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次は、誰かの葬列で再会するのだろう








福岡
2024













次は、誰かの葬列で再会するのだろう




















次は、誰かの葬列で再会するのさ







高校・大学の同級生の言葉










博多駅東
「いちたか」




唐突だが、わたしは、いわゆる「付属校推薦」の枠でそのまま大学へと進学した経緯がある

面接と論文の選考だったはずだが、もちろん、その当時何を書いたのかは一切覚えておらず、いわゆるセンター試験などの一般の「受験」は一切経験することはなく、だからほとんど大した苦労もなく、まさにエスカレーターに乗って、そのまま大学へと歩みを進めたのだ


進学した先の大学は、いわゆる「マンモス校」で、同じ学部だけでも、あるいは500人以上はいたのかも知れない
福岡、というよりかは九州屈指のマンモス校で、そこには様々な同級生たちがいた





鴨肉のローストの付出し
「いちたか」




1997年の春に入学式を済ませ、広大な緑の芝生を合わせ持つキャンパスに放たれると、ほとんど間をおかずに、ある小さな化学変化のようなものが、わたしの身の周りで起こり始めた

それはわたしと同様に推薦枠で入学してきた高校の同級生たちとの関係で、高校在学当時は「顔は知っているが名前は知らない」、半匿名性のある同級生たちが、ある有機的な繋がりをもって集い始めたのだ



そこにはやはり大学という「新世界」に対する潜在的な小さな不安があったのだろうか



だから同郷、もしくは、同族意識のようなものが強く芽生えてきたのだろうか


高校の時には同じクラスにもなったこともない同級生たちが集まり始め、小さなグループを形成し、そのグループはわたしを含めて総勢10名にもなったのだ





真鯛のカルパッチョサラダ





そのささやかなグループにはある名称があったが、恥ずかしすぎるのでここで書くつもりは一切ないが、特徴は10名全員が男
もちろん全てが同じ高校出身で、唯一例外的に長崎出身の、やはり男性1名を含めたグループだった

高校は一応は男女共学だったが、元々女子の在籍数が少なかった上に、そのほとんどが大学ではなく短大か専門学校の道を選んだように今では思えている
それが理由の全てではないのだが、結局このグループには卒業までに女性が加わることは一切なかった

加えて、このグループには求心力を持つ、いわばリーダー的な存在もなく、全員がのほほんと思い思いのままに過ごし、集まる目的も明確にないままに、基本的に春夏秋冬、穏やかな草食動物のように芝生の上で平和に共存してはいたが、いわゆる世間一般では昔からいわれているような、未来に明確な目的を持たない「馬鹿な大学生」であったことは間違いなかった




玄界灘産の胡麻鯖




すでに大学を卒業して20年以上は経過しているが、今改めて振り返ってもこのグループはかなり不思議なグループであったように思えている

学生時代の当時として、講義がある平日は朝から夕方までは基本的に行動を共にし、昼食はもちろん、講義の合間にはキャンバス内の芝生に車座に座り、煙草を吸ったり缶コーヒーを飲んだりで、夜は大学の近くで一人暮らしを始めた仲間のアパートで皆でわいわいと食事をとったり、法定年齢よりもやや早めに酒を飲んだりもした

しかし例えば夏休みなどの長期休暇に入ると、少なくともわたしが知る限りでは、その誰とも一切連絡を取らなかったように思えている

それぞれの「地元」も決して遠い距離にあるわけではないのに、まとまった休みに入ると「解散」状態となり、ほとんど誰とも連絡を取らず、新学期が始まるやいなや、また磁石のように引き合いはじめる不思議な性質を持っていたのだ・・・




博多一口餃子




当時は、少なくともこのわたしには「群れている」という認識さえなかったように思えている
それがいわゆる「常態」で、最も自然な形のように思えていたからだし、このグループ以外でのいわゆるキャンパスライフは、もちろん想像することができなかった

それはきっと誰しもがそうなのかも知れない
若い時代で老成できるはずもなく、同時にそこは世界の全てであり、「振り返る」という行為自体が存在しない時代なのだ
仕方がない





若鶏の唐揚げ




そうした10名の同級生グループの中において、先にも書いたが、不思議なのは長期休暇に入ると「解散」状態になることだった

この性質は大学を卒業してからも大いに発揮され、すでに卒業から20年以上は経過しているが、「全員集合」は大学の卒業式の後の打ち上げの席が最後だった

当時、福岡の西区にあったもつ鍋の名店「万十屋」で全員集合したのが記憶にある限り最後で、それ以降は、社会に出ても個々でごく稀に会うことはあったにせよ「全員集合」は今日現在においてもなく、また予定もなく、個々で会った回数も極めて少ない、いわゆる「同窓会」が存在しない不思議なグループなのだ

それは大学時代の大部分の、ほとんど毎日を過ごしてきたという経緯と合わせて振り返ると、本当に不思議な、このグループの特質でもあった





熊本産特選馬刺しの盛り合わせ





もちろんその最大の理由は、基本的に今年45歳になるグループの皆は、それぞれの仕事の中で、わたしを含めてのビジネスの現場の最前線にいることは間違いなかった
そういう年齢で、だからそういう世代でもあり、大抵皆は管理職で部下を持ついわゆる壮年期の「働き盛り」の世代と言いきってよいのだ

この20年でみな転勤を含めて日本全国に散って行ったし、わたしを含め「海外組」も三名いて、中国の上海、アメリカのロスアンジェルス、そしてここインドネシアのスマランと、学生時代には想像もしなかった場所でそれぞれ働き、生活をしていることになる

そのロス在住の友人とは5年ほど前にお互いの帰国日程が奇跡的に偶然重なり、大橋のBARでウィスキーで乾杯したことがあるが、上海の友人とは今日現在に至るまで、大学の卒業式の夜以降は会っていない

加えて、わたしのようにふらふらと着地地点を見つけられずに彷徨っている独身者はもはや2名しかおらず、みなそれぞれの家族を護るために悪戦苦闘しながらも働き続けているので、「全員集合」の同窓会などは、あるいは、生涯不可能なのかも知れない



いや、それをいうのであれば、初めから「全員集合」の同窓会などは不可能なのだ




わかっている



なぜならば、この10名から成るささやかな同級生グループには、すでに3名の死者たちを内包していることになるからだ




辛味噌ベースのもつ鍋




2023年の暮れに、そのグループの一人にわたしから直接連絡を取った


それは来月に控えている帰国休暇を念頭に置いたコンタクトで、以前その友人から、まるで懇願されるようにこうお願いされていたからだった



お前、たまには帰国の際には連絡くらい寄越せよ。そしてみなで集まらないか



どうしてこの友人が他の誰でもなく、わたしに直接コンタクトを取ったのかは明白で、それは最も実際的であったからに他ならない

なぜならばこの同級生グループの中でSNSを利用しているのはわたしと彼の二名のみだったからで、わたしは主に海外生活を、彼は息子のサッカーの試合を都度アップしていて、その他の全員は、SNSだと?興味がないで一蹴する連中でもあるので、所在や現在の状況などは風の噂程度にしか入ってこないのだ



曰く



”転職したらしい”とか、”家を建てたらしい”とか、”インドネシアにいるらしい”とか

つまり、SNSのメッセージ機能を通じて、最も簡単に連絡が取れるのがこのわたしであったということになる


そしておそらく、間違いないだろうがこの友人はみなで集まる「きっかけ」さえあれば、何でもよかったに違いない


そう


それこそ、わたしの帰国に合わせて、でもだ





定番の醤油ベースのもつ鍋




こうして昨年の暮れに、わたしはここインドネシアからその友人に連絡を取り、帰国日程の詳細を伝えておいた

この友人は、このグループ内では誇張でも潤色でもなく、死線を乗り越えた男だった

彼は大学を出た後で福岡に資本を持つ銀行に就職し、今年で勤続20年は超えているはずだ

わたしはこの友人と10年ほど前に一度連絡を取り、夏の日に博多駅にほど近いキャナルシティで二人でランチを食べたことがある

その当時、わたしは一台目の一眼レフを買って間もない頃で、主に会う人たちのポートレイトを中心に撮影していて、その時に撮影した彼の写真は今もデータで保存しているが、彼は当時は丸々と太っていた

それはもちろん仕事上のストレスが起因させる生活習慣の乱れで、やはり銀行、しかも、中小企業を中心に融資を行う営業職として、会社と顧客の間で圧殺されるような日々を過ごしていたのだろう



彼は当時よくこういう愚痴を語っていた



支店長と反りが合わねーわ



そうした日々の中で、趣味の中型バイクを運転中に突然、心臓に鋭い痛みを感じ、直感的にこれは危ないと判断した彼は、そのままウィンカーを点けて大通りを曲がり、ほとんど偶然そこにあった大病院にふらつきながらも自分の足で入り、心筋梗塞の発症を間一髪の段階で防ぎ切ったのだ
それはかなりギリギリの状態であったらしく、心臓に血液を送り込む血管のいくつかはすでに塞栓を起こし始めていたらしい・・・

この時はさすがに、普段はお互いに全く連絡を取り合わないグループ内に置いても瞬く間に、衝撃と共に情報が駆け巡った




生きているのか?





心筋梗塞って・・・助かるのか?


どこに入院しているんだ?





後遺症は残らないのか?



そして、その友人が手術によって一命を取り留め、後遺症も何も無いと知ると、今度は一気に反転して、こうした捨て台詞が稲妻のように鋭く駆け抜けていった




チッ、まだ生きてやがったのか!






醤油ベースのもつ鍋+ちゃんぽん麺




わたしがこの死線を乗り越えた男にコンタクトを取ると、今度は逆に瞬く間に久しぶりに集まるかという話が進んでいき、2024年1月に博多駅近くのもつ鍋屋で再会することになった
お店はわたしが指定し、このグループとは別の、中学の同級生がオーナーを務める「いちたか」で集合することにしたのだ


しかしもちろん「全員集合」は叶わない
叶うはずがない




この日集まることができたのは、わたしを含めて5人だった





チリワイン 2021




こうして集まった、わたし以外の4名と会うのは実に10年ぶりだった


10年か

これまで意識しなかったにせよ、こうして文章にしてみるとその歳月の確かな重みのようなものを感じないわけにはいかなかった
わたしを含めて、もちろん皆は10年分は老け込み、ある者は生え際がかなり後退し、ある者は腹回りに贅肉がついている・・・


そして、こうした10年に一度あるかないかの同窓会ではいつの頃からか、まるで自嘲するかのように、誰に向かっていうでもない以下の捨て台詞が、このグループを象徴するかのような響きを持ち始めていたのだ

それは誰のせいでもなく、極めて集まりの悪いこのグループの本質を、微かに言い当ててもいる台詞でもあった

今回、いつものように口火を切って吐き出したのは、現在ある食品メーカーで営業部長を務める、しかし皮肉屋の男だった


その男は酒で顔を赤らめ、こう言った




次は、誰かの葬列で再会するのさ






よだれ鶏のネギ尽くし




しかしわたしは、やはり今年10年ぶりに皆に再会できて本当に良かったと今でも思っている

「友情」などという陳腐な美談に陶酔するような年齢では最早なく、またそうしたタイプでもないわたしだが、今年参加して改めて気付かされたことを一つだけ、しかも今のわたしにとって極めて重要と思える事実を、この小さな同窓会で見出すことができたからだ

それは、確かにかなりの不定期で開催される同窓会だが、回数が少ない分、腰を据えて夜を跨いでじっくり皆と語り合うことになる
今回も時間にしてみれば7時間ほど飲み明かしたはずだが、時間自体にもそれほど大きな意味はなかった

再会する頻度が極めて低いからなのかも知れないが、ビールやワインを飲みながらお互いの近況を面白おかしく、そして誇張し、劇的に語った後では、必ず、グループ内ですでに死んでしまった3名の死者たちの話になり、今回ももちろんそうだった

それはわたしが知る限り、いや、わたしがこれまで参加できた限りではほぼ100%だった

集まる回数が少ない分、すでに死んでしまった3名の思い出を、追悼、と言うよりは面白おかしく、そして深い感慨を込めて夜を通して語り合うことになるのだ



もしも、わたしたちこのグループが、毎月、あるいは毎年会うような頻度であれば、死者たちの話は、あるいはもう語られることはなかったのかも知れない






その事実を今回、改めてこの同窓会の席でわたしは気付かされることになったのだ





焼き鳥




今年45歳を迎えるわたしたちの同級生グループにおいて、すでに3名の死者を内包していること自体に、特別なことは何もなかった

それは老いることの一つの「定義」には、周りに死者たちが増えていくことが挙げられるはずだからだ

祖父母や親戚、親、そして社会に出てから巡り会った、原則として歳上の人たちは主に病気や寿命で、歳下や同い年の人たちはあるいは事故でさよならも言わずに唐突に去っていき、その中には自裁してしまった少数の人たちも存在していた




45年も生きていれば、友人知人の中に死者が含まれること自体が自然なのだ




だからそれは、老いていくことの、実は「定義」でも何でも無いのかも知れない

自然の「摂理」に、より近接している事実といった方がより真実を穿っているようにも思えてくる



しかし、わたしたちのグループ内における3名の死者たちに、一つだけ共通の悲劇性を見出すのであれば、それは3名共に20歳前後で死んでしまったということになるのだろうか



20歳

あるいは、20歳前後


わたしがその頃に何をしていて何を考えていたのかは今ではもはやはっきりと思い出すことが出来ない


ひょっとしたら、実は誰でもそうなのではないのだろうか
少なくとも40代になればそう振り返ることができるのかも知れない



わたしが唯一覚えているのが、一昨年に他界した大好きだった母方のおばあちゃんが、わたしの成人式のお祝いに現金を大盤振る舞いしてくれたことで、わたしはその次の日に早速、前から欲しかった、川久保怜が率いるCOMME des GARÇONSのベージュ色のダッフル・コートを買いに行き、そこでそのお祝いの全てをぶち込んでしまい、その後いささか後悔したという苦い思い出しか残っていない



俗物的で申し訳ないが、当時の記憶はそのくらいしか残っていないのと、少なくともそのときに、恋人がいなかったくらいだ



しかし改めて、客観的にその年齢を考えると、一つだけ間違いないと思えることは、肉体的な「若さ」という点においては、もちろんいうまでもなく、20歳とはその絶頂、頂点の時期に符号するのかも知れないと思える



そしてその絶頂期とは、もちろん個人差はあるにせよ、おそらくは一般的に病気、それも死を招くような大病とは最もかけ離れている時期でもあるのだろう


そうしたいわば輝くような最も眩しい時期に、3名の友人たちはこの世界から退場していってしまったことになる・・・






だから、もちろんそれは、3名全てが事故死だった







福岡
2024




一人目はオーストラリア沖で死んだ



恥ずかしい話だが、彼の享年ははっきりとは思い出せない



大学に入学してから間もない頃だったから、18歳か、あるいは19歳頃だったか、いずれにせよ20歳になる前に遠い異国で溺死してしまったことは間違いない

彼とはもちろん高校の同級生で、一年だけ同じクラスになり、お互いに当時は異様というより、異常にファッションに興味があり、それはまさに世界の「全て」でもあり、その情報交換と物々交換、ときに売買をしていた影響もあってか、わたしにとってはかなり親しい友人の一人だった

彼の実家は福岡の久留米という、古くは松田聖子やチェッカーズを輩出した街で、Soft Bankの孫正義や事業家の堀江貴文が進学した九州でも有数の進学校がある土地でもだった
彼のご両親はそこで、今の言葉を用いるのであれば小さな、いわば町中華のお店を商店街に構えていた

そうした環境下にあったせいか、彼はよく学校に「餃子」を持ってきてくれた
それは前夜のお店の残りものであったのか、早朝に自分で焼いてきてくれたのかはわからなかったが、彼はいつも「30人前」は優に学校に持ち込み、気前よくクラス中に配って回っていた

当時の高校は学食もあったが、弁当持参だったので学校側からも特に彼のそのような振る舞いについては何も言わなかったように思い出される

しかし凄まじかったのは、彼が餃子を持参してきた日は、教室中が強烈な濃いニンニクの匂いに包まれることになったのだ・・・





福岡・雑餉隈
「味心」の餃子
2024




高校時代における彼との鮮明なエピソードは修学旅行だった

旅行先は沖縄で、それが那覇市のどこのビーチだったかはどうしても思い出せないが、初夏の強烈な沖縄の日差しの中で、海パンを履いてお互いに仲良く海に飛び込んだ

その時点で彼はサーフィンに強い興味を抱き始めていて、わたしはよくこう誘われていた




なぁ、一度でいいからおれと一緒にサーフィンに行かないか



わたしはそれがどこであれ、「水辺」にはどこか心を落ち着かせるような作用があることには、人生の早い段階から自分自身で気がついていて、中学校ではもちろん水泳部だったし(高校には水泳部がなかった)、ここインドネシアで国内旅行に出かける際は必ずプール付きのホテルを取り(大抵はある)、早朝の誰もまだ起きていない時間帯に暗くて青い水の中で、ただぼんやりと水面に浮かび上がっているだけで、まるで自分自身が透明にでもなったかのような安らかな錯覚を覚えるのだ

だからサーフィンに全く興味がないことはなかったが、とにかく高校時代には先立つものがなかった

長期休暇に入ると地元の大型の郵便局で葉書の仕分けのアルバイトをしてはいたが、そこで得た僅かなお金はほとんど全てが当時流行していたNIKEのハイテクスニーカーへと注ぎ込まれることになっていたのだ

彼とは顔を合わせる度に、まるで挨拶のようにサーフィンに誘われたが、わたしは苦笑しながらものらりくらりと躱していたような気がする





福岡・薬院
2024





彼は高校を卒業すると、いよいよ本格的にサーフィンの世界へと入っていった



九州では主に、かなり古びた中古のマニュアル車の軽自動車を駆っては宮崎の海岸に「出撃」(本人談で口癖でもあった)しに行っては腕に磨きをかけていた

当時の彼が、真剣にプロの道を模索していたのか、あるいは趣味で留めることにしてのかはわからない
振り返って推察するにおそらくは本人でさえもわかっていなかったのかも知れない

そしてそれは無理も無かったかのように今では思えている
なぜならば、自分自身の生きる道を明確に見出すことができるのは、20歳以下の極めて若い世代にはどうしても難しいと、今のわたしには思えるからだ

様々な紆余曲折と人との出会いを経て、人は自分の生きる道を、まるで探り当てるかのように人生の駒を進めていくはずだし、人生の早期から自分の進む道を完璧にトレースできるのは強力な才能と、そしてその才能を信じきる別種の能力が不可欠になるはずだ

しかし生来の凝り性な彼の性格が、彼自身をオーストラリア沖まで導いてしまったのだろうか

世界でも有数と言われる、サーフィンのメッカでもあるオーストラリアの波が立つどこかの海岸で、彼はサーフボードに覆い被さって両手をパドル代わりに大海原に「出撃」し、そしてそのまま二度と陸地に戻ってくることはなかった


この事故からすでに25年以上は経過しているが、わたしが知る限り、今日現在においても彼の遺体はまだ見つかっていないはずだ
ただ、オーストラリア政府と在日本大使館から「死亡宣告」が出されているだけなのだ



今頃は、彼はどこにいるのだろう



オーストラリア沖の暗く、深い海の底で、水葬され、安らかに眠っている可能性もあるし、インド洋か、あるいは南太平洋の激しい海流に流されてあの小柄な肉体はバラバラになり、世界中の海に散らばっている可能性だってある
いや、そういうのであれば、あるいは、南国の獰猛な鮫に遺体を食いちぎられた可能性だってあったはずだ


そしてこの事実はもちろん、当時のわたしに強い衝撃を与えた



グループのほかのメンバー同士でオーストラリアまで遺体の捜索に行こうという話も当時は真剣に持ち上がった

彼の享年も正確に思い出せないわたし自身の記憶の情けなさは確かにあるが、だからそれだけ、いわゆる「時間薬」の作用もあり、今では正直、風化に任せっきりで、それこそ同窓会でもない限り意識的に思い出すことは少なくなってしまった

思い出すことはないが、決まって強烈な悪夢に魘されるうなされる夜には、そこは決まって水流の激しい暗く陽の光が届かない冷たい海の底で、断続的に溺れる夢を観るようになったのも、彼の訃報を聞いてからだったようにも今では思えている

昨年の春頃から本格的にこのnoteで、ときに、自分自身の心の中の、地下室のような暗い場所から、まるで内面を抉り出すかのように書く際は、全体として「水」のイメージがどうしても付き纏い、そして振り払うことが出来ない

写真も同様で、好んでここインドネシアの夜の激しい豪雨や洪水を一つのモティーフとして捉えるようにもなってしまった

こうしてnoteで書くこと自体が、わたし自身においても初めての試みであったのは間違いないが、だからこそ、若くして死んだ彼の「死」の衝撃が、実は25年以上もわたしの心の暗く、そして深い場所で沈潜し続け、未だ蠢き続けているのかも知れない・・・





Semarang
2024





二人目の死者は車の交通事故だった
そしてそれは自損事故だった



当時、同級生からなるささやかなグループにおいては、「車派」と「バイク派」に綺麗に分かれていた

内訳で言うと「車派」が人数においては圧倒的に多く、わたしは「バイク派」で、古いヨーロッパのいわゆるカフェ・レーサー仕様にバイクを改造し、大学時代の4年間で250ccと400ccの中型バイクを乗り継ぎ、今でもそうなのだが、昔から車にはほとんど一切興味が無かった

「車派」の皆も、「バイク派」と同様に自分の愛車をいかに自分好みに改造するかが青春時代の大きなメイン・テーマであり、無理なローンを組んでスポーツカーを買う者がいたり、ヨーロッパのメーカーの車をやはり無理して買い、その分血眼になってバイトに明け暮れるのが常だった

そして当時の時代の一つの風潮において、いわゆる車の「走り屋」に憧れる雰囲気が、当時の大学生の一部分には濃厚に立ち込めていたように振り返ることができる

それは、当時のある有名な連載漫画に発祥を持ち、その漫画の主人公が峠や公道でいかに華麗な「ドリフト」を繰り出し、いかに最速レコードを叩き出すかと言う内容に力点が置かれた、わたしにとっては全く興味を持てない、何が面白いのかが全く理解できない、まさに架空の世界の話でもあった


そうした流行に流されたのか、それともその友人の中に運転の「才能」が眠っていたのかはわからない
しかしそのいずれにせよ、ガードレールに激突して単身、無惨な死を遂げてしまったのが2人目の死者だった





Semarang
2024




その訃報が唐突にわたしに入ってきた日のことは、今でもよく覚えていた

そのときわたしは大学の3年生になり、その日はリクルートスーツを着て福岡市内である企業の面接を受けた帰り道だった

わたしに訃報を知らせてくれたのはもちろん同じグループの友人で、その前日の深夜に彼は自損事故で死亡し、連絡を受けたその日にわたしは何が起こったのかがわからないままに、リクルートスーツを着たままでそのまま通夜に参列することになったのだ


その友人が死んだのは、福岡県と佐賀県の県境にほど近い南畑ダムだった



彼の死後に、その後何度かその場所に献花に訪れることになるが、その時点ではわたしはそれまで一切縁の無い土地だった

奥深い森林と野生の獣の鳴き声、そして巨大な貯水池がある、豊かな曲線の自然と計算された直線で造られた人工物が組み合わさった異様に大きなダムの車道で、その友人はガードレールに激突して死んでしまった



その夜はもちろん雨が降っていた



なぜ、そのような当夜の天候の細かなことまでわたしが記憶しているのかは明白で、その死んだ友人本人から直接、生前何度も聞かされていたのだ

雨の日は、水が車のタイヤの摩擦熱を防いでくれるので、タイヤのすり減りが抑えられるんだ

金のないアマチュア・ドライバー、いや、若い世代のドライバーには「雨」は即ち慈雨であるのだろう

確かにその夜、「雨」は彼のタイヤの摩耗は抑えてくれたのだろうが、スリップまでは防いでくれなかったに違いない

いや、そこまでの詳細は誰にもわからないはずだ
彼は一人でハンドルを握り、一人でコーナーを「攻めて」、一人で死んだからだ

わかったことといえば、事故のあまりにも強い衝撃が彼の片耳を完全に吹き飛ばしてしまい、ほとんど即死だったということだけだ





Semarang
2024




わたしは社会に出てからこれまで、おそらくは大多数の人々と同じように、様々な人たちの葬儀に参列してきた

父親、祖父、親戚、会社関係、友人・・・


しかし、この事故死してしまった友人の葬儀ほど心を引き裂かれるような葬儀はその後参列していない

その友人の告別式では、彼の若い母親が黒い着物に身を包み、棺にしがみついてまるで狂ったかのように泣き叫んでいた光景が、わたしの心に強く刻まれてしまっているからだ

あれほど深い悲しみに満ちた無惨な葬儀には、あるいはこの先、一生・・・
いや、一生経験したくはないと今でも思っている

彼のご母堂の心中などは当時のわたし、いや、現在のわたしでも慮ることはできない
強くそう思わせるほどの絶望的な慟哭が、その葬儀を支配してしまっていたからだ

葬儀の席で、わたしは棺桶に入れられた彼の顔を凝視し、線香を上げたはずだが今ではその記憶がほとんど曖昧になってきている
その友人は俳優やファッションモデルと言っても決して過言ではないほどの恵まれた容姿をしていて、絶えず女性とも浮き名を流していたが、今こうして振り返ると
それは彼の容姿だけではなかったようにも思えている

死んだ友人を美化するつもりはわたしには全くないが、彼の爽やかな笑顔や立ち振る舞いには、その根底にあった精神的な健全さのような彼固有の資質が表層にまで現れていて、グループ内では誰よりもそれを強く持っていたに違いないと今では追走できるからだ

そしてその資質は多分間違いないのだろうが、死後も脚色や美化を遠ざける類の、最も純化された形の清潔なものであるに違いない


しかし、ほとんど顔の全体を包帯に巻かれた最期の姿だけは無惨だった



その姿を無意識下で掻き消そうとする作用が、わたしにはあるのだろうか

だから、あの葬儀の席で彼の最期の姿の記憶が曖昧になってきているのだろうか



わたしにはわからない



一つだけはっきりわかることは、老いも若きも、突然「事故死」した死者たちが遺していく想いは、生者には到底抱えきれるものではなく、唯一の解決策は「時間の経過」以外に終には何もないだろうという絶望的な道だけしか残されていないような気さえする


あるいは


彼がもしも生きていたら、という仮定は意味を持たないと言うこともわかっている


ただ、こうして不定期であるのに加えて、集まりが決して良いとは呼べない同窓会の席において、みな深く酒が入り、時計の針が深夜を回る頃に、誰ともなく


いや、アイツらは自分のやりたいことをやって死んでいったから、それで良かったさ


という、慰めの言葉の中にこそのみ、微かな希望を感じることができる






Semarang
2024





今年の一月に開催されたこの同窓会以降に、わたしはここインドネシアのスマランで、仕事で多忙を極めながらも、例えば帰りの車内などにおいて、激しい雨季の雨だれを車窓からぼんやりと眺めながらも、このようなことを考えるようになった

それはこれまでの数少ない同窓会において、ほとんど間違いなく語られる3人の死者たちの追悼のような会話の中で生まれ落ちたもので


自分のやりたいことをやって、その先にまるで延長線上にある「死」とはどのようなものであるのか、と


わたしは哲学には一切興味を持たないが、この考えは自分の内部に深く根ざし始めていると言うことも最近ではよくわかっていた

それは、煎じ詰めれば、このわたしには、逆に生涯に渡って無理なのかも知れないと言う諦めに近い、しかし激しい感情で、逆に、それが出来る者にはある種の才能のような資質があるのかも知れない

なぜならば、その前提としてまず巨大に聳えるそびえるのは、まず「熱中できる何か」があることが最大の条件になっていることが間違いないと思えるからだ

そして、わたしはそうした「何か」を持たない、だから、持たざる者であるのだ

だからわたしの延長線上には、そもそも「死」も、だから「生」も存在しないということになるし、その視点ではわたしは、スタートラインにも立てないというような無惨な境遇にいることになるのだ

だから若くして去っていってしまった友人たちが放ち続ける強烈な光を、身近に感じることができる一人として、自分自身がいかに凡庸で、いかにつまらない男だということを、時々痛烈に思い知らされることになる





JAKARTA
2024





3人目の死者は、大学を卒業してからほんの数年後だった

やはり事故死に近く、バイクで、しかも自身の飲酒運転に起因するという凄惨な内容のものであった


当時の社会的な風潮として、まだ社会全体が飲酒運転に寛容な時期での事故だった

その潮流が大きく変化するのは、2006年に福岡の海の中道で発生した当時22歳の公務員が起こした飲酒運転事故で、幼い児童が3名犠牲となったことが大きな契機となり、現代に通ずる「飲酒運転撲滅」、そして社会的に厳罰を与えられる流れが生まれたはずだった


その友人は深夜に大量の飲酒をし、酩酊した状態でバイクに跨り、福岡の西区の海岸沿いを走りながら帰途につこうとしていた矢先、ハンドル操作を誤ってガードレールに激突し、そのまま彼の肉体は数十メートル下の崖下に叩きつけられた

その夜、彼がどのくらいの量を飲酒したのかは今でも判明していない
大学時代にはもちろん数えきれないほどに酒席を、あらゆる場所で共に楽しんできたが、彼は決して酒に強い体質では無かったことは間違いない
酒豪揃いだったグループ内においても、みなに合わせるかのように無理して飲んでいた記憶はある

その彼がなぜその夜に、酒に溺れ酩酊するまで飲んだのかはやはりわかってはいない



それは、逆に、事後、わかってもいいはずだった





Semarang
2024




なぜならば彼は、直接的にはこの事故では死ななかったからだ
いや、死ねなかったと言い換えてよい

だから事後に追跡して何があったのかは彼自身の口と言葉で聞けるはずだった


なぜそれができなかったのかは明白で、彼は奇跡的に一命だけは取り留めたが、頭と顔を海岸の岩で強打し、その影響で凄惨な後遺症を抱えることになってしまった

事故直後にICUに見舞ったグループ内の友人の、憔悴しきった口調で語られた彼の容態は、今でもはっきりと覚えている




見たことないくらい、顔が数倍に膨れ上がっていた




彼が抱え込んでしまった後遺症は、少なくともわたしには全く聞いたことも無いような重大なもので、脳を激しく損傷したことに起因する、「記憶が5分間程度しか持たない」と言う苛烈なものだった
つまり簡単に言えば、食事を摂っても、5分後にはその記憶そのものが消滅していると言った恐ろしい内容で、だから一般的な社会生活を送ること自体がほとんど不可能になってしまったのだ

加えて端正だった顔立ちは、事故の衝撃でもはや見る影もなく徹底的に破壊されてしまい、それはもはや当時の面影をほとんど完全に消し去ってしまっていた






JAKARTA
2024





その頃はすでに、グループの他の皆はわたしを含めて社会にでて働いており、もちろん学生時代とは違って自由は大きく制限されていた

グループの中で最も彼と親しかった友人1名が代表する形で見舞いを重ねたが、そうして断片的に入ってくる情報は聞くだけでも辛い内容のものが多かった

事故以前の記憶が全くない、だからわたしたちが誰なのかさえもわからない、そして自分が誰なのかもわからない、彼の父親は仕事を辞めて家を売り払い、介護に専念するようになった・・・


だから当時、グループではなく個々で会うことができた友人と再会した際には、わたしも自分勝手なことを話すことが多かった


死んだ方が、良かったのかも知れない


決して褒められた台詞では無いことは承知だが、やはりわたしの内部で絶望的なまでに高められた深い苛立ちが、こうした残忍な言葉を吐かせたのかも知れない


だが、彼が起こしてしまったこの事故に、ほとんど唯一の救いがあるとすれば、それはもちろん他者を巻き込むことがなく、自損事故で完結することができたからに他ならない
峻烈な言い方を敢えてすれば、自業自得の範疇に含まれる
もしも他者を巻き込み、同様の後遺症、あるいは相手を死に至らしめていたとしたら、そこに救いは一切なかったはずだ


そう、そこに救いはなかったはずなのだ・・・


そしてその事故から数ヶ月が過ぎた頃に、代表でお見舞いに訪れていた友人に、彼の母親から泣きながらこう懇願されているのだ

もう、お願いですから息子のことは忘れてください


忘れることなどわたしたちにとっては、もちろん無理な相談だった
簡単に記憶を抹消できるほど人間は器用にできていないのは書くまでもないし、特に10代の後半から20代の前半のいわば熱狂の時代の大部分を共に過ごしてきたのだ
そしてそれは、わたしたちだけでなく、彼と関わりのあった全ての人が同様の思いを抱いていたはずだ


そしてこの彼の事故は、後味の悪いものだった
少なくともわたしにはそう感じられた
別に今更、当夜の経緯や飲酒量、その原因を解き明かしたいわけではない
全てはもうすでに起こってしまったのだ


忘却することはもちろんできないが、当時、会社で飲み会などが催されればわたしは参加していたはずだし、休日に遅くまで寝ていることも、呑気に買い物に出かけることもあった

グループのほかのメンバーも同様だったに違いない
強烈なジレンマを抱えながらも、すぐ目の前にある人生の果実のような日々を味わい、彼の容態を気に掛けながらも、自分の人生の駒だけは着実に前に進めようとしていたのだ・・・

あるいはそれは、わたしたちが冷徹なのではなく、おそらくはきっと誰でもそうするのだろうか

時間が前へ前へと進んでいく以上、誰もそこで立ち止まり、停滞し続けることはできないはずだ

そうした後味の悪さだけが、20代の前半に常に付き纏い、そしてそうした強烈なジレンマを表現する言葉を、少なくとも当時のわたしは持っていなかった





そうした日々からどのくらいの歳月が流れただろう





事故から数年後に、その彼は事故が遠因でその短い生涯を閉じ、事故を起こした際の唐突さと同様に、この世界から退場していってしまったのだ・・・






福岡
2024




時刻は深夜を回っていた




今回、そのグループの5人で10年ぶりに集まったささやかな同窓会のお店は、わたしの中学校の同級生がオーナーを務める「いちたか」というもつ鍋屋の、予約もなかなか取れない人気店だった

1月の博多のもつ鍋屋の多くはいわゆる書き入れ時で、どのお店も食事には2時間の時間制限が設けられているが、その同級生オーナーの好意で個室を時間無制限に使わせてくれた

わたしはこのお店に来る途中で博多阪急デパートの地下で、その同級生オーナーとアルバイトスタッフのために「蒸気屋」の焼きたての焼きドーナツを20個買い求め、入店してすぐに同級生に差し入れておいた

すると深夜を回り、店内の喧騒がある程度落ち着き始めると、お店の若いアルバイトスタッフがわたしたちが使用している個室を次々にノックし、爽やかな笑顔で差し入れのお礼をわざわざ言いに来てくれる



同級生オーナーがよく教育しているからなのだろうか
それとも彼女たちが先天的に具えているごく自然な礼儀のような資質なのだろうか

きっとその両方なのだろう



彼女たちはいずれも若く、美しく、それこそ20歳前後の年齢で、「死」とは無関係に見える、もしかしたら人生の一つの絶頂期にいる人たちなのかも知れない・・・





Semarang
2024




空いた無数の瓶ビールと、空のワインボトルが数本

個室には大蒜にんにくの匂いが強く立ち込め、わたしたち5人の前には同級生オーナーがサーヴィスしてくれたエスプレッソのデミカップとバニラとチョコレートのアイスが乗ったガラス製の小ぶりの器




去っていってしまった3名の死者たちの話を、いつものように1人の男が、いつもの台詞で締め括った



いや、アイツらは自分のやりたいことをやって死んでいったからそれで良かったさ






果たしてそうなのだろうか





その男、現在では地場の食品メーカーで営業部長をしている同級生から、わたしは相槌を求められるように視線を向けられたが、わたしは答えなかった

その隣の席の、心筋梗塞の死線を超えた男、今では銀行の支店長代理の男も静かにわたしの方を見ている


確かに、それは一理はあるのだろう
自分のやりたいことだけをやって、その先にある「死」とは、逆に良い死に方なのかも知れない



わたしも、これまではずっとそのように考えていた



だが、死んでしまった彼らは、少なくとも自分自身の血縁、つまり息子や娘を見ることはなかった
独身のわたしには息子も娘もいないが、まだ幼く、愛くるしい甥や姪はいるのだ

すでに死んでいった者たちは、それぞれの家庭環境の中で、そうして生まれてきた、この世界に「入場」してきた者たちとは、すれ違うこともできなかったはずだ



その一点だけで、早くに逝った死者たちを「不幸」だと断罪することも、あるいは可能なのだろう



わたしの隣の席にいた、今回東京からわざわざ参加し、このグループ内では最もわたしと親しかった、現在は建設資材メーカーのやはり業務部長の男が、わたしの代わりにその問いを引き受けるようにこう答えた



確かに、あれで良かったのかも知れない。なぜって・・・アイツらは、歳をとることの苦労を知らずに死ぬことができたのだから・・・



それを聞いて、正面の二人は同時にテーブルに両肘をつき両手で頭を抱え込んだ



そして絞り出すようにこう言った



そうさ。アイツらには住宅ローンがない。新車のローンもない
おれなんか、後35年も家の支払いが・・・

うちは住宅ローンに加えて、この春から長女が医療系の専門学校に行くのでその学費が・・・

ローン返済のためだけに、引き続き馬車馬のように・・・



それを聞いて全員で爆笑したが、東京から来ていたわたしの隣の男だけは一人で俯いていた


わたしがその男の顔を覗き込むとその友人はこう言った


離婚した嫁と娘たちへの養育費が、もう半端でなくってさ・・・おれは孤独に、死ぬまで養育費のためだけに・・・独り、東京で・・・


内容とは裏腹に、その友人の言い方には自嘲こそあれ、どこかにユーモラスな雰囲気が含まれていた




そこで最後にもう一度大きな笑いが巻き起こった





福岡
2024





帰りは最寄駅からタクシーは使わずに、徒歩で歩いて帰ることにした



実家までは時間にしてみれば30分程度だろうか
別にタクシー代をケチったわけではなく、酔いを醒ますために少し歩きたい気分だったからだ

20代の頃は逆にお金に余裕がなかったので、深夜を過ぎればいつも歩いて帰っていたような気がする

そうして帰る際は、タクシー代を浮かす代わりに帰途に着くまでに点在しているコンビニで350mの缶ビールを買い、今でははしたないとは思うが、それをゆっくり飲みながら歩いて帰るのが常だった
特に真冬の寒い深夜に、キリリと冷えた缶ビールを飲むと、神経が研ぎ澄まされるような感覚があって昔から好きだったのだ

深夜で歩道に人は全くいなかったこともあり、酔いを醒ますどころか今回は久しぶりにそれをやろうかと思いながらも、その点在していたコンビニ自体がすでになくなってしまっていて、唯一開いている終夜営業のスーパーマーケットを目指して、春日公園に続く暗い街灯の夜道を一人で歩き続けた




福岡
2024



死んでいった3名の同級生たち同様に、自分のやりたいことの果てに迎える死とは一体どのようなものなのだろうか
それはもちろん百家争鳴で、おそらくは明確な答えなどは存在しないということくらいは、わたしにも理解はできる

死んだ3人の男たちのご両親やご兄弟、そして当時の恋人には、今夜集まった同級生の皆の感想とは大きく異なる、独特の悔しさが込められた思いを持ち続けて今を生きているに違いない


しかしわたしたちグループ、それも共に10代の後半から20代の前半というおそらくは人生で最も輝いていた、狂熱の時期を共に過ごすことができた仲間としては、やはり昔から統一された、そして一貫した思いを持ち続けていた



いや、アイツらは自分のやりたいことをやって死んでいったからそれで良かったさ



この台詞は、25年以上も昔からわたしたちの総意として存在し、今夜、なぜかわたしはそれに相槌こそ打たなかったが、基本的に同意はしている


そう
それで良かったのだ・・・

どう考えても、その「結論」は揺るぎがないはずなのだ・・・





そのようなことを考えながら一人で歩いていると、次第に両足に耐え難い激しい痛みを感じ始めた

原因は明白で、久しぶりに履いたホースレザーのブーツの靴ずれの痛みだった
年中常夏のインドネシアでは踝まで埋まるブーツなどは必要がないが、真冬の日本では重宝し、今夜久しぶりに大事にしていたブーツを履いてきたが、しばらくは履いていなかったせいで足に合わなくなってしまっているのだろう


騙し騙し歩いていたが、そろそろ限界だった


周りには人影も車も見当たらなかったが、近くにガソリンスタンドの灯りが見えた

しかも、1台のタクシーがセルフ形式のスタンドでドライバーの方が給油している最中だった



わたしは大きく手を振り、ドライバーの方がそれに気がついてくれて、大きく頷くのを確認すると、最前まで考えていた死んだ同級生たちのことを、再び心の中の「未解決」という名の引き出しの中にしまい込んで、タクシーの到着を待った











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2024年6月8日(土) 日本時間 AM7:00


H氏への斬奸状ざんかんじょう



H氏への斬奸状

































































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