を指し示す→沈黙して、倫理的な生き方で指し示す。

論考の特色として、倫理は神の意志に沿う形の生き方で示すといいらしい

(どうもウィトゲは神の存在、神の意志があると考えてるフシがあるみたい。ここらへんが独特)

形而上学者ウィトゲのp314にここらへんの話が簡潔にまとまってるので、手にとってみてはいかがでしょうか?

オマケの話として、倫理については、トルストイの福音書要約本がベースにあるみたいです。やたら影響うけたってエピソードがありますね。


とりあえず、ウィトゲを私なりにまとめるならこうなる
・具体的な現実と対応させて言葉を使え。
・言語は文脈と対応して使え
・文脈とも、具体的な現実とも対応してない言葉を喋るな
ーショーペン「空虚な美辞麗句に自己満足するやつは思考できねぇよ」ー
・神とか、倫理とか、魂とか形而上学や神学のことは黙れ。語るよりも生き方で示せ

他の哲学者の言葉が、ウィトゲの考えをよく表せそうなんで紹介。
ホワイトヘッドの『抽象を具体と置き違える錯誤』てやつ。
俺のプロフの
「抽象的な言葉を具体的な事実だと勘違いするやつはバカだもの」の元ネタ

英語wikiから
元ネタは下のリンクの機械翻訳


参考文献
・形而上学者ウィトゲンシュタイン 細川亮一…お近くの図書館を経由して借りた方がいいかと。
この本を主に参考にして記事を書きました。
ウィトゲの用語の意味をわかりやすく解説できてると思う

オススメのウィトゲ解説書です

文章はくどいので、飛ばし読みしながら読みましょう。
→用語の対応関係を解説した箇所(「ウィトゲの文章や用語」=「これはこんな意味やで」って書き方をしてる)を読みましょう
→目次から、面白そうなところを選びましょう
→最初と最後だけ読んでみるのオススメ。さっとまとめがあるから。
→各トピックの最初と最後だけ読むのもオススメ。簡潔に論点がまとまってるのでわかりやすい

・論理哲学論考
・哲学的考察
…ぶっちゃけこの2つは読んでない。形而上学者ウィトゲンシュタインしか俺は読んでない。この一冊読めば十分だと思える完成度でした。
気になるなら、他の学者さんの解説書も読んでみるとよいかも。他の学者さんの解説は読んでないからさ俺。

終わり!🤗

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