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これじゃあ大軍は進みにくい!:「桶狭間の戦い」の雌雄を決した地形とは?~其の三~【合戦場の地形&地質vol.1'-3】

「桶狭間の戦い」を地形・地質的な観点で見ていくシリーズ。
前回は各軍の進軍ルートを想定してみました。

各部隊の動き(筆者の想定):スーパー地形画像に筆者一部加筆

この時の今川義元軍の動きに対する「地形」を見ると、それによって「隙」が生まれるのではないか?と感じます。
さて、どういうことでしょうか?

桶狭間周辺の地形を見る

では桶狭間周辺の地形を拡大してみましょう。

桶狭間周辺の地形図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

さあ、この地形を見てどう感じますか?

もし私が「沓掛城から大高城まで直進しろ」って言われたら、イヤです(笑)

沓掛城ー大高城間断面ライン:スーパー地形より

では、上図のような直線で、沓掛城と大高城の間の地形の断面を切ってみましょう!

沓掛城ー大高城 断面図:スーパー地形アプリの機能を用いて筆者作成

凹凸を分かりやすくするために縦の比率が50倍です。
右端が沓掛城、左端が大高城です。
アップダウンが激しいですよね。
標高こそ最大で50mですが、20~50mを何度も上り下りします。

今川軍の敗因①(筆者推定)

だったら迂回してアップダウンを避ければいいんじゃない?
って思うじゃないですか

沓掛城ー大高城の地形、ルート:スーパー地形アプリの機能を用いて筆者作成

しかし起伏を避けようとすると、上図のように南に大きく迂回せねばなりません。
標高20~50mの丘陵地(図では黄~緑色で図示)は両城間に広く分布していて、しかも小刻みな起伏が多く、大きな谷はあまり見られません。
上図では両城間に見られる大きめの谷を青点線で図示しましたが、3箇所しかなく、うまいこと大高城へ抜けられるルートはありません。
一番北の谷が一番通りやすいですが、この谷の出口には中嶋砦があるので、避けたと考えられます。

そのため、この丘陵地を進軍せざるを得ないわけですが、当時は幅の広い道路なんてありません。
ましてや丘陵地ですし、人間が1~2名並んで歩ける程度の山道を通ったと考えられます。仮に3~4列だったとしても、2万5千人では物凄い長蛇の列になるでしょうから、おそらく南北に隣接するいくつかの山道に分かれて進軍したでしょう。

加えて、アップダウンが激しい道中ですから、前後の距離は開き気味であったと想像できます。

つまり、いくら2万5千人いたとしても、ひとまとまりではなく、やや分散したかたちで進軍せざるを得なかったと考えられます。

これが今川軍敗因の1つ目だと思われます!

今川軍の敗因②(筆者推定)

そして桶狭間のあたりでは、もう1つの地形的特徴があります。
下の地形図を見てみましょう。

桶狭間周辺地形図:スーパー地形より

赤丸が桶狭間古戦場伝説地です。
これを見て、何かに気づきませんか?

そう、池が多いですよね。

桶狭間周辺地形図②:今昔マップより

上の地形図は、時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」((C)谷 謙二)により作成したものです。
右が現在で、左が1888~1898年のもの。
よ~く見比べてみると、昔の方が池が多いです。
現在は市街地になっていますので、埋め立てられたのでしょう。

昔と言っても明治時代ですから、多少の土地造成は行われていたでしょうから、戦国時代はもっと池が多かった可能性があります。

また池が多いと言うことは、その水源が必要ですから、小川や湧水が多かったということになり、そうなると湿地も多かったと考えられます。

そのような「ぬかるみ」に足を取られたら当然、思うように動けません。
逆に考えれば、池や湿地に敵を追い込めば、数で不利でも勝てる可能性が一気に高まります。

とは言っても、上手いこと他人の行動をコントロールなんてできません。
もし戦場でコントロールできるとすれば混乱させた場合でしょうが「どうやって混乱させるか?」が問題です。

でも桶狭間周辺の「もう1つの地形的特徴」を利用すれば、混乱させられる可能性があります!

次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。

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