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城を囲む3砦の絶妙な配置!!:「桶狭間の戦い」の雌雄を決した地形とは?~其の二~【合戦場の地形&地質vol.1'-2】

その後の日本の歴史に大きな影響を与えた「桶狭間の戦い」織田信長今川義元の争いです。

今川義元は駿河(するが)・遠江(とおとうみ)・三河の三国を領する大大名。一方の織田信長は尾張国を平定したばかりで、まだ言うことを聞かない豪族も多く不安定な状態。

兵力は今川2万5000VS織田3000
兵力差で単純に考えたら、どう考えても織田に勝ち目はない戦でした。

前回記事はコチラ👇

位置関係を詳しく

桶狭間の戦いに関係する城や砦の位置を確認しましょう。

桶狭間山周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

桶狭間の戦い当日の朝型(午前3時頃)に、松平元康らが鷲津砦・丸根砦への攻撃を開始したという報を受け、信長は熱田神宮で軍勢を集め、先勝祈願をし、善照寺砦に入ります。

桶狭間山周辺の地形図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

拡大しました。
今度は国土地理院地形図で確認しましょう。
現在は建物がギッシリと並んでおり、道路や鉄道が縦横無尽に走っています。

桶狭間山周辺の地形図③:スーパー地形画像に筆者一部加筆

地形だけの表示だと、このような雰囲気です。
黄~緑で示される丘陵地は標高15~50mと決して高くはありませんが、小刻みに起伏のある地形です。

大高城は丘陵地の北西端部にあり、標高5m程度の沖積平野を挟んだ対岸の丘陵地には、鷲津砦・丸根砦が相対しています。
両砦は松平元康らの攻撃により壊滅し、大高城が安全になったと言うことで、今川義元が沓掛城から大高城へ向かいます。

一方の信長は、鳴海城を囲む3砦のうち、真ん中の善照寺砦に入りました。

鳴海城周辺の地形図①:スーパー地形画像に筆者一部加筆

鳴海城と、それを囲む3砦です。
鳴海城の範囲はウィキペディアの記載から概ねの想定で描いています。

なかなか絶妙な配置だと思いませんか?
鳴海城とそれぞれの砦との距離はほぼ同じですが、善照寺砦は同じ山の両側で移動しやすく、両者とも攻めやすい。
一方、丹下砦が鳴海城を攻めるには平地へ降り、鳴海城の山へ登る必要があり、中嶋砦の場合は川を渡り、山を登る必要がある。

つまり鳴海城サイドとしては、守るにしても攻めるにしても善照寺砦に注力することになります。
しかし今川側(鳴海城)が善照寺砦攻めに力を入れ過ぎると、他の2砦から隙を突かれそう。
う~ん、絶妙です。

そして、そのように"今川から注目される"善照寺砦の方に、ワザワザ信長が入ったのには、意味がありそうです。
もちろん、この時は鷲津砦・丸根砦が壊滅し、大高城からの今川軍が攻め上がってたでしょうから、単に劣勢だった砦に参戦したという可能性もありますが・・。

しかしこの後、桶狭間へ向かった事実から逆算して考えると、どうでしょう?

各部隊の動き(筆者の想定):スーパー地形画像に筆者一部加筆

当時の各部隊の動きを図にしてみました。
もちろん、正確な動きは分からないので想定です。

緑矢印が織田信長軍。
熱田神宮の南が当時は海だったことを考慮すると、まず東へ進んで低い台地を回り込んで善照寺砦へ進軍したと考えました。

そして対大高城の2砦が陥落したことで、今川義元軍(上図の赤矢印)は沓掛城から西へ進軍。沓掛城と大高城の位置関係や、まだ残っている織田の3砦を考慮すれば、概ねのルートは予想できそうです。

上図の桶狭間までのルートはウィキペディア「大高城へ向かって西へ進み、その後、進路を南に取った。」から予想しています。

また鷲津砦・丸根砦が壊滅したため、上図紫点線矢印のように、いつ大高城から今川軍が出撃してもおかしくない状況です。

桶狭間周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

もう少し拡大してみました。
やはり、これを見ると今川義元は負けるべくして負けたのではなかろうか?と感じます。それはやはり、この地域の「地形」が原因です。

沓掛城から大高城へは大きく迂回でもしない限り、この丘陵地を通る必要があり、ほぼ真っすぐ西進することになります。
それに対し、この地形は不利になるのでは?と思うのです。

どういうことか?
次回へ続きます!!

あなたが織田信長や今川義元なら、どのルートを通るか?
地形図を眺めながら考えてみると面白いかもしれませんね。

次回記事はコチラ👇

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