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感動の賞味期限

平野紗季子さんの「生まれた時からアルデンテ」という本が好きで、本屋でジャケ買い(表紙買い?)して以来、折にふれて読み返している。

ほとんどの言葉に驚いたり納得したりしながらページをめくるのだけど、何度読んでも同意しかねる箇所が、1つだけある。


アンディ・ウォーホルの絵は見れるし
ビートルズの音楽は聴けるけど
50年前のスパゲティを食べることはできない。
       ーー“貪欲な人たち”『生まれた時からアルデンテ』

👆ここ。

「アンディ・ウォーホルの絵は、見れる。」うん、見れる。

「50年前のスパゲティは食べることができない。」うん、食べられない。

「ビートルズの音楽は聴ける・・・」

・・・聴ける?

私は、聴けないと思ってる。

いや、この本の言いたいことが「ビートルズの音源は今もそのまま残ってる」って意味なことは百も承知だ。ただその上で、屁理屈だよなとわかりつつも、やっぱり思ってしまうのだ。私(の世代)には、ビートルズの曲は聴けないんだよなと。

91年生まれの私にとって、ビートルズは親世代の音楽だ。物心ついた時点で、もう彼らは過去であり伝説だった。好きになったのは大学に入ってからだったから、長らく彼らの音楽は「小学校のときに意味がわからないまま歌わされた洋楽」のイメージしかなかった。ビートルズの曲って超かっこいいな!?と思ったときには既にジョンレノンが死んでいたどころではなく、彼の死についての映画ですらちょっと古びてる、そのくらいの時間が流れていた。

そんな私は、世代が上のファンと話しているとつくづく思う。リアルタイムで聴いていた人には、私には「知識」として得るしかない情報が「肌感覚」で刻まれている。当時のことを、想像力を駆使して感じ取ろうとするのももちろん楽しい、楽しいけれど、少し寂しい。自分の人生の流れとビートルズの活躍とが重なっていた人たちのことが、羨ましい。

音楽も、本も、映画も、情報は残せる。消えてしまうことはない。

だけど、そのときの熱狂や、お小遣いを握りしめてレコードを買いに行く気持ちや、友達と語り合った興奮なんかは、その瞬間に生きている人にしか味わえない特権だ。

ビートルズが現役だった時代に時計を戻すことはできないけど、この悔しい気持ちはひっくり返せば「今」を楽しむ糧になる。いまの私たちが肌感覚で楽しめるものは、いまのうちに大切にしておきたいよな。それがたとえ、100年先も残る古典でなくとも。私たちの好きなものならば胸をはって。

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