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あおりのダイブ

 気が付くと後続の軽自動車からあおられていた。そうか、流行りのあおりというのはこういうものか。ラジオの話に気を取られていたが、こんなに近づいてくるというのは、こちらの速度が気に入らないのだろう。
 バックミラーには巨漢が四人ぎゅーぎゅーになっている白い軽が、毎度の赤信号をぶつかる寸前まで迫ってくる。あいにく一車線で、対向車もぼちぼち来るので追い越せないらしく、全ての不満を私の車にぶつけてくる。
 私は助手席の弟に何か散らかすものはないかきいた。さっき買い物した中に小麦粉があったので、それを撒けば視界がなくなって諦めるだろう。
 割と飛ばしているつもりだが、少しのブレーキで衝突するだろう距離を保って、迫ってくる。運転している男の顔はサンバイザーでよく見えないが、助手席の女は袋から何度も手を出し入れして、後部座席の連中にお菓子か何かを渡しているようだ。
 彼女は袋が空になると窓を開けてそれを放り投げた。なんというモラルのない家族だ。私は懲らしめてやるためにも制限速度に近いスピードを維持していた。
 海に面した山を切り崩した道が続いており、もうすぐトンネルになるので、弟に今だ!と怒鳴った。弟が焦って袋を破ると助手席にも撒かれたので一瞬蛇行運転になってしまい、後ろはここぞとばかりクラクションを鳴らし続けた。
 態勢を立て直し、窓から両手と袋を出し「ほーら!」と、弟は袋の小麦粉全部を撒き散らかした。大量の粉はトンネルの入り口に吸い込まれ、暗闇になると同時の煙幕で、後続の軽自動車は急ブレーキをかけたようで、ぐんぐん距離が離れていった。
 弟は「天罰だぁ!」と叫んで興奮していた。私は連中が事故でも起こしたらまずいなと思いつつ、トンネルの出口から急な上り坂になっていたので、運転に集中していた。
 ところがなんのその、先ほどの車はパワーアップしており、巨漢四人を乗せていると思えないほどの猛スピードで坂道を上ってきた。登坂車線から我々をとらえ、運転席の髭面の男がこちらを向いて「バーカ」と大声を上げて追い抜いていった。
 海沿いだけに、急カーブが続いており、上り道はそのまま頂上で右に曲がっているのだが、こちらを向いた運転手の一瞬の隙が災いして、彼らは遊園地の乗り物のように空に飛んで行ってしまった。
 私と弟は、その奇跡のような映像を目で追い、急ブレーキをかけて、車から降りた。ガードレールにぶつからずに飛んでいったのか。車がどこに落ちたのかわからず、弟はガードレールをまたいでこわごわと崖下を覗き込もうとしていた。真下には海があるが道路からどれだけ離れているのかが問題だった。微かな波の音は遠くにも近くにも海がありそうだった。私はガードレールの向こう側の草むらに腹ばいになって、背伸びをして眼下を覗き込んだ。道路下の崖は凹んでおり、真下はそのまま濃紺の海が広がっていた。
 彼らは我々を追い越した瞬間、全員海に散ってしまったのか。
 息せき切って車に戻り、県道から海に下る沿道を進み、さらに砂利もない細道を下り、車の行けるぎりぎりまで来てから、我々は漂流物の堆積でいびつになった隘路を下り、真上に広がる崖と海の境にある小さな砂浜にたどり着いた。
 海はどす黒く、底が深くなっていそうな地形だった。
 空を見上げて、車が落ちてきそうな海面を確かめたが、そうした気配も何もなかった。
 岸壁は小さな入り江のようになっており、波がぶつかるたびに白く渦を巻き、崖の少し上には海藻がへばりついたような濃い緑に覆われ、その上は岩肌をむき出しており、はるか上の道路の辺りにようやく雑草らしき影が見えていた。
 私は、崖の頂上から海面へ、何度も視線を往復させた。
 強い潮の匂いとともに、浜に刺さっているような腐った流木にはフナ虫が逃げ隠れし、砂浜から出っ張った岩には赤い蟹が数匹うごめいていた。
 私は中学の頃に毎週のように近くの港で海釣りを楽しんだことを思いだした。港のテトラポットから投げ釣りでキスやカレイを釣っていたが、しょっちゅうフグがかかった。そいつらは釣りあげると急激に膨らみ、硬い歯で釣り針を折らんばかり噛んでおり、なかなか外れずにいた。仕方ないので軍手で硬く膨らんだ胴体を締め付け、釣り針と餌のイソメを吐き出させ、海に投げ捨てていた。彼らは釣果とは無縁の、楽しい釣りの忘れ去られた一幕だった。
 起きもしなかった出来事も、そうした忘れられた出来事も、いつも現実とともに進行していた。あおり事件はそうした記憶のひとつだったのかもしれない。
 わたしと弟は、空と海と崖に囲まれた小さな海辺で、長い間立ちすくんでいた。


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