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「桶狭間の戦い」の雌雄を決した地形とは?~其の一~:合戦の概要【合戦場の地形&地質vol.1'-1】

はじめに

長い日本の歴史の中では、数々の「合戦」がありました。
例えば、源平合戦の1つである「壇ノ浦の戦い」や、"天下分け目の決戦"として有名な「関ヶ原の戦い」等が思い浮かびます。

もし関ヶ原の戦いで西軍が勝っていれば、260年続いた江戸時代は無かったかもしれない・・などと考えるとワクワクしてくるのはモチロンですが、どのような要因で勝敗が決したのか?に思いを巡らせるのも楽しいものです。

「天の時、地の利、人の和」という言葉のように、合戦の勝敗を決する要素は多種多様で複雑です。
その中でも、私の得意分野である「地形・地質」的な観点から、合戦について考えてみるのも面白いかも?

ということで、実はこのnote「ゆるく楽しむ」の初期段階で、合戦を地形・地質の視点で見る「合戦場の地形&地質」シリーズを書いていました。

当時はNHK大河ドラマ「麒麟がくる」に影響され、桶狭間の戦いと地形・地質の関係について考察した記事を書きました。
思いのままに書きなぐり、全4話になっています(笑)

今回は2023年1月から新たに始まったNHK大河ドラマ「どうする家康」の第一話で早速「桶狭間の戦い」が描かれましたし(と言っても家康視点なので今川義元の「敗北」を知らされただけですが)、リニューアルしてお届けしたいと思います。


桶狭間の戦いの概要

参考サイト

桶狭間の戦いなど歴史上のできごとや人物については、新たな研究成果があれば話は変わってしまうかも知れません。ここでは以下のサイトを参考にしています。

合戦までの流れ

合戦までの流れはざっとこんな感じ。

・今川家の対織田家最前線の鳴海城(なるみじょう)を今川家臣団随一の名将である岡部元信隊が守っているものの、織田軍の5つの砦(丹下、善照寺、中嶋、丸根、鷲津)に囲まれている。

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鳴海城の南の大高城(おおたかじょう)には今川家臣の鵜殿長照隊がいるが砦が邪魔で動けない。そこで松平元康(徳川家康)が先鋒として大高城に兵糧を運び、砦を攻撃。

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松平元康らによる砦攻撃の報告を受けた信長は清州城(きよすじょう)を出て熱田神宮(あつたじんぐう)で戦勝祈願後、善照寺砦へ。

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今川義元軍本体は沓掛城(くつかけじょう)に待機し、砦攻撃の戦況を見ながら大高城へ移動。

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・その移動の途中に桶狭間山(おけはざまやま)で小休止していたところに善照寺砦から出撃した織田軍が攻撃を仕掛け、今川義元が討ち取られる。

位置関係

城・砦の位置を確認!

「桶狭間の戦い」を知る上でポイントとなる地点、は鳴海城・大高城・沓掛城・桶狭間山・清州城・熱田神宮・5つの砦ですね。それぞれの位置関係は下図の通りです。赤丸が城、青丸が砦、×が合戦場です。

スーパー地形(カシミール3D)より抜粋した画像をもとに筆者作成。
なおカシミール3Dは元データとして国土地理院の「電子国土」を使っているそうです(出典:国土地理院ウェブサイト
※トップ画像や以下の地形・地図画像すべて引用もとは同じです。

今の地図も重ねてみると道路が多く密集しており、都会ですよね。地元の人たちであれば、これを見れば概ねの位置を想像できるかもしれません。

"地形だけ"で見ると?

これらの位置関係は"地形だけ"で見ると、また違った印象を受けます。

城・砦等の位置関係:スーパー地形画像に筆者一部加筆

どうでしょうか?

私がこれを見て真っ先に思ったのは、織田VS今川の最前線が、見事に地形の境界部だったことです。
灰色~薄紫色の部分は標高が0~10mくらいの、いわゆる沖積平野です。
沖積平野とは、約1万年前より新しい海や河川の堆積物が溜まってできた平野で、地層はまだ固まっていなくて軟弱な土地です。
加えて周囲に比べて標高が低くて河川水が流入しているため、洪水を制御できさえすれば、水田に適した土地になります。

つまり織田家にとって重要な穀倉地帯であり、そこに隣接した低山地(標高10~100m:黄色~緑色)に建てられた鳴海城、大高城に敵がいるのは、まさに「喉元に刀を突き付けられたようなもの」だと、この図を見るだけで感じるのではないでしょうか?

まさに「織田家の存亡を賭けた戦い」が始まろうとしています!

次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。


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