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「ある」という事実

どうあがいても前に進めないときって、ある。
気持ちが足かせになって、にっちもさっちもいかない状況。
頭では「前に進まないと、成長しないと!」と思っているのに、本能さんが鼻をほじりながら「いや、もう別にいいよ。ここに留まろうよ」って。
(「留まろう」どころか、悪い顔で「後退しようぜ!」って言ってくるときもある。そのときは速やかに頭さんに従う)

そんなときは本を読んでも内容が頭に入ってこないし、同じ曲を何度もぼーっと聞いたり、ただただ何もしないでぼーっとしたりする。
昔はそういう時間を無駄だと思ってたけど、最近は「まあ、しょうがないかな」と思えるようになってきた。
でもあくまで「しょうがない」であって、「必要な時間」だとは全く思わないんだけど。自分が成長しない、しょうもないことに心を捕らわれてる時間なんて、どう考えてもない方がいい。
でも、ない方がいいと言っても、あるものはあるんだから仕方がない。
どう頑張ったって頑張れないんだから。頑張っても頑張れなかったら、それはもう頑張れないでしょう。
そして、その頑張れないという事実がどうしても「ある」んだからしょうがない。
私の頬にそばかすが「あり」、私の身体に腰痛が「ある」のと同じように。この時間も、私が生まれて生きていくうえで、どうしても「ある」時間なんだな、と思えるようになってきたのだ。  

これに関しては、自分の存在そのものについても同じことが言えると思う。
「なんで自分が生まれてきたんだろう」とか「生まれてこないほうがよかった」と考えることがある。
だけど今これを考えているのは、自分が「ある」からで、自分が「ない」世界線では「生まれてこないほうがよかった」と考える主体そのものがいなかったんだと思うと、「生まれてこないほうがいい」「生まれてくるほうがいい」という選択肢自体が生まれてこないわけだから…
あかん、頭が痛くなってくる(笑)

それでも中には、「しょうがなく」生まれてきただけで、生まれてくる「必要」はやっぱりなかったじゃないか、と考えてしまう人もいるかもしれない。
だけど、これもまた同じように、「ある」ものは「ある」んだから、「必要かどうか」は関係ないのだ。
生まれてきてしまった人が「必要だったか、そうじゃなかったか」を考えることは、前述したとおり、どう考えてもナンセンスだ。
(まあこの「ナンセンスな思考」も現に「してしまう」からしょうがないんだろうけど)
とにかく、この世界は「ある」ものでできている。
それが今現在「ある」ことについての「賛否」を述べることなんて、誰にもできないんだ。
そう考えたら、「前に進む時間」と同様に「前に進めない時間」も「前に進まない」時間も、あっていいじゃない。
生産性が低くても、無駄だと感じても、今現に、ここに、確実に「ある」のだから。
それも私を形作る、大切な欠片なんだから。

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