シェア
弓月雪夜
2021年12月3日 15:16
これ、宝箱だったんです。 子どもって、一度はそういうものを持ちたがるでしょう? お菓子の箱とか、ブリキの缶とか。こっそり取っておいて、いっとう大切なものを、そっとしまう。 でも、ある日突然、いらなくなる。 たからものが変わってしまったからだと思っているんですけれど。 この鍵もそう。たからものでした。 おかしいでしょう、忘れていたんですよ。でも、憶えてる。記憶って、不思議ですね。
2021年12月3日 15:21
第1話「01 鍵」 ここです。昔、住んでいたところ。 よく脱走をしていました。ぬかりなかったんです。 宅配の人が来るでしょう、玄関を開ける。そうしたらもう、一発です。 するりと足元を毛並みがすべったかと思うと、あの子、全速力で共用廊下を走って非常階段を駆け上がって、人間じゃとうてい通れない柵をすりぬけて、屋上で、ごろり。優雅なものでしょう? ケージには入れてませんでした。だって、あ
2021年12月3日 15:44
第1話「01 鍵」前話「02 屋上」 いつからこんなに盛り上がるようになったんでしょうね。 最初は不気味としか思えなかったんですけれど、見慣れればかわいいものですね、ジャック・オー・ランタン? 日本で言うお盆のようなものなんだって知ったのは、実はつい最近なんです。だって、オレンジと黒の色彩がめまぐるしく踊るんですよ、まさか死者を迎えているとは思わないでしょう? でも、そうですね。
2021年12月3日 15:49
第1話「01 鍵」前話「03 かぼちゃ」 天国のポストって、どこにあると思いますか。昔読んだ本に書いてあったんですけれど……。 でも、手紙の送り方だけは覚えているんです。 そうです、とどくんです、死者に、手紙が。 だから真似をしました。 一生懸命書いた記憶があります。 どれだけ好きだったか、これからも好きだってことを。絶対に忘れないし、これから何と過ごそうとも、いつまでもあ
2021年12月3日 15:54
第1話「01 鍵」前話「04 紙飛行機」 爪先から冷えていく、そんな夜でした。 窓の外では、あかがね色の月が傾いていました。ベッドに入って本を読んでいると、風が窓ガラスをたたく音が聞こえたんです。 そうです、古今和歌集にもありますね。秋来ぬと目にはさやかに見えねども 風の音にぞおどろかれぬる 窓辺を見たときには、すでに宝箱は戻ってきていました。いつかの日、いらなくなった、あの宝
2021年12月5日 16:45
第1話「01 鍵」前話「05 秋灯」 ふんふんと鼻を近づけてみる。嗅いだことのない匂いがして、ちょんと前脚でさわってみた。 まるまるとした形をしているのに、あまり転がらなかった。残念。 ちょっと強めにパンチしてみる。ころん、と一回転しただけで、その後はちっとも動かなかった。 仕方がないので、ふて寝する。ふかふかの落ち葉の上にごろりと横になれば、空から赤い葉と黄色い葉が降ってきた。
2021年12月5日 16:50
第1話「01 鍵」前話「06 どんぐり」 十五億回ですよ。 生まれる前に聞こえた声が、今でもときどき聞こえてくる。 風にひげをそよがせて、目を閉じる。 このところ、階段を駆け上がるスピードが、ほんのすこしだけ落ちた。あの子はいつも追いつけないので気づいていないと思うけど、そろそろ脱走できなくなるかもしれない。 ああ、いやだなあ、できたことができなくなるなんて、つまらない。それ
2021年12月5日 16:54
第1話「01 鍵」前話「07 引き潮」 さんざん抵抗したけれど、狭いかごの中に入れられた。これに入れられると、次に出されるときは、だいたいとんでもない場所になっている。めったに見ないおじいさんの広い家だとか(なんと玄関の外じゃなくて家の中に階段がある!)くさい匂いのする、いやな台の上だとか。 今回は、いやな台の上だった。白衣を着たおじさんに、おしりに何か入れられて、じっとしてたら「熱は
2021年12月5日 16:59
第1話「01 鍵」前話「08 金木犀」 あの子の布団はあたたかい。折りたたまれた掛け布団の間にもぐりこんで寝ていると、いつもあの子はちょっかいを出してきた。 でも、なんでだろう、今日はちょっと、寒い。 そろりそろりと布団を抜け出せば、家の中には誰もいなかった。毎日のことなので気にしない。フローリングが冷たかった。 もう脱走はできなくなっていた。誰か来ても、もう体が玄関まで飛んで
2021年12月5日 17:03
第1話「01 鍵」前話「09 神隠し」 ああ、今夜だな。そう思った。もう、どうしたらいいかは、わかっていた。 隠れたら必ず見つけられてしまうし、その後はあの子にめちゃくちゃ怒られるから、とにかくじっとしていた。ときどき掛け布団の間を覗きこまれては、大好きだよ、と額を撫でられる。 もうあんまり目が開けられない。視界は水の中にいるみたいにぼやけていて、もっとちゃんと見てからお別れしたいと
2021年12月8日 18:41
第1話「01 鍵」前話「10 水中花」 始まりがいつだったか、覚えていないんです。 徐々にだったかもしれないし、ある日急にだったかもしれません。 あの子が嘔吐をくりかえすようになりました。 最初は、またがっついて食べるからだ、と笑っていたんですが、回数が増えてきて、なんだかこれはおかしい、と思うようになったんです。 でも、おかしいと思いながらも、心のどこかでは、十年以上生きたん
2021年12月8日 18:46
第1話「01 鍵」前話「11 からりと」 獣医さんは、腎臓病になるのは家猫の宿命だと言いました。 でも、病気なのだからきっと予兆があったはずで、それに気づけなかった落ち度があると思いました。それでももう、どんなに後悔しても、壊れた臓器の機能は回復しません。 自転車の前かごにケージをのせて、坂道をとぼとぼと下っていきました。自分以外の命って、こういうことなんだな、と思いました。 ど
2021年12月8日 18:50
第1話「01 鍵」前話「12 坂道」 その日は自転車を押して帰りました。あの子は早く帰って、ケージから出してほしかったんでしょうけれど。 ときどき立ち止まって、ケージの上蓋を開けるんです。だってこれからきっと、家の中ですら歩くことができなくなっていくんですから。ちょっとでも、外を憶えていてほしくて。 おかしいでしょう、あんなに元気なときは、外になんか行ってほしくなかったのに。
2021年12月8日 18:54
第1話「01 鍵」前話「13 うろこ雲」 十五億回だと言われています。 先に生まれようと、後に生まれようと、生物は十五億回分の鼓動を生きる。命は平等で、だから死も平等。 でも、ほんとうにそうなんでしょうか。 裏腹だと思いませんか。 ほんとうに平等なら、どうして老いるまでの時間は平等ではなかったんでしょう? 後から生まれて先に死ぬこと、おいて逝くこと、おいて逝かれること。