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共病記念日。


毎月迎える女の子の大切な日。

何度、「男に生まれたかった」と思ったかわからないほどにその周期は私の人生を大きく振り回してきた。

突然の下腹部の激痛。青ざめる顔。重たい体。襲いかかる睡魔に、湧き上がる倦怠感。小さなことでイライラしたり、突然涙が溢れたり。

それが人よりもちょっとだけ深刻であることはわかっていたが、当時19歳の私はまさか病気だとは思ってもいなかった。

だってほら、人によって症状の重度って変わってくるっていうでしょ?

それに生理痛って理由で学校やバイトを休むのって、なんとなくズル休みしてるみたいで嫌で嫌で。

そんないらないプライドと異常なまでの強がりで見て見ぬ振りをして耐えていた。貧血で倒れることも少なくなかった。

目の前が真っ白になる感覚は今でも鮮明に思い出せる。全身から体温が奪われ血の気が引いて指先が冷えて痺れる。

このまま魂だけ浮いて戻ってこなくなるんじゃないかって思った直後には記憶がなくなっていて。目が醒めると病院や駅の救急室、それに保健室のベットの上。

「ああ、またやってしまった...」

なんとも言えぬ喪失感に襲われるこの瞬間が大嫌いで、私は私がどんどん嫌いになっていった。


何か解決方法があるんじゃないかと、インターネットで調べ明かす連夜。女性ホルモンを摂取できる大豆製品をたくさん摂ったり、お腹を温めたり、サプリをとったり...

それでもいっこうに回復の兆しが見られない19歳の夏。私は意を決して産婦人科に足を踏み入れた。

検査は、問診から始まった。月経の痛みや初経、周期などこと細かく記入する。こんなに自分の体に真剣に向き合う機会なんて滅多にないから、たまには悪くない。

次に内診。お産台に座ると自動的に横ムキになり股を開く状態にさせられる。これがなんとも恥ずかしい。

女医さんは、「体の力を抜いてね〜」と言いながら躊躇なく膣内に指を入れてくる。「ええ!!ちょっ、先生!!!」と叫びそうになるのを必死にこらえ、羞恥心を捨てることに精一杯。

最後は超音波検査。これこそテレビでよく見る光景だ。まさか妊娠以外でこの機械を使うことになるなんて思っても見なかった。


診察の結果は『子宮内膜症』。


頭の上にはてながいくつも浮かんで、弾けて、消えて、また浮かぶ。

「しきゅう、ないまく、しょう...?」

聞きなれない病名。だが子宮の病気であることだけははっきりわかった。その瞬間、嫌な予感がした。

「子宮内膜症というのは本来、子宮の内側にできる組織と似た組織が子宮以外の場所にできてしまう病気です。」

「内側にできる組織が他にできる?」

「そう。原因ははっきりわかってはいませんが、生まれつきのものか過度なストレスから発症すると言われていますね。」

「原因がわからない...。それは体にどんな影響を与えるんですか?...子供は!?」

不妊という不吉な言葉が私の脳裏をよぎる。

「生理が毎月来てるなら、大丈夫です。子供は産めます。」

「そうなんですね...よかった」

それを聞けただけで安心した。だって、好きな人との子供は絶対欲しい。高校生の頃からその夢は絶対変わらない。

「ただ...」

女医さんが言葉を挟む。

(あ、ドラマとかでよくあるやつだ...)

「ただ?」

昔から、深刻な場面になると他人事のように捉えてしまう癖。多分一種の現実逃避を瞬時にしているんだと思う。

不妊になりやすかったり、子宮の病気にかかりやすくなったりします。」

目の前のお医者さんは淡々と話す。

ついに聞きたくなかった言葉がその筋のプロの口から放たれた。その言葉は鋭い矢のように体を前から後ろに、後ろから前に、右から左に...。四方八方から私をいたぶりつけた。

気づかなきゃよかった。聞かなければよかった。知りたくなかった。

心臓が息を吹き返したように脈を打つのがわかった。

「治す方法はあるんですか?」

「完治は難しいですね。しかし症状を緩和させる方法としては鎮痛剤や低用量ピル、ジエノゲスト、EP配合薬などがあります。」

「それはこの先ずっと飲み続けなければならないのですか?」

「症状にもよりますが、重い方は飲み続けてますね。」

「そうですか...」

「とりあえず今日のところは、鎮痛剤と黄体ホルモン合剤もあわせて処方するので様子をみてください。定期的に検診にも来て、症状がひどい場合はいつでもいいので足を運んでくださいね。」

「はい。」

淡々と話すお医者さんの言葉が、やけに冷たく心に触れた。

それもそうか、いちいち患者に感情移入してたら本人が精神的に病んでしまうだろう。


その日の夜。私は自分の持病を初めて認知し、理解した。

「さて、これからどうこの病気と共存していこうか」


19歳の夏。

専門学校二年生の私は大きな不安を抱えながら、就職活動という迫り来る人生最大の岐路を迎えようとしていた。













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