瞑想でよく言う 『気づく』、どういう状態か意味を説明できますか?── 今からはじめるマインドフルネス入門⑮
「瞑想中、雑念に気が取られていたら、そのことに気づいて……」って、よく聞きますよね。
すごく簡単そうに、言うものだから。
簡単なんだろうなと思ってやってみるけれど、実際やってみると「気づき」ってどういう状態のことを指しているのかが分からない。でも瞑想を解説する人はみんな抽象的だし、説明もなんだか曖昧だし、そのうちに腹が立ってきて、「もう二度と瞑想なんかするかアホが!」と真夜中に書き殴った絵馬をごうごうと燃え上がる焚き火に投げ込みたくなりますよね(なりません)。
今回の記事を読んで頂けば、10分後には瞑想における「気づき」「気づく」という言葉がどんな意味なのかを、焚き火の周りに集まって絵馬を投げ込んでいる方々(だからそんな人たちはいないけれど、悩んでいる人たち)に教えてあげることができるようになります。
説明自体がやや複雑な部分もあるので、結論だけを知りたい人は最後の章だけ読んで頂いて構いません。
なぜ「気づき」が理解しづらいか?
さて、瞑想のプロセスで行われるあるステップを「気づく」と私たちは呼びます。そして、その状態自体を「気づき」と呼びます。
瞑想の経験者であればその「気づき」「気づく」という感覚を、経験的に理解できている人も多いかと思います。
でも初心者からすると「気づき」という言葉はつかみ所のない感覚です。というのも、この「気づき」という言葉の使れ方が、私たちの言語感覚からはやや遠いものだからです。
いわば、言葉の定義が通常の「気づき」と違う。
実はこの点を深く語っている記事はあまりありません(すくなくとも僕は見たことがありません)。瞑想上の「気づき」は「気づき」として、他の言葉に置き換えようという試みもないようです。
しかし小説家という言葉を扱う仕事を十年以上続けている身としては、この点についてずっと気になっています。正直なところ(直感的にわかりづらいよな)とも思っています。
なぜ分かりづらいかというと、日常的に使う「気づく」という言葉より、瞑想を語るときに使う「気づく」という言葉には多くの情報、多くの意味が含まれているからです。
瞑想を語る上で使われる「気づく」あるいはその名詞形の「気づき」とは、パーリ語のサティ(sati/ सति)のことであり、英語ではアウェアネス(awareness)、あるいはマインドフルネス(mindfulness)と言います。
はい、もうこの時点でウッっときますよね。どんどん複雑化していく説明に嫌気がさしますよね、分かります。でも簡略化して説明していくのでもうちょっとだけお付き合いください。
まずは、我らがWikipediaに何と書いてあるのかを見てみましょう。
おいおいおい、一部略しても分かりづれーじゃねーか!
と思うところですが、意味の中核部分だけを抜き出すと、
となります。これだけなら、まだ冷静になって理解に努めることができます。つまり、瞑想で語るときの「気づき」とは、このような意味になるわけです。
【気づき】= 対象に執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で注意を払うこと。
多い。多すぎる。情報量が過多すぎる。
三文字の言葉に、これだけの内容を詰め込もうとするなんて暴力的ですらある。まるで子供用サイズのお弁当箱に、相撲力士向けのお弁当の内容をむりやり詰め込もうとしているようなものです。外に漏れてる。漏れまくっている。「気づく」「気づき」という名前のお弁当箱には意味が入りきらずに、外側に漏れてしまっていて、受け手の私たちは味(意味)全体を把握しづらかったという訳です。
むしろ普段からこのような意味合いで「気づく」という言葉を使っているような人がいるとしたら、私たちはその人とまともな会話を交わせないような気すらします。
サティについて考える。
一方で、「サティ」という言葉が意味する、
については、これまでのこの連載で紹介してきた内容で、理解できるものです。
対象に:(アンカーに)
執着あるいは嫌悪などの価値判断を加えることなく、中立的な立場で:
(科学者のような客観的な視点で)注意を払うこと:
(観察すること)
つまりサティとは「アンカーを客観的に観察すること」というわけです。
さらに、サティには「特定の物事を心に(常に)留めておくことである。」という定義がなされていました。(常に)とあるので、次のように意訳することができるでしょう。
【サティ】=アンカーを客観的に観察する(しつづける)こと。
なるほど。
これはそもそも「瞑想」自体を意味しているじゃないか、とご理解できたかも知れません。そして、だからこそ「気づき」という言葉だけではイメージしづらかったわけです。そこに含まれている情報量が多すぎて、私たちが普段の文脈で使う「気づく」「気づき」からでは理解できないのです。
「気づく」のニュアンスも異なる
さらにいえば、私たちが日常で使っている「気づく」という言葉には、(意図せず)という受動的なニュアンスが含まれます。
「時計が狂っていることに気づく」
「花が咲いたことに気づく」
「メールが来ていないことに気づく」
このどれもが「積極的に気づこうとして、気づいた」わけではありません。逆にどこか(偶然に)という受動的なニュアンスを私たちは受け取ります。それは「気づく」という言葉に受動的な成分が多く含まれているからです。
しかし、瞑想の文脈で語られる「気づく」には、「自ら気づいていく」という能動的な態度が含まれています。それは瞑想中の「気づく」には「観察する」という能動的な意味が含まれていることからも明白です。
偶然、気づかされる。
自分から、気づいていく。
「気づく」という言葉自体は中性的なはずです。そのため、ここまでのはっきりした違いはありません。しかし瞑想の文脈で使われるときの能動的なニュアンスに、私たちは戸惑うわけです。
「瞑想中、雑念に気が取られたら、そのことに気づいて……」
どういうこと? となるのもわかります。
結論:「気づく」とはなにか?
「気づく」「気づき」とは、パーリ語でサティのことであり、サティとはものすごく簡単に言ってしまえば「アンカーを客観的に観察する(しつづける)こと」という考察まで進めてきました。
でもこの2つををダイレクトに、
気づく→ 客観的に観察すること
気づき→ 客観的に観察したこと
とすると、違和感を感じます。あるいは、
気づく →(気がついて)客観的に観察すること
だから「気づく」なのだ、と説明する方もいらっしゃるでしょう。でもそれなら「気がついて、客観的に観察する」とすべて説明しないと、やはり受け手には伝わらないわけです。それが言葉というものです。
しかし、「気がついて、客観的に観察する」ことをひと言で表現できる(すくなくともイメージさせる)日本語があります。
【自覚する】です。
デジタル大辞泉(小学館)によれば
とあります。
【1】の「〜はっきり知ること」は、まさにサティの言葉の意味を体現するものです。
しかも【2】のとおりこの言葉は仏教由来の言葉であり「自ら」「覚る」という意味でもあります。仏陀は悟るための方法として瞑想を実践し弟子にも説いていたことを考えれば、サティの意味を体現できるのは当然と言えば当然です。
「瞑想中、雑念に気が取られていたら、そのことに気づいて……」
「瞑想中、雑念に気が取られていたら、そのことを自覚して……」
「呼吸に気づき続ける」
「呼吸を自覚し続ける」
言葉を置き換えたときにも違和感なく通じ、その状態も曖昧な部分がぐっと減り、初心者の方でも理解しやすくなったかと思います。
ではそもそもなぜサティが「自覚する」と訳されなかったのか、ということについて言えば、おそらく自覚が仏教語であったことが理由かと思われます。自覚は自覚で、仏教上の文脈ではまた異なる解釈を纏うため、瞑想を語るうえで自覚という言葉を使うと意味の混同が起きることを懸念されたのでしょう。
とはいえ「自覚」はもう一般的な日本語として広く使われています。
「自覚症状」などは「自分で気づいて、客観的に観察できる症状」として意味が通じるほどです。仏教と向かい合って専門的に学んでいこうというのでないならば、仏教文脈上の「自覚」との解釈の差は、それほど気にする必要はないかと思います。
「気づき」は一度理解してしまえば、すっと体に入ってくる感覚です。「わかりにくいからどんどん言葉を置き換えていこう!」とまでは思いません。
ただ、もし「気づき」「気づく」という感覚が掴めない方がいらっしゃったら、「自覚」「自覚する」という言葉に置き換えて理解してみると、把握しやすくなるかと思うので、憶えておいて頂けたらといます。
では次回は瞑想初心者が必ず一度は壁にあたって額から血を流す(流しません)、「雑念を手放す」ステップの解説をしていきます。
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