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「真面目だね」と言われると「真面目だけが取り柄」と思われた気がした

聞き分けのいい優等生だった私は、昔から「真面目だね」と言われることが多い。褒め言葉に違いない。でも昔のわたしは、「真面目だね」と言われても、素直に喜べていなかった。

高校時代、わたしは典型的な真面目人間だった。テスト勉強は2週間前から一切遊ばず、1人で黙々と勉強していた。成績もそれなりによかった。そして校則を守って化粧はせず、髪も染めず、派手な色のセーターは着ていなかった。スカートもそこまで短くしていない。まさにお手本みたいな過ごし方で、実際多くの人から「真面目だね」と言われた。

目立つタイプでないため、数少ない褒め言葉は心底うれしいはずだ。過去「おもしろい」や「かわいい」と言われたときにはニヤニヤしてしまうほど。しかし「真面目だね」だけは違う。なぜだか素直に喜べないのだ。なぜ「真面目だね」と言われても嬉しくないのだろうか?

実は当時、「真面目だね」と褒められると、なんだか「真面目だけが取り柄だ」と言われている気がしていた。

「真面目だね」という言葉は、褒めるポイントが多い人にはあまり使われない。もし超絶美人で頭が良ければ「美人」や「頭いい」が優先され、スポーツが超うまかったら「運動神経がいい」「かっこいい」「足早い」などが優先される。個性的な長所があれば、真面目さは優先度が下げられるか、「〇〇なのに真面目」のように他の特徴でセットで語られる。

そのため「真面目だね」とだけ言われるのは、特筆すべき特徴がない、つまり「真面目だけが取り柄だ」と言われている気がしていた。だって個性的な人に対して、わざわざ「真面目だね~」なんて言ったりしないから。だからわたしは見た目や中身が平凡で面白みがないと周りに思われている気がして、素直にうれしいと感じられなかったのだ。

ただ今思えば、当時はわたし自身に全く自信がなく、まじめな自分を前向きに受け入れられていなかったのだ。勉強を一生懸命していても、将来の夢や今夢中になってできることが全然わからなかった。コツコツ勉強出来ていても、その努力が何に役立つかもわからない。もっと個性的で独特な特徴がなければ、自信をもって生きていけないのではないか?コツコツ努力できる真面目さだけでは無意味で、勉強だけではダメなんだと考えていた。

ただ真面目さにも個性がある。人の数だけ種類がある。時間を守れる、ルールに違反しない行動をする、挨拶ができる、キッチリ勉強するなど、深堀していけばあらゆる種類が登場する。真面目さは地味で味気ないように見えるけど、真面目といわれた人の言動や考えには、それぞれかけがえのない個性が存在している。

たとえ平凡な褒め言葉をいただいたとしても、その奥に潜む自分の性格や経験は個性的なものだ。手前で止まらず、何を見てそう思ったのか?なぜそう言われたのか?などを自分で追及できるようにしていきたい。

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