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躁鬱ブルース【小説第2編】

お姉さんがようやく病棟に姿を現したのは昼過ぎだった。メイクは厚めにして、服装もきちんとしていた。おしゃれなブラウスに膝まで届く黒いスカート。肩には、空色の鞄を抱えていた。弟が入院したことを、重く受け止めたように、形式的な雰囲気で葵は病院に向かってきたそうだ。

病棟はセキュリティーが厳しくて、Visitorバッジを見えやすく着けさせられた。手が空いてたナース一人が部屋まで案内してくれた。葵は用心深い動き方でゆっくり弟がいるルームまで歩いた。部屋の中には、弟の顕影が回診のときと同じようにベッドの上に座っていた。顕影も一応、シャワーを浴びて新しいシャツを着て、客を迎うみたいに身だしなみを整えていた。しかし、お姉さんが入ると挨拶もしなくて、瞑っているように座っていた。葵の方が先に沈黙を破った。

「アキカが好きそうな本を持ってきたからね。あげる」

鞄から一冊の本を取り出して、テーブルに置いた。それ以外、鞄の中からお菓子やポテチなど食品を取り出した。子どものときよく食べてたブランド品ばかりだと顕影は気付いた。葵は気に掛けて買い物したみたいだ。親切なお姉さんだ。それにしても、会話は自然に進まない。葵が椅子に座って、気まずい感じで話した。

「母さんには何も言ってないからね。アキカが頼んだ通り」

「すまない。全部…」

また、沈黙が部屋に侵入した。姉弟というのに、何を言えばいいか分からない状態がつづく。いつからこんな距離が離れたんだと、二人とも思った。何が変わったのだろう。

実は、数年前からこの姉弟の間には連絡が乏しいようになった。この訪問は久しぶりの再会だった。顕影は近年の変化に振り返った。結婚してから、弟と付き合う暇がないみたいに、葵からのメール返信は数日待たせる感じだった。それに苛々して、顕影はメール送信をしばらく止めていた。病院からの電話は数か月ぶりの連絡だった。

子どものときはやや親しかった。年齢的には二歳しか違いなくて、いつでも一緒に遊んでいた。二人とも中学生だったとき、葵がうつ病にかかったこともあった。葵はいつも暗い顔で、げっそり痩せて、よく部屋の中でひっそりと泣いてた。一番酷い時期には、顕影だけが信頼できて、友達をみんな失くしたと嘆くころは顕影が慰めてあげた。葵はどんなにこの苦しかったエピソードを忘れたかったが、弟の優しさだけは一生心に留めたかった。そして、昔からずっと恩返しをしたかった。そこで、今日という日にお姉さんの出番がきた。

それにしても、葵はどうしても病院に行くのは嫌な気持ちだった。単純に病院が嫌いなタイプだったから。ずっとそうだった。うつ病を早く回復できたのも、病院に行きたくなくいということを動機として、薬とセラピストと共に心の病と努力の限りで戦った。うつが治ったのは良いが、病院嫌いのコンプレックスは残っていた。

うつ病を乗り越えたあと、葵は何もなかったように生きていて、入学やら就職やら普通の生活を手に入れた。そして、普通に優しい男と相手になって、結婚することになった。つまらないぐらいな暮らし方をしていたら、一週間前に弟が病院から電話してきた。

「いや、別に命に危険とかそういうことじゃなくて。ただ、退屈しているだけで電話した…」

顕影はそう言ってたが、葵はきっと弟はカッコつけているに違いないと思って、訪問すると自分から言った。

「そこまでしなくても。病院って遠い場所だし…」

この抵抗も本気ではないと推測して、葵は来ると言い立てた。

「お母さんに何も言ってないんだ。心配かけさせたくないから、内緒にして。まず、今は内緒で。退院したら直接ぜんぶ伝えにいくから。今はちょっと、知られたらこっちが困る」

慌てて、顕影がそう話した。

明星姉弟のお母さんは、ありふれた優しい母親だったが、顕影が大人になってから関係が複雑化していた。子供のとき、お母さんは優しく扱って、ちゃんとお世話してくれた。ただし、ノイローゼ気味でもあった。母親は自由主義で、子供をほっといて自由を与えるようにしたいという子育て理念を持っていた。それ故に、おせっかいしないようにしてた。葵がうつ病だったときも、お母さんは自分の役割を最小にして、大幅は顕影に任していた。

顕影としては、お母さんがもっと励ましてくれればよかったと、少しはムカついているところがあった。自分がたまたま落ち込んだときも、お母さんは力を貸してくれないんだと思い込み、母親には頼らないようにしていた。そして、学生時代を皮切り、独り暮らしをはじめたごろは、母親という存在がいないと同じぐらい、お母さんはお母さんでも親という風にはあまり考えなかった。それがそれでも、まだ深い愛情はあった。言えないことがいっぱいあっても、お母さんに感謝することばかりだった。ただし、この入院したというころでは助けを求める勇気は顕影にはなかった。

「そして、これからどうするの?」

葵はため息をついて、そう訊いた。

顕影はじっくり考えてから言った。

「今はあまり計画立てなくていいと、ケースワーカーから言われた。まず、喜怒哀楽が安定してから退院を目指せって」

「さっき、ケースワーカーさんと会ったよ。医師とも。双極性障害って何?みたいに聞いたら、ちょっと説明してくれた。躁鬱病ってやつね。それが、アキカだと信じられないけど」

「俺も始めは疑った。でも、振り返ってみて、論理的に考えてみたら、やっぱりそうじゃないかという気持ちになった」

双極性障害は生まれつきの病だ。そして、遺伝性の疾患だと言われてる。だから、親がこの同じ病気を持ってる可能性が高いということだ。お母さんは多分そうではないと姉弟は結論した。しかし、お父さんの方は疑わしい。
顕影はお父さんとは連絡取ってない。お父さん、九割は優しくて親切な父だったが、残りの一割りは大目に見れない。

お父さん。

顕影が万引きして捕まえられた事件があった。その時のお父さんは冷静で、警察官に頭下げて、お詫び申し上げた。そして、お家に帰ってからも、何も言わず普通に夕方を過ごした。顕影はお父さんに叱られると思ってたが、予想外にお父さんは何も言わなかった。いつくるのかと一週間は期待してた。しかし、お父さんはそのあとずっと万引きのことに対して一言も言わず、事件がなかったと同じに生活をつづけた。

お父さんはどんな考えをしていたか、未だに不思議と顕影は思っていた。悪いことした子供を叱らないとはどういう親なのだ。本心、顕影は叱ってほしかった。悪の道によっていく子供を、正しい方向に直すのが、親の役割ではなかったか。しかも、お父さんからは何も言わないなんて。

それに控えて、父はたまには怒るときがあった。これは普通に怒るというのと違って、極端な怒り方だった。怖かった。怒るときは、いきなり怒鳴ったり、ものを投げたりした、乱暴を振る舞えた。子供を叱るというものではなく、突然に本格的な理由がなくても、なぜ怒ってるのかと思ったら暴言がはじまり、子供たちはお父さんの怒りが燃え消えるのを待つ他にはなにもできなかった。父は自分をコントロールできてない感じだった。暴言がはじまると、まるっきり別人みたいで、誰が話してるのも分からなくなった。まるで、ジキルとハイドのようだった。普通のお父さんはどこにいってしまった。

それで、子供二人はお父さんを恐るようになってきた。父がいつ乱暴を振るうか分からなくて、なるべく距離を置くようにした。それは全て無意識な行動で、父を憎んでいるよりも、本能的に自分の身を守るようにそうしていた。その一方で、両親がほかの理由で離婚したすえに、親父とは連絡しなくなった。

離婚すると報告されたのは、顕影が中学三年生の時だった。同じ年に、スティーブンソン著の小説を読んだ。小説の中の世界では、ハイドが殺されたらジキルも死ぬということだった。顕影は、やさしいお父さんはまだ好きだった。大人になってからももっと親密になりたかった。しかし、怖いお父さんと手を切ったら、そのやさしい父も一緒に消えた。

「なにかできないの?」

葵は訊いた。

「まず、医師の命令に従って、薬を飲み続ける。それ以外は休むしかない。そう医師から言われた。何週間か何か月かは明らかに言われなかったけど、まずじっとして脳が落ち着くまで待つって。自分もそう思ってたんだ。この状態で何かやろうとしても、どうにもならない。いや、弱々しい態度だけど、それぐらいの力しかないんだ」

顕影は大分時間が空いてから発言した。

葵は目をそらして、こう話した。

「うん。じゃあ、そういうことで。ゆっくりしてね。何か必要だったら、いつでも連絡して」



(つづく)



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