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欲しいと言えないのは欲しくないからじゃない【3分】
私は、欲しいものを欲しいと言えない、すこし臆病な子どもだった。
小さいころは、今よりよっぽど引っ込み思案で、でも、こうと決めたらこう、って意志は強い性分で。
今日は、自分の気持ちをうまく伝えられない人の心に渦巻いているものや、そういう人がどうやったらコミュニケーションを円滑にすることができるか、という話を書こうと思う。
欲しいのに欲しいと言えない
あれはたしか小学校低学年のとき、近所の体育館で催されていたフリーマーケットに、家族と行った。
そこに並べられていた、たくさんの品物のうち、私はキティちゃんのジグソーパズルに釘付けになった。
かわいい。
欲しい。
でも私は、何もねだらずに体育館を出た。
親は、
「何か欲しいものある?」
って何度も聞いてくれていたのに。
あとからもっと欲しくなる
結局、その日の夜になって、私は泣きじゃくった。
「あのジグソーパズル、欲しかったの」
と震える声で訴えながら。
親は、私がじぃっとジグソーパズルを見ていたのにちゃんと気づいていて(それだけガン見していたらしい)、あのジグソーパズル、で通じていた。
「あのとき、欲しいって言ってくれたら、買ってあげたんだよ?」
と言われて、もっともっと泣いた。
体育館で見たときより、ずっとずっとジグソーパズルが欲しくなっていた。
否定されるのが恥ずかしくて
私がジグソーパズルを欲しいと言えなかったのは、だめ、と言われて否定されるのが怖かったから。恥ずかしかったから。
でも、あとになればなるほど、欲しい、欲しかった、そういう気持ちがむくむくと湧き上がってきて、怖い恥ずかしいを乗り越えてしまう。
それで、泣きながら、欲しい、って言う。
おわかりの通り、時すでに遅し、で、ジグソーパズルはほかの人が買っていったかもしれないし、体育館に行っても撤収作業がぜんぶ済んだあとだったかもしれない(たぶんそう)。
かもしれない、のすすめ
言われるほうにしてみたら、欲しいってその場で言えばいいじゃん、って思うのは当たり前だ。
この事例は家族との話だから、泣いて済んだものの、あとからほんとうはあのとき悲しかった、悔しかった、怒っていた、なんていつも言っていたら、人間関係を壊しかねない。
でも、言えない。
だから、私は、ない脳みそを振り絞って考えた。
「欲しいかもしれない」
なら、言えるかもしれない。
欲しい!とはっきり伝えるほうがよっぽど好ましいのだろうけれど、その勇気がない私みたいな人は、かもしれない、を付けることで言えるようになるかもしれない。
「欲しい」
をやんわり言葉変換した
「欲しいかもしれない」
なら、言える気がして、試してみたら、けっこういけた。
以来私は、その場その場で気持ちを表現できるようになり(お恥ずかしながらできないときもある)、あとから言い出して人間関係の不和を生むようなことも相当減った。
かもしれない、はある種のやんわり言葉で、やっぱりやんわり言葉はいろいろな場面でコミュニケーションを助けてくれるのだと、改めて実感する。
おわりに
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感情はいつも後出しじゃんけんで知らないうちに手がチョキになる/弓吉えり
ほんとうはあのとき悲しかった、悔しかった、怒っていた、ってあとからあとから感情が激流になって私のもとへ去来する。
それは、まるで後出しジャンケンみたいで、そういうときに限ってチョキのような攻撃性の高いものばかり。
この攻撃性を、いかにしまいこんで、やんわり言葉に変換できるのかに、コミュニケーションの鍵はあるのだと思う。
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