ちょっとだけ、聞いてくれませんか。僕のやりたいこと。
こんにちは。
突然でごめんなさい。ちょっとだけ目をつむってみてください。そうして、身のまわりのいろんなものや、いろんなこと、を思いうかべてみてほしいのです。
なにか、思いうかんだでしょうか?
これから先は、いま、思いうかんだものを持ちつづけながら読んでみてほしいのです。
この世の中には、わかりやすいもの、がたくさんあります。
たとえば、ネット記事とか、本にのってる図とか。駅、なんてところも、それはもうわかりやすすぎて、僕らは気にもとめないくらい。
一方で、この世の中には、わかりにくいもの、もたくさんあります。
たとえば、自然、みたいなフクザツなものはいい例だし、人の心、なんて、それこそ、わからないものの代名詞。こういうものは「わかった!」と思って手をのばした瞬間、スルリとゆびの間をすりぬける。そういう、とらえどころのないやつ。
僕のはなし。
僕、実は、わかりやすいもの、も、わかりにくいもの、もキライです。
わかりやすいもの、はなんだか嘘くさいし、わかりにくいもの、はむずかしくて頭が混乱する。
それに、
わかりやすいもの、だけをながめていると、薄っぺらい人間になっちゃいそうだし、わかりにくいもの、だけを見つめていると、なにかわかるまえに僕が壊れてしまいそう。
でも、世界は残酷。
世の中には、たくさんのわかりやすいもの、とたくさんのわかりにくいもの、があって、僕らはそのなかで生きていかなきゃいけないんだって。
わかりやすいもの、にも、わかりにくいもの、にも安心できない僕は、どうやって生きていけばいいのだろう?
ゆらぐこと。
「わかった!」と「わからない…」のあいだを、行ったり来たりすること。
そう、なにかを勉強したことのある人だったら誰でも知ってるあの感覚。「ぜんぶ、わかった」と「やっぱり、全然わからない」が交互におしよせる、あのゆらぎ。
これが、ぼくがやってみたいこと。
演じること。芸術作品をみること。人の心をかんがえること。1+1が2であること。家があること。足をうごかせば歩けること。明日があること。
わかりやすいもの、も、わかりにくいもの、も。
ゆらぎながら見つめてみれば、きっと、ぜんぶ同じもの。そこには、わかりやすい、も、わかりにくい、もなくて、あるのはただ「わかる気がするけど、よくわからない」という、ふわふわした感覚。
なんだ、そんなのつまんない。
と言われてしまいそうだけど、
でもぼくは、そのうち、そういうゆらぎが大きくなって、
きっと世界をやさしく包み込んでしまうと思うのです。
ゆらぎは目にみえるような、確かな存在じゃない。
でも、ゆらいでることだけが確かである、そんな僕らの在り方も、いいんじゃないかなって思うんです。
モノがゆれると音がうまれるように、僕らのゆらぎは、きっといいメロディーを奏でてくれる気がしているのです。
ここからは、ぼくが来年やりたいこと。
そうは言っても、ゆらぐ、って怖い。
いつはじまっていつおわるのかわからない、ゆらぎ、というものに、えいやっと身体を投げこむことは、とても勇気がいることです。
だから、ゆらぎ、のサポーターがほしい。
そして僕はみんなの、ゆらぎ、のサポーターになりたい。
ゆらぎ、に不安になる心をしずめてくれて、それでいて、ゆらぎ、を直視させてくれる、そんな優しくて厳しいサポーター。
サポーター、ってどんなものだろう?と空想してみる。
ゆらぐことを、一緒にゆらぎながら教えてくれる。
そんな場。
手にとるだけで、ふわっとあたたかく、でも、ぼくの目をとらえてはなさないような、そんなモノ。
わかりそうでわからなくて、わかるようでわからない。
そんな、人の心、との対話。
これが、僕がつくりたいもの。
優しくて厳しいサポーターと、ゆらぎの世界。
どうでしょう、なんとなく僕のことば、とどいたでしょうか?
ここまで、読みにくくてごめんなさいね。
もし、これを読んで「おもしろいな」とちょっとでも思ってくれたなら、ぜひ、ひとことメッセージをください。僕は来年、ゆらぎ、をテーマにして制作活動をおこなうつもりです。もしよければ、その仲間になってくれませんか?
メッセージをくれれば、かならず返信します。ゆっくりになってしまうかもしれませんが、まずは、きっと会ってお話ししましょう。
ひとりでは見えないことも、ふたりいると見えるようになる。
これも、ゆらぎのなせるワザ。ゆらぎは、粒とちがって、重なりあってとけあうことができるから。
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