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思考をノートに記録してみたので:思考は綴るより速い


はじめは思考ノートじゃなかった

だいたい2ヶ月くらいの間、常にノートを手元に置いて生活してみた。
当初の目的は、とある書籍で紹介されていたワークを実践すること。
感情を書き出して、自ら共感し、自分を包み込むように受け入れるというような内容だったと思う。

あれが嫌だった、これが嬉しかった、などなど、日々生まれるほんの小さな感情の動きから、
もうずっと前の、心にしこりを残すような出来事やそのときの気持ちなんかを、思いつくままバァァァと書き留めた。

このフェーズは数日続いたのち、徐々に鳴りを潜めていく。
飽きたのではない。私の癖が出ただけ。
”感情”を書き出すワークなのに、”考察”をずーっと書き続けてしまうのだ。

何が起きて、どう感じて、何をしたのか。なぜそう感じたのか。(たいていイベントは相手ありきなので)相手は何を思っていたのだろうか。相手は何をしたのか。それを私はどう思ったのか。以前のイベントを鑑みると…
こうした具合に。

1週間立たないうちに、私のノートは「なんでも書いてOKだよ」ノートに進化してしまい、学生時代の授業ノートをはるかに凌ぐスピードでページを消費していった。

思考を文字にするということ

なんせ、1日に沸き起こる思考のうち意識できるものの多くを綴っているわけなので、慣れないうちはもう大変だった。
それでも、人は日に何万回と思考するそうなので、書き留められたのはほんの一部なんだろうな。

ワークでは、開始から1ヶ月後に読み返すようになっていたけれど、1ヶ月経つ前にその気力はしぼんでしまった。
私はたいそうな悪筆で、文字の角という角を省略するものだから、自分でも読むのに苦労する。しかも、お気に入りのノートだから大事に使おうなどと考えたばかりに、字がすごく小さい。
読み返すのがストレスで、数行読んだら眠たくなってしまうのである。

実は書く方もかなりのストレスだったりする。
奔放過ぎる字を生み出す己を見つめるのも嫌だし、インクの補充も面倒だし、
何より手が追いつかない!
書くのも遅ければ、トピック1つにかける時間も長い。
そのせいで「あれ?さっき何を思いついたっけ?」が多発した。

1つのトピックを書きながら、新たにアイデアが浮かぶのだけど、アナログだから改行して書き出しておくということができない。
ならメモを取ればいい話なのだが、そうしないのは「ちょっとメモしておいて、これが終わったら取り掛かろう」みたいなのが難しいから。

しかたないので、忘れてしまわないかしらと少々焦りながら、次のキーワードはワーキングメモリに一時保存しながら手を進めていた。

わかったこと

私はあちこち思考が飛びまわるということ。

注意が同時多発しがち。連想に連想を重ねて、今何をしているのかわからなくなる。
スマホをいじっていたら「あ、これ」と気を引くものがあり、「音楽かけよう」とテレビでYoutubeを開き、「画面が小さいな」とタブレットのロックを解除した矢先に以前開いていたブラウザで続きを読み込んでしまい、入力作業に不便を感じてPCを開く。
このころには、それぞれのタブが細切れになるほど生成されている。

行ったり来たりするので、全部進行途中。お手洗いに立とうものなら、「そういえば」と新たな検索ワードが浮かび、それまで何していたってタブを増やしてしまう。
サイトの文章中から検索をかけ、その先でまた検索をかけ、ブラウザバックしまくる羽目になり…最初のページはどんなんだっけ?

1つづつクリアした方が明らかに効率がいい。けれど、後で調べようとメモを残しておくと、それはそれで膨大な積読みたいになってしまうので、手をつけるだけでもしておいたほうが楽なのだ。
何日も放置状態のタブは思い切って閉じることもできるのだから。

実にいろいろなことに思いを巡らせ、調べてはみるものの、なんにも終わっていない。
結果として見えるものがないのだ。

で、効果の程は

日々こんなことをしていると、1日の終わりをあまりいい気分で迎えられない。
今日も何もできなかったな。あんなに時間があったのに、一体何をしていたんだろう。
時間を浪費してばかりの自分にうっすらと絶望し、まだ今日を終えたくなくてスマホをつっつき、ぼーっとした頭で朝の支度をする。
またやってしまった。

思えば、その日常を脱したかったのかもしれない。

今回のワークを経て今の自分を見てみれば、マインド面の変化はある。
やることは大して変わっていないのだが、思考ノートがライフログ代わりになったので、文量で何に時間をかけているか、どういうことに心動かされ、何に悩んでいるのか…といったことが感覚的に把握できるのだ。

記録として残っているから、自分がどう考えて行動したか、あるいはしなかったのかを自覚しやすい。
「結果として見えるものがないから、時間を浪費した気がする」私が、図らずして成果物をせっせとこしらえていたことに気づいた。

思考ノートをつけ始めてからは、ほぼ毎日こんなことを考えてから眠りにつくようになった。

いやあ私ってば、今日も立派に生きたわ。
いろいろあったけど、いい1日だった。
明日はどんな素敵な日になるだろう。

素晴らしい!「終わりよければすべてよし」を体感した。
多少の苦労はあるものの、形に残す作業を加えることで達成感が生まれる。
”書く”こと自体の恩恵も受けられ、思考の整理がつくことで、悩みを書いた次のページではいつの間にか解決法を書いている。他でもない自分の案だから、説得力もマシマシだ。
おまけに、ワーキングメモリが鍛えられたのか、「思い出す」ことがちょっと早くなった。

ワークの意図からはだいぶ遠ざかってしまったかもしれないが、思いの外自己肯定の頻度が上がったので良しとする。
私は初挑戦のレシピを眺めながら、アレンジを考える人間なのである。

主観的ではあるものの、自らを客観視できて、私は小さなことまで考えているのねぇと思えるから、
本当にしょうもないことで自分を褒めている(例:宅配の人が帰ったあとの鍵閉め、さらに静かになった!腕上げたね!)。

それから、もしやこれが一番の収穫やもしれないというのがある。
自分が何を大事にしているか、徐々にわかってくる。
価値観がはっきりしてくる、ともいえるだろうか。

どんなことを書いたって、そう思考した動機というのはいつもおんなじ。
自分の行動指針がわかれば、選択がとても楽になる。
選択に割く労力が減ると、気持ちが軽やかになって余裕が出てくる。
余裕は意欲を生む。
大げさに表現するなら、人生が好転していく心地だ。

書くことで自覚できる思考というのは、そう多くない。
とはいえ、自分を知り生活に活かすための1つの手段としては、かなり有効だというのが私の所感だ。

欲をいえば、もっと詳細なデータがほしいところ。
もっと早く記録できる方法はないものか。
「書く」という原始的なやり方だと、やっぱりすべてを書き留められるわけではない。それがもどかしい。

以降の試み

ついでに、この先試してみたいことも書いておきたい。

  • 字があまりにも下手でつらい→エッセンスを記録するだけでも、デジタルを活用する

  • 読み返す気が失せる→振り返りの頻度を上げる

  • 外出先では実践しづらい→スマホに専用のメモスペースを作る


学んだことは実践していかないとね

さて、私の大切な価値観の1つとして、「食は人生の醍醐味であり、私を幸せにするものである」と判明した。
時間なんか気にせず、とっておきのアイスクリームを味わおうと思う。

本日配信開始のTHE FIRST SLAM DUNK観戦しながらね。

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